正治3/建仁元(1201)年
9月7日
・頼家、鞠足の名手山柄行景(やまがゆきかげ)をよび寄せる。
この年、頼家は無聊を慰める為に蹴鞠に熱を入れた時期で、頼家の鞠会の記事に枚挙に遑がない。
「紀内所行景(鞠足)上皇の仰せに依って下着す。」
9月9日
・大江広元、行景を伴い御所に参上。頼家と対面し酒宴。
「廣元朝臣始めて行景を相具し御所に参る。」
9月11日
・頼家、行景らと蹴鞠。15日早朝にも。
「行景参着の後始めて御鞠有り。」
9月15日
・早朝、頼家、行景らと蹴鞠。その後、鶴岡八幡宮の放生会。義時(39)、頼家に供奉。
「早旦、御所に於いて行景を召し御鞠有り。」
9月20日
・御所で蹴鞠。頼家はこのところ政務を放り出し、連日の蹴鞠。今日は700回蹴り上げた。
「御所の御鞠なり。」
9月22日
・今日も蹴鞠。江間太郎(北条泰時)、頼家近仕の中野能成を呼び出し意見をする。
「また御鞠會。人数同前。今日人々多く以て見證に候ず。その中、江間の太郎殿(泰時)密々に中野の五郎能成に談られて云く、蹴鞠は幽玄の芸なり。賞翫せらるるの條庶幾う所なり。但し去る八月の大風に、鶴岡宮の門顛倒し、国土飢饉を愁う。この時態と以て京都より放遊の輩を召し下さる。而るに去る二十日の変異常途の儀に非ず。尤も驚き思し食さる。司天等に尋ね仰せられ、異変に非ずんば、此の如き御沙汰に及ぶべきか。且つは幕下御在世の建久年中、百箇日の間、毎日御濱出有るべきの由固く定めらるるの処、天変出現の由、資元朝臣勘じ申すの間、御謹慎に依ってその儀を止め、世上無為の御祈祷を始めらる。今の次第如何に。貴客は昵近の仁なり。事の次いでを以て盍ぞ諷諫申さざるやと。能成甘心の気有りと雖も、発言すること能わずと。」(「吾妻鏡」同日条)。
(現代語訳)
蹴鞠に情熱を傾けることは結構なことだが、先ごろには台風で鶴岡の宮門も倒壊し、国土が飢饉の状況でもあり、そんなおりに京都から放遊の輩を呼び寄せるのは、いかがなものでしょうか。あなたは将軍のお側に仕える身でもあり、機会あればこの旨を伝えて下され。
9月26日
・定家、召しよりて、良経の許に参ず。五十首の御歌(此の間、又題を進めらる。他人、其の事に入らずと)、院より急ぎ仰せらる。よって詠進するため、それをみるべき由、仰せあり。愚眼を加えて返上。少々なおお案じあるべき由申す。自余の歌は殊勝であった。
10月1日
・後鳥羽院、熊野御幸の精進(そうじ)始め。鳥羽離宮を精進所として籠り、魚、肉、葱、韮などを絶って潔斎する。
10月1日
「御所の御鞠。」。今日は360回の蹴り上げ。
10月2日
・泰時が中野能成に意見したことが頼家の耳に入り、そのことで頼家が怒っている。暫く伊豆に引きこもるよう忠告される。
翌3日、泰時、伊豆(北条)へ下向。
「夜に入り、親清法眼潛かに江間の太郎殿の館に参る。申して云く、去る月二十二日能成に談り仰せらるる事、具に聴に達す。但し紕謬相交わるかの間、父祖を閣き諷諫申さるるの條御気色に違うの由、慥にその形勢を見るなり。然れば御所労と称し、暫く在国せしめ給うべきか。先々他を見るに上の御気色強ち旬月を歴ず。ただ一旦の事なりと。亭主仰せて云く、全く諷諫申すに非ず。愚意の及ぶ所、聊か近習の仁に相談するばかりなり。罪科に処せらるるに於いては、在国に依るべからざるか。但し急事有り。明暁北條に下向せんと欲す。兼ねて出門せしめをはんぬ。今の告げに就いて構えて出ずるに非ず。貴房の推察を恥ずると称し、旅具(蓑笠等に至り悉くこの中に在り)等を召し出し見せしめ給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。
10月3日
・後鳥羽院、日吉社へ御幸。
つづく
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