2023年5月2日火曜日

〈藤原定家の時代348〉正治3/建仁元(1201)年10月5日~6日 後鳥羽院、四回目の熊野御幸(後鳥羽院22歳、定家40歳) 鳥羽の草津で船に乗り桂川~淀川を下り淀川尻の窪津(熊野街道の起点)に着く 住吉社歌会     

 

神坂次郎『藤原定家の熊野御幸』(角川文庫)


正治3/建仁元(1201)年

10月5日

・後鳥羽院、四回目の熊野御幸。

平安後期~鎌倉前期、上皇(院)の熊野御幸はほぼ百回。特に多かったのは、

白河院9回、鳥羽院21回、後白河院34回、後鳥羽院29回。

ときに後鳥羽院22歳、定家40歳。

このうち後鳥羽院の御幸が特異だったのは、道中主な王子や宿で歌会を催していることで、定家は、道中歌会に必要な人物として同道を求められた。熊野三山への往路16日間に10度の歌会。

定家は、一行より一足早く出立し、その日の宿所の調達など雑事に当る先陣の役を仰せつかっていた。初めての定家には厳しい仕事であった。

10月5日、出発

10月17日、大斎原(おおゆのはら)にある本宮の宝前に参着。

18日の天明、熊野川を下り新宮へ、19日に輿や馬で那智へ向かう。翌日、どしゃ降りの雨の中を出立、険しい雲取の峠を越えて本宮に戻る。

翌日からの帰路は脱兎の如く急ぎ、京へ戻ったのは26日天明であった。

後鳥羽院がこの行程中に詠んだ和歌をしたためたのが「熊野懐紙」で、この旅から帰った翌月、後鳥羽院は御幸に随従した定家や、和歌所の寄人たち、源通具(みちとも)、藤原有家、藤原家隆、藤原雅経、寂連に命じて「新古今和歌集」を撰集させる。

10月5日発向、26日入京するまでの熊野御幸供奉の記録は『明月記』の圧巻。

定家は、山荘のあった嵯峨へ静養に行くほかは、春日社・日吉社参詣、有馬の湯で療養したくらいで、住吉社に参詣したのも、この熊野御幸の折がはじめてであり、あとは、良経が伊勢神宮の公卿勅使で下向した折、同行したのみで、ほとんど京中難波を出たことがなかった。定家にはまことに貴重な旅であった。

・この日(5日)、晴天。定家、暁鐘以後、用意をととのえて参ず。左中弁(さちゅうべん、藤原長房)夜前に示していう。折烏帽子にて参じ、三津の辺りから立烏帽子を用うベしと。よって定家、折烏帽子(かねて俊光がこれを折る)、浄衣(じょうえ)で出立。御禊。殿上人松明を取って前行。御船に召すの間、私(ひそか)に船に乗って下る。

騎馬にて木津に出づ。殿方の人々昼養(はんさぎ、昼食)あり。予最前に船に乗り下る。

鳥羽の草津(木津、今津)から御幸の一行を乗せた屋形船は、桂川から淀川を下り、淀川尻の渡辺の浜、窪津に着く。現在の大阪の天満橋の西、江戸時代は伏見まで淀川を上下した三十石舟が発着した川港、八軒屋の浜である

大渡に着き、騎馬にて先陣。公卿等多く輿に乗る。先陣御宿に入り、院御禊。定家進んで、高良に奉幣。御経供養。定家、船に乗り下る。衣裳を解きて一寝する。

申(さる、午後4時)始めばかりに、窪津(熊野街道の起点)に着き、王子(熊野九十九王子の第一王子)を拝す。奉幣。里神楽終って、上下乱舞。

宿老の人々は定家と共に巳前に退出、騎馬で馳せ赴く。先陣して坂口王子、コウト王子に参る。

先陣、天王寺に参ず。定家等、騎馬にて先陣。参詣終って、御所に入りおわします後、宿所で食事。窮屈により、今夜御所に参ぜず。

「猶々此ノ供奉、世々(よよ、過去・現在・未来)ノ善縁ナリ。奉公ノ中、宿運ノ然ランム。感涙禁ジ難シ」

「人面目身ニ過グ。還リテ恐レ多シ。人定メテ毛ヲ吹ク(あらさがし)ノ心アルカ」

夜に入って左中弁奉書、題三首給う。明日、住の江殿に於て披講あるべしと講師(こうじ、朗詠役)を命じられる。窮屈の間、沈思する叶はず。

今夜、讃良(さらら、定家の荘園)の庄に宿し、これに勤任す。

〈御供の人〉

内府(源通親)

春宮権太夫(藤原宗頼、正確には私的なお供で、正式な御幸のお供ではない)

右衛門督(坊門信清)

宰相中将(西園寺公経)

三位仲経(藤原仲経)

大弐(藤原範光)

三位中将(久我通光、源通親の三男)

殿上人

保家(藤原保家)

定家

隆清(藤原隆清)

定通(土御門定通、源通親の四男)

忠経(藤原忠経)

有雅(源有雅)

通方(中院通方、なかのいんみちかた、源通親の五男)

上北面はほぼ全員

下北面は精撰した者

(上北面は殿上人、下北面は武士)

10月6日

・晴天。定家、払暁、私(ひそか)に馬を出し、阿倍野の王子(熊野神社の末寺)に参ず。先達を相伴い、奉幣の儀を致す。ついで住吉社に参詣、先達同じく奉幣。始めてこの社を拝し、感悦の思い極まりなし。

夜深きにより、小宅に入り休息。天明けて、叉社頭に参ず。

辰(午前8時頃)終りに御幸、御奉幣。御経供養終って、里神楽、相撲三番あり。住の江殿に入りおわします。

和歌を講ぜられる。住吉社歌会。定家召しによりて講師を勤仕。通親、序代を書く。詠吟終って退下し、小食。帰参する以前に、出御、馳せ赴く。今日は御馬である。

ついで境の王子に参ず。境に御禊あり(田の中なり)。此所より、先陣御昼養の御所に参ず。

ついで大鳥居の新王子。次いで篠田(信太)の王子。

平松の王子にて殊に乱舞の沙汰あり。これより御馬をとどめ、歩んで平松新造の御所に入りおわします。各々宿所に入る(国、皆悉く仮宿を儲ける)。

感嘆の思い禁じ難し。定めて神感あらんか。今此の時に退いて、此の社を拝す。一身の幸なり。今日宿の雑事、大泉の庄宇多の庄領状。共に見に来らず。尤も以て不便。

三間の萱葦の屋で板敷無し、やむなく土間に臥すが眠れない。板間の隙間から月の光が漏れている。風冷たく月明し。

定家は、住吉社にはじめて詣でて感激するが宿所の蓬屋の冷気には閉口している。

10月6日

・北条泰時、春に伊豆の飢民に米を貸し(出挙米(すいこまい)50石)たが、返済の時期になって台風で大きな被害が出たため、その符券(証文)を焼いて救済。

「江間の太郎殿昨日豆州北條に下着し給う。当所去年少しく損亡するに依って、去る春庶民等粮乏す。耕作の計を費え失うの間、数十人の連署状を捧げ、出挙米五十石を給う。仍って返上の期今年秋たるの処、去る八月大風の後、国郡大損亡。飢えに堪えざるの族すでに以て餓死せんと欲す。故に件の米を負い累ねるの輩、兼ねて譴責を怖れ逐電の思いを挿むの由、聞き及ばしめ給うの間、民の愁いを救わんが為鞭を揚げらるる所なり。今日彼の数十人の負人等を召し聚め、その眼前に於いて證文を焼き棄てられをはんぬ。豊年に属くと雖も、糺返の沙汰有るべからざるの由、直に仰せ含めらる。剰え飯酒並びに人別に一斗米を賜う。各々且つは喜悦し、且つは涕泣して退出す。皆手を合わせ御子孫繁栄を願うと。飯酒の如き事、兼日に沙汰人用意せらるる所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。


つづく


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