建仁4/元久元(1204)年
8月1日
・九条家の漢学特訓
中納言の許に参ず。良業真人参会す。左伝第一巻を受けしめ給う。九条に入り、叉良経に参じて退下、九条に宿す。(『明月記』)
8月3日
・定家、日野滞在中の兼実に参る
日野に参ず。二十三日より、兼実この寺におわします。御前に参ず。仰せを承り、小饌にあずかる。申の時、京に帰る。九条に休息し、又冷泉に帰る。(『明月記』)
8月4日
・源実朝、足利義兼の娘との縁談を断り、京の公卿の娘(前大納言坊門信清の娘)との縁談を進める(「吾妻鏡」同日条)。
「将軍家御嫁娶の事、日来は上総の前司息女たるべきかの由その沙汰有りと雖も、御許容に及ばず。京都に申されすでにをはんぬ。仍って彼の御迎え以下用意の事、今日内談有り。供奉人に於いては、直の御計らいとして人数を定めらる。容儀花麗の壮士を以て選び遣わさるべきの由と。」(『吾妻鏡』)
足利氏は、実朝との婚姻によって次期将軍の外祖父になりえたため、頼家の婚家比企氏の例がある以上、両者の結びつきに北条氏が不安を抱いた。第二の比企氏をつくり出さぬ方策として、京都の公卿の娘が選ばれた。
実朝の室となる坊門信清の娘の姉は後鳥羽院の後宮にあって坊門局と称する人物であったため、婚姻関係上、後鳥羽院と実朝は義兄弟となる。
また翌2年3月に奏進された『新古今和歌集』は、9月には鎌倉に届けられており、両者の関係が円満であったことがうかがわれる。とくに和歌を通じた関係は密接であり、「山はさけ海はあせなん世なりとも君にふた心わがあらめやも」の実朝詠歌は、彼の勤王の志を表現したものとされ、この歌を含む実朝の家集『金槐和歌集』は和歌史上高い評価を受けている。
8月4日
・出で行かず。(『明月記』)
8月7日
・部類あるべき沙汰あるも、皆病と称して参ぜず。『春秋左氏伝』の荒本を入手し、日夜校合。欠巻朽損の巻を補写
巳の時許りに、良経の許に参じ、御供して院に参ず。部類の沙汰あるべきの由、昨日催すといえども、皆病を称して参ぜずと。未の時、御幸終りて退出す。(『明月記』)
8月8日
・五辻殿落成、後鳥羽院移徒
召しにより良経の許に参ず。束帯して、良経の御供して、院に参ず。五辻の新御所に御移徒。(『明月記』)
8月15日
・五辻殿初度十五夜歌会。当座歌会。
夜より雨降る。未後にようやく晴れる。深更に月明かし。昏黒の程、日来所労出仕しなかったが、やっと良経の許に参ず。今夜、院十五夜の御会によるなり。
戌終許りに、御供して五辻の新御所に参ず。やや久しきの後、御巽の方、子午の廊に出でおわします。和歌所に別当以下、召しにより御前に参ず。別当、序を書く。殿上人仰せにより、下より歌を置く、具親・雅経(家長・秀能二人の歌、これに付く)義隆・経通・予・有家・隆衡(今夜初めて参ず。所望と)・通光・頼実・良経置かしめ給う。講師有家を召す。大臣読師。人々近く参ず。五首を講ぜられ終る。各々退下し、本座に復す。
ついで、当座の会。硯紙を置く。火を打ちたるが如し。良経、すなわち置かしめ給う。歌一首なり。各々退出す。(『明月記』)
8月18日
・信濃前司行長(「源氏物語」作者といわれる)、八条院の石清水八幡宮御幸を奉行。定家も供奉。行家と定家は八条院という共通の場を持つ。
8月22日
・定家、訪ねた公経から「讒言」のことを聞かされる(8月22日条)。定家が院の「御点」(歌評)をそしり歌の善悪は自分が一番よく知っているなどと誇っている、と和歌所の年頭家長が語り、それを聞いた隆房も、定家は和歌に自慢の気がある、などと言ったというもので、それが院の耳に入り、不快を招いているというもの。
左金吾亭に向う。「近日家長等讒言(ざんげん)シ、天気不快ノ事等多ク、告ゲ示サル。予、御点ノ歌等ヲ謗(そし)リ、歌ノ善悪一身ニ弁(わきま)ヘ存ズルノ由、誇張ノ気有リト云々。新大納言(公房)之ヲ聞キテ云フ、彼ノ身、和歌ニ於テ自讃ノ気色アリ。猶以テ奇怪ニ処セラル。世上恐ルベシト云々。」(『明月記』)
8月24日
・催しにより、院に参ず。和歌を部類し、晩に退出す。(『明月記』)
8月29日
・二階堂行光に前年与えられていた16ヶ所の荘園、若狭忠季に返される。
8月29日
・杲云(かううん)逮捕流刑
「他僧また二人召し出さると。一人中門廊の西面に在り。後聞、検非違使三人参り、各々下部を以て引っ張り退出す。これ日来不当を聞こし食し置くの間、遂に生涯を失うか。遠流の由宣下せらると。また法眼と(鎌倉並びに卿三位寵人、近代権門)。忽ち時政朝臣申すに依って遠流せらる。堂罪の計を失い、この僧の結構より源出す。また堂衆滅亡の時、その住宅資財等多く運び取る。穢物を論ぜず王子宮彼岸所に安置す。此の如き積悪神慮に背く。叡聞に達すと。」(『明月記』)
8月29日
・例の和歌部類あり、良経の御供して、院に参ず。(『明月記』)
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