2023年5月1日月曜日

〈藤原定家の時代347〉正治3/建仁元(1201)年9月7日~10月3日 連日蹴鞠に没頭する頼家、鞠足の名手山柄行景を呼び寄せる 泰時、頼家近仕の中野能成に意見する この事で頼家の怒りをかい、泰時、一時伊豆に逃れる   

 


〈藤原定家の時代346〉正治3/建仁元(1201)年7月6日~8月23日 後鳥羽院が和歌所再興(俊成・定家ら寄人) 定家、後鳥羽院の熊野御幸の御供を命じられる「南山御共ノ事、已ニ催シアリ。面目過分ナリ。」 「甚雨、午の刻大風。郷里屋を穿ち、江浦船を覆う。鶴岡宮寺の廻廊・八足門以下、所々の佛閣塔廟顛倒す。凡そ万家一宇も全き所無しと。下総の国葛西郡海辺の潮人屋を牽く。千余人漂没すと。」「国土に於いては五穀を損亡し、庫倉に於いては一物も納めずと。」(「吾妻鏡」) より続く

正治3/建仁元(1201)年

9月7日

・頼家、鞠足の名手山柄行景(やまがゆきかげ)をよび寄せる。

この年、頼家は無聊を慰める為に蹴鞠に熱を入れた時期で、頼家の鞠会の記事に枚挙に遑がない。

「紀内所行景(鞠足)上皇の仰せに依って下着す。」

9月9日

・大江広元、行景を伴い御所に参上。頼家と対面し酒宴。

「廣元朝臣始めて行景を相具し御所に参る。」

9月11日

・頼家、行景らと蹴鞠。15日早朝にも。

「行景参着の後始めて御鞠有り。」

9月15日

・早朝、頼家、行景らと蹴鞠。その後、鶴岡八幡宮の放生会。義時(39)、頼家に供奉。

「早旦、御所に於いて行景を召し御鞠有り。」

9月20日

・御所で蹴鞠。頼家はこのところ政務を放り出し、連日の蹴鞠。今日は700回蹴り上げた。

「御所の御鞠なり。」

9月22日

・今日も蹴鞠。江間太郎(北条泰時)、頼家近仕の中野能成を呼び出し意見をする。

「また御鞠會。人数同前。今日人々多く以て見證に候ず。その中、江間の太郎殿(泰時)密々に中野の五郎能成に談られて云く、蹴鞠は幽玄の芸なり。賞翫せらるるの條庶幾う所なり。但し去る八月の大風に、鶴岡宮の門顛倒し、国土飢饉を愁う。この時態と以て京都より放遊の輩を召し下さる。而るに去る二十日の変異常途の儀に非ず。尤も驚き思し食さる。司天等に尋ね仰せられ、異変に非ずんば、此の如き御沙汰に及ぶべきか。且つは幕下御在世の建久年中、百箇日の間、毎日御濱出有るべきの由固く定めらるるの処、天変出現の由、資元朝臣勘じ申すの間、御謹慎に依ってその儀を止め、世上無為の御祈祷を始めらる。今の次第如何に。貴客は昵近の仁なり。事の次いでを以て盍ぞ諷諫申さざるやと。能成甘心の気有りと雖も、発言すること能わずと。」(「吾妻鏡」同日条)。

(現代語訳)

蹴鞠に情熱を傾けることは結構なことだが、先ごろには台風で鶴岡の宮門も倒壊し、国土が飢饉の状況でもあり、そんなおりに京都から放遊の輩を呼び寄せるのは、いかがなものでしょうか。あなたは将軍のお側に仕える身でもあり、機会あればこの旨を伝えて下され。

9月26日

・定家、召しよりて、良経の許に参ず。五十首の御歌(此の間、又題を進めらる。他人、其の事に入らずと)、院より急ぎ仰せらる。よって詠進するため、それをみるべき由、仰せあり。愚眼を加えて返上。少々なおお案じあるべき由申す。自余の歌は殊勝であった。

10月1日

・後鳥羽院、熊野御幸の精進(そうじ)始め。鳥羽離宮を精進所として籠り、魚、肉、葱、韮などを絶って潔斎する。

10月1日

「御所の御鞠。」。今日は360回の蹴り上げ。

10月2日

・泰時が中野能成に意見したことが頼家の耳に入り、そのことで頼家が怒っている。暫く伊豆に引きこもるよう忠告される。

翌3日、泰時、伊豆(北条)へ下向。

「夜に入り、親清法眼潛かに江間の太郎殿の館に参る。申して云く、去る月二十二日能成に談り仰せらるる事、具に聴に達す。但し紕謬相交わるかの間、父祖を閣き諷諫申さるるの條御気色に違うの由、慥にその形勢を見るなり。然れば御所労と称し、暫く在国せしめ給うべきか。先々他を見るに上の御気色強ち旬月を歴ず。ただ一旦の事なりと。亭主仰せて云く、全く諷諫申すに非ず。愚意の及ぶ所、聊か近習の仁に相談するばかりなり。罪科に処せらるるに於いては、在国に依るべからざるか。但し急事有り。明暁北條に下向せんと欲す。兼ねて出門せしめをはんぬ。今の告げに就いて構えて出ずるに非ず。貴房の推察を恥ずると称し、旅具(蓑笠等に至り悉くこの中に在り)等を召し出し見せしめ給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月3日

・後鳥羽院、日吉社へ御幸。


つづく


0 件のコメント: