建仁3(1203)年
9月16日
・倒れ臥す。(『明月記』)
9月17日
「壬午 掃部の頭入道寂忍注し申して云く、叡山の堂衆と学生と確執し合戦に及ぶ。その起こりと謂うは、去る五月の比、西塔釈迦堂衆と学生と合和せず。惣堂衆始めて各々別に温室を興す。八月一日学生城郭を大納言岡並びに南谷走井坊に構え、堂衆を追却す。同六日、堂衆三箇庄官等の勇士を引率し登山し、上件の城郭を攻め戦う。両方の傷死の者勝計うべからず。而るに院宣を下さるるに依って、堂衆は、同七日城を棄て退散す。学生は、同十九日城を出て下洛しをはんぬ。今に於いては静謐の由を存ずるの処、同二十八日また蜂起す。本院の学生同心し、霊山・長楽寺・祇園等に群居し、重ねて濫行に及ばんと欲すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
「後聞。今日山門の僧綱参院す。仰せに云く、この間の事惣て御沙汰有るべからず。衆徒これを聞き、勒兵会稽を遂げんと欲す。」(「明月記」同日条)。
9月21日
・頼家の鎌倉追放が決定、
「遠州(時政)・大官令(広元)等、沙汰を経られる」(『吾妻鏡』9月21日条)
9月22日
「忠経(一萬御前乳父なり)誅せられをはんぬ。」(「北條九代記」同日条)。
9月23日
・定家、八条院の美福門院月忌仏事に参仕
「頼家卿一定存命すと。或いは出家と云う。」(『明月記』)
9月24日
・定家、後鳥羽院の仁王経結願に良経の供で参仕
9月26日
・定家、宜秋門院の懺法に参仕
9月28日
・定家、厩方(近習・近臣の候う場、院と芸能の人との交流の場)に候うよう命じられる。御厩方に伺候することは、院の近臣として認められたという事。歌人として、昇殿を許され、奉仕しているが、これまで定家は、まだ近臣ではなかった。
越中の侍従、使を以て示し送りていう、御厩の片方に候すべき由、申し入る。勅許あり、早く参ずべしといえり。畏悦の由、申し終りぬ。此の間、神泉におわします。日次よろしきにより、今日参入す。彼の二間に参じ着く。信仲に逢い、此の由を示して退出す。(『明月記』)
9月29日
・時政、頼家を伊豆修善寺に幽閉。
「左金吾禅室(前将軍)伊豆の国修善寺に下向せしめ給う。巳の刻に進発し給う。先陣の随兵百騎。次いで女騎十五騎。次いで御輿三帳。次いで小舎人童一人(征箭を負う、騎馬)。後陣の随兵二百余騎なり。」(「吾妻鏡」同日条)。
9月29日
・定家、承明門院の故源通親仏事に参仕
10月3日
・武蔵守平賀朝雅(大内惟義の弟)、京都守護として上洛。
将軍実朝は武蔵国務を時政に委ねる。これは、比企氏という武蔵国の有力御家人が滅亡した後に同国への進出をねらった時政の意図によるもの。しかし、武蔵国の支配系統をめぐるこの変化は、在庁官人を束ねる惣検校(そうけんぎよう)として長く武蔵国の在地支配権を掌握してきた畠山重忠と時政との間に軋轢を生じさせる契機となった。
比企氏が滅ぼされるまで、幕府の武蔵国支配は、知行国主源頼家 ー 国守平賀朝雅(時政の後妻牧の方の娘婿) ー 惣検校畠山重忠(時政の先妻の娘婿)という指揮系統の下に行なわれていた。
やがて、重忠の子重保と平賀朝雅の不和対立が生じたことを利用した時政・牧の方の計略により、畠山重忠は討たれることになる。
後鳥羽院は、この月に鎌倉から京都守護として派遣された武蔵守平賀朝雅(北条時政と牧の方との間の娘婿)を重用し、笠懸の師匠とするとともに、伊賀国を知行国としてあたえ、さらに右衛門佐に任じる。
10月3日
・運慶と快慶、東大寺南大門の金剛力士像2体を完成。
10月5日
・定家、後鳥羽院の水無瀬御幸(~16日)に参仕。~8日。
10月8日
・実朝(12)、名越の時政邸で元服。北条義時と大江親広(時政と広元の嫡子)が陪膳をつとめる。
「今日、将軍家(年十二)御元服なり。戌の刻、遠州の名越亭に於いてその儀有り。」(「吾妻鏡」同日条)。
つづく
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