建仁2(1202)年
2月1日
・定家、慈円の房に参ずると、参院の由。すなわち院に参じ、退出して、押小路万里小路(神祇伯宅)に向う。ここの俊成卿女の許に、俊成が来ている。通具同座、清談、時移って退出、夕九条に宿る。
俊成卿女と通具は、もはや別居していたが、こうして時には通具の来訪があったと思われる。
2月2日
「京都の使者到着す。去る月二十三日、左金吾正三位に叙せしめ給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。
2月2日
・定家、八条院八幡御幸に供奉。
2月3日
・定家、通親の直盧に向う。女院に昇殿の事、畏り申すの由を伝え、承明門院に参ず。殿上に昇り、女官を以て女房に申し入れ、退出して院に参ず。六条殿の若宮渡りおわしますと。若宮の御方に参じ、退出して高倉に帰る。
狩衣を着し、良経邸に参じ、申の時許りに御供して、九条殿に参じ、夕に法性寺殿に参ず。
亥の時許りに九条南殿に還りおわしまして後退出、又高倉に帰る。
この頃の定家の家は、冷泉、高倉と九条に在った。
2月5日
・定家、朝沐浴。心神甚だ悩む。咳病たちまち発る。~11日。
2月6日
・定家、咳病甚だ悩む。出で行かず。
2月7日
・定家、兼実より伊賀国大内庄を与えられる。
法性寺殿より召しあり。咳病を扶け参上。円能・聖覚両律師伺候、六十巻読誦の沙汰ありと。両人退下の後、深更に兼時を以て、下文一通を給わる。最勝金剛院の領の、伊賀国大内の庄を賜る。日来、法性寺法印の領だった所である。「最小ノ所ト雖モ、近辺ニ依リ」所望していた土地を下し置かれた。近日、北政所逝去をお嘆きの最中、此の事極めて以て本意となす。畏み申す由を申して退出す。
また、前年(建仁元年(1201)に、拝領した三崎庄にかかる課役を勤めがたいとして兼実にその地の辞退を申し出て、この日に認められる。
2月8日
・定家、咳病に悩む。
2月9日
・定家、兼実の渡っている御堂に参上。今日は北政所の御月忌の法事である。
申の時許りに、和歌所より三首の題を給う。
2月10日
・和歌所影供歌会。定家、昼高倉に行く。
秉燭以前、院参。俊成参加。夜半を過ぎ歌合終りて過去。召しにより講師を奉仕した。咳病いささかすすむ。
2月13日
・今日、定家の坊門の家を、壊しはじめる。亡母の忌日仏事。
2月14日
・寒空の下での定家(41)の勤め。
積雪一寸、甚だ寒し。巳の時、八条院に参ず。馬なきにより、中将殿の御馬を借り、御供して良経邸に参じ、見参に入る。
午の時許りに退出。鳥羽に赴きて船に乗り水無瀬殿に参ず(~17日)。東の釣殿の辺りに於て、水干を着す。夕に御幸、毎事例の如し。
この当時、着替えの衣裳は、袋に入れて従者が持って行ったらしい。
「・・・後鳥羽院が水無瀬の離宮へ移ってからのことになると、たとえば二月十四日などは「夜、雪地ニ積ム一寸許り。甚ダ寒シ」とあっても鳥羽から船に乗って行かざるをえず、十五日、「風雪。甚ダ寒ク・・・、今朝、召シニ預ル遊君、各々ニ衣裳ヲ賜フト云々。予ノ如キ貧人、此ノ中ニ入ラズ」といった有様で、そのまた明る日には 「雪飛ブ」なかで庭前に猿楽があり、いっそう寒い目に遭わねはならぬ。」(堀田「定家明月記私抄」)
2月15日
・風雪はなはだ寒く、冬天の如し。今朝召しに預かる遊君、各々に衣裳を賜うと。予の如き貧人、この儲けの人の中に入らず。兼定に一昨日仰せられ、調え儲くと。
申の時、例の如く遊女郢曲(えいきょく)を終る。早く退去して、其の後の事を知らず。(「明月記」)
2月16日
・天晴れて雪飛ぶ。巳の時に参上。今日猿楽、召しによりて御前の庭上に参じ、その芸をなす。公卿以下、御前の末座に候す。殿上人、上北面等閑所よりこれを見る。
申の時許り、事終らざる以前に退下す。各々馬一疋を賜りて出づと。
今晩女房小児、共に日吉に参籠す。(「明月記」)
2月17日
・早且に、後鳥羽院は、「片野ノ方ニ御幸ト云々、又云フ、播磨ノ方ト云々、定説ヲ知ラズ。」(「おそらく遊女あさりに行ったものと思われる」(堀田善衛))。
所労不快増加により、京に出づ。直ちに良経邸に参ず。今日、九条殿に渡られる。又女院の御所に参ず。今日、歓喜光院に御方違え。又帰りて良経の許に参じ、御供して九条殿に参ず。今日御座すべき方を御覧ず。夜に入り、女房渡しおわしますべき由、申さる。宗雅朝臣御供と。予、出車を献ず。此の間に追出し、九条に宿す。(「明月記」)
つづく
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