2023年5月20日土曜日

〈藤原定家の時代366〉建仁2(1202)年7月1日~21日 定家の体調不良(不食の病)続く 慈円、天台座主辞任 俊成卿女(定家の14歳上の姉)、歌をもって院へ出仕 定家、後鳥羽院の水無瀬御幸に参仕(7/16~25) 定家、後鳥羽院から白拍子一人を与えられるが困惑して同宿せず 寂蓮(定家の兄、俊成の養子)没  

 


〈藤原定家の時代365〉建仁2(1202)年6月14日~29日 定家、「水無瀬釣殿当座六首歌合」で後鳥羽が定家の歌に合わせたのを知る 「炎暑の間、衆病競い起り、甚だ術なし」(「明月記」) 定家、為家を伴い日吉社に参籠(6/21~27) より続く

建仁2(1202)年

7月1日

・午の時、院に参ぜんと欲するの間、すでに川上に御幸。束洞院の面を御輿過ぎおわします。車を降り、還りて家に入る。馳せ参ずべきの処、馬を将来せず、力なきにより、なお倒れ臥す。(『明月記』)

7月2日

・定家、後鳥羽院より、三代集から各五首ずつ計十五首の撰進を命じられ、進上。

早旦、家長奉書していう。古今、後撰、拾遺の歌、各々五首、撰進すべしと。沈思するに及ばず、即ちこれを引見す。すなわち書きて進む。

巳の一点に、鳥羽に参ず。宜秋門院に参ず。良経に見参するの後、夕冷泉に帰る。(『明月記』)

7月3日

・午の時許りに院に参ず。慈円参じ給う。去る夜、法性寺座主法印(良尋、九条殿の御子、無動寺検校)逐電し、逝去し給うと、日来、師弟郤あり。殊に於て喧嘩。此の間、同宿しながら差し出でず、謁し申し給わず、遂に以てかくの如しと。これひとえに天魔のなすところ、彼の運の拙きなり。言うに足らず(『明月記』)

7月4日

・院に参ず。川上に御幸と。即ち参じ、一条大宮の辺りに於て騎馬、小時ありて御幸。予、衣裳を脱がず、一人群儀に背く。還りて恐れを懐くものなり。

不食の病、数日を送る、殊に以て力なし。(『明月記』)

7月5日

・坊城殿に御幸終ると。よって出仕せず。終日、蓬廬に臥す。無力。(『明月記』)

7月6日

・今日鴨禰宜の家に御幸。事すでに海内の財力を尽すのみ。なお病気により出仕せず。(『明月記』)

7月7日

・慈円、天台座主辞任。

7月7日

・巳の時、院に参ず。午終許りに退出。坊城殿におわしますと。不食、なお尋常ならず。無力、他所に出仕せず。(『明月記』)

7月8日

・巳の時許りに、院に参ず。兵衛佐具親語りていう、昨日慈円上表すと。日来、この事其の聞えあり。然りといえども、法印、逐電し給う、自他末だ落居せず。しばらくも程を過されず、もっとも物を急ぐに似たり。ひとえにこれ天魔の狂乱なり。仏法の破滅するか。(『明月記』)

7月8日

・定家、兼実に安居講説での布施を求められ歎く。

九条家から、安居(あんご)講説なる法会に布施を持って来いと求められ、「一日計略無キノ由申スノ間、重ネテ勘当ノ仰せ等アリト云々。刑有リテ賞ナシ。其レ本性ナリ。被物(かづきもの)一重、調(ととの)へ進ズべキノ由、憖(なまじひ)ニ領状ス。次第、極メテ堪へ難シ」(『明月記』7月8日条)という次第。

勘当は不興、譴責の意であり、主家である九条家との間柄にも隙間風が吹きはじめる。

7月9日

・夕に妻賀茂に参ず。今日、鴨禰宜の家に御幸と。為家、腹病痢気。さしたる大事にあらずといえども、ようやく数日を経、もっとも驚きに思うなり。(『明月記』)

7月10日

・院に参ず。今日坊城殿におわしますと。即ち退出し、倒れ臥す。(『明月記』)

7月11日

・定家病悩。清家(光家)も病悩。

心神不快により出仕せず。(『明月記』)

7月12日

・午の時、院に参ず。すでに川上に御幸の由、すなわち退出し、騎馬して参会す。夜に入り、少納言内侍の白川宅に向う。いささか示し付くる事あるによるなり。(『明月記』)

7月13日

・実全、天台座主就任

7月13日

・定家邸の上棟。

また、この日、俊成卿女(定家の14歳上の姉・八条院三条の子)の院への宮仕え始る。常の女房ではなくて、歌をもって出仕した。以降、歌道に精進し、宮内卿らと並び女流歌人として一流の地位を占める。

今朝、この宅、坤の方の仮棟を上ぐ。

酉の時許りに束帯し、春宮に参ず。

昏黒、押小路(万里小路)の俊成卿女の許に向う。この女房、今夜はじめて院に参ず。この事、終始もっとも狂気に似たり。夫通具、権門の新妻と同宿、旧宅荒廃するの間、歌芸により、院より召しあり、且つ又彼の新妻露顕する時、これらの事、皆構えて申し置くか。本妻を棄てて官女と同宿、世魂あるの致す所のみ、事又面目にあらずといえども、通具、一昨日行き訪うべきの由、相示す。又俊成同じく扶持すべきの由、仰せらる。よって、到り向かう所なり。この人の事、又母加賀殊に鍾愛し、見放ち難きの故なり。但し、毎事相公羽林沙汰すと。通親又、俊成の文を以て挙げ申す。

「已ニ禁色ヲ聴(ゆる)サルト。頗ル面目トナス。」

亥の時許りに、予車を寄す。未だ出でられざる以前に、先ず御所に参ず。車高倉殿の局に寄すべし(通親の妹)。その局に行く。俊成、殊に扶持すべきの由申す。よって参入の由、其の局に触れ終る。車、衣を出さず、門の中に入りて、先ず下るべし。参入するの後、予退出す。(『明月記』)

7月16日

・定家、後鳥羽院の水無瀬御幸に参仕。~25日。

早旦に京を出で、鳥羽に於て船に乗る。巳の時許りに、山崎の宿所に入る。

午終許りに御幸、即ち参上す。昏に退出す。人々大略例の如し。(『明月記』)

7月17日

・午の時許りに参上す。すなわち出でおわします。遊女着座す。例の如く歌いて退下す。ついで白拍子を召して舞う、これ上品の者にあらず、大略嘲弄す。この間、極熱術なきにより退出。(『明月記』)

7月18日

・午の時許りに参上す。水無瀬、川上の滝の方に御幸。(『明月記』)

7月19日

・定家、後鳥羽院から白拍子一人を与えられて困惑、同宿せず他の小屋を求めて、其処に泊める。

早旦。武衛と山寺を見る。巳の時許りに参上す。出でおわします。白拍子あり、最も下品。一両人舞い終りて退出す。

夕に、白拍子一人預かるべきの由、知貞触れ送る。即ち迎え寄すべきの由、下知。但し同宿せず。小宅を借りてこれに居らしむ。夜荒屋、雨漏りて計略を失す。(『明月記』)

7月20日

・俊成の養子寂蓮(定家の兄)、没。

定家、この日以後、寂蓮の死を悼み藤原雅経と和歌を贈答。

「浮世ノ無常、驚クベカラズト雖モ、今之ヲ聞キ、哀慟ノ思ヒ禁ジ難シ。幼少ノ昔ヨリ、久シク相馴レ、已ニ数十廻ニ及ブ。況ンヤ和歌ノ道ニ於テハ、傍輩誰レ人トセンヤ。已ニ以テ異ノ逸物ナリ。今、已ニ泉ニ帰ス。道ノタメ恨ムべク、身ニ於テ悲シムベシ」(『明月記』)

7月21日

・巳の時許りに院に参上す。向殿におわします後に退下。近辺の山家等を見る。涼風を求めるによるなり。(『明月記』)


つづく

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