2023年6月11日日曜日

〈藤原定家の時代388〉建仁3(1203)年10月9日~18日 実朝の政所始、時政・広元別当 延暦寺の学衆・堂衆が抗争 官軍(佐々木定綱・大岡時親・葛西清重ら在京御家人)は堂衆を攻撃 「堂衆戦勝すと雖も大威を隔て夜遂に引き去ると。」(『明月記』)   

 


〈藤原定家の時代387〉建仁3(1203)年9月16日~10月8日 定家、御厩方に伺候(院近臣として認められる) 時政、頼家を伊豆修善寺に幽閉 武蔵国の在地支配権を巡る畠山重忠と時政との間の軋轢 実朝(12)、名越の時政邸で元服 より続く

建仁3(1203)年

10月9日

・実朝の政所吉書始(まんどころきつしよはじめ)。時政は大江広元とともに別当として着座。

一般に、9月に下された時政単独署判の下知状発給ともあいまって、時政の執権職就任と考えられてきた。しかし、政所別当として着座した広元、あるいは広元・時政両者の立場を「執権」と称した可能性がある。

〈広元と時政〉

実朝政所の別当には、北条時政が新たな別当となり、大江広元と肩をならべることになった。これ以前にも、広元のみが将軍家の政所別当の地位についていたわけではなかったが、平盛時・源邦業(くになり)・二階堂行政といった広元以外の政所別当たちは、あくまで官僚機構内での広元の同僚にすぎず、在京中の広元の職務代行者としての性格も濃かった。しかし、時政の別当就任は特別な政治的意味を持つもので、幕府内における北条氏の地位を強化するべく、将軍家政所にも基盤を置くことをはかったものである。

ただし、この時点での北条時政の立場を、幕政を主導する強大な権力者のように理解することは適当ではない。多くの教科書・概説書・事典類には、実朝が将軍となった建仁3年に、北条時政が「初代の執権となった」と記されている。確かに、実朝の政所吉書始の様子を記す『吾妻鏡』には、「次第の故実、執権ことごとくこれを授け奉る」と見えるが、文脈の上からは、この「執権」を時政と理解する必然性はない。故実の伝授は、むしろ「文士」の役割にふさわしいものともいえるから、「執権」とは広元を指している、あるいは広元・時政両者の立場を「執権」と称したと理解することすら不可能ではない。したがって、「関東執権」(『尊卑分脈』・「鎌倉執権」(『帝王編年記』)などといった広元を「執権」と称する諸史料の記述は、あながち後世の比喩的呼称とはいい切れない。"

「今日将軍家政所始めなり。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月10日

比叡山延暦寺の学衆と堂衆が抗争し、15日に日吉社の八王子山に立て籠もった堂衆を「官軍」が攻撃。朝廷が派遣した軍勢の主力は佐々木定綱・大岡時親・葛西清重ら在京御家人で、直接朝廷の命を受けて軍事活動を行っている。

10月10日

・定家、後鳥羽院の水無瀬御幸に参仕。~14日。

「武士等、四條坊門の河原に於いて、堂衆を追捕するの間、九人を斬り殺すと。」

車に乗り、河陽に参ず。桂河を渡る。三懸けあるの後、騎馬して、御所に参ず。留守の人々いう、昨日御狩なし、今日片野におわしますと。即ち退下す。申の時許りに参上す。日入りて、還御、退下す。(『明月記』)

10月11日

「人々云く、昨日討たるる法師、堂衆・学生の中の凶徒に非ず。梶井法印悪徒等を籠め置かれ悉く討たれをはんぬ。去る年山上に於いて、座主御住房を射る。衾宣旨(ふすまのせんじ)を下さるるの輩、その後憚りを成さず洛中に横行すと。」(『明月記』)

10月13日

「夜前台嶺に火有りと。武士・学生今日猶登らず。悪徒横行すと。」(『明月記』)

10月15日

「遅明に山僧(学生)登山すと。今日の由兼日これを申す。扶持せんが為武士を遣わす。武士難渋し、来十九日の由を申す。而るに学侶事すでに決するの由を称し、待たずして登ると。定綱(ササキ)濱手に向かう。時親(大岡)横川に向かう。午未時ばかり九條殿に参るの間、東方を望見す。涯奥翻風、カサイ又打ち立て登山すと。参着の頭の弁候ず。山の三綱参入す。学生追々使者を遣わす。すでに台嶺に登り、城郭を構うの由これを申すと。」(『明月記』)

10月16日

・定家、後鳥羽院の水無瀬よりの還御に供奉

晩鐘の程、京を出づ。月に乗じ、船に棹さす。天明、河陽に参着す。今日、還りおわしますと。巳の時に参上す。午の時に遊女着座す。乱舞、例を存す。すなわち還りおわします。予、先陣して、七条殿に参ず。入りおわしますの後、数刻、日入りて京極殿に還りおわします。親疎ともに狩衣にて供奉す。

「巷説。官軍すでに堂衆と合戦す。石弩乱発し、矢下雨の如し。疲兵創痛し多く敗亡すと。終夜武士多く入京す。皆病を扶け干戈に任ぜずと。」(『明月記』)

10月17日

・良経の御供して、院に参ず。官軍利あらざる由を聞く。髪の中に熱気あり、時成朝臣に診せると、冷せという。(『明月記』)

10月18日

・今朝、髪の中に熱気散ず。

「堂衆戦勝すと雖も大威を隔て夜遂に引き去ると。」(『明月記』)

「京都の飛脚参着す。申して云く、去る十日、叡岳の堂衆等、八王子山を以て城郭と為し群居するの間、同十五日官軍を差し遣わし、これを攻めらるるに依って、堂衆等退散すと。葛西の四郎重元・豊嶋の太郎朝経・佐々木の太郎重綱以下官軍三百人、悪徒の為討ち取られをはんぬ。伊佐の太郎・熊谷の三郎等先登に進むと。同十九日五幾七道に仰せ、梟党等を召し進すべきの由宣下すと。その間悲しむべき事有り。佐々木中務の丞経高・同三郎兵衛の尉盛綱、勅定を奉るに依って山門に発向せんと欲するの処、同四郎左衛門の尉高綱入道(黒衣、桧笠を着す)高野より来たり。舎兄等に謁す。而るに高綱入道が子息左衛門太郎重綱、伯父経高に属き出立するの間、入道子の行粧を見るべきの由を申す。重綱甲冑を着し父の前に来る。父暫くこれを見て、敢えて瞬きすること能わず。また詞を出さず。その後重綱休所に退去す。その際経高・盛綱等重綱に感じて云く、今度の合戦、芸を彰わし名を挙げ、勲功の賞に預ること、その疑い無しと。高綱入道これを聞いて云く、勇士の戦場に赴くは、兵具を以て先と為す。甲冑は軽薄、弓箭は短小なり。これ尤も故実たり。就中、山上坂本辺の如き歩立合戦の時、この式を守るべし。而るに重綱が甲冑太だ重く、弓箭大にして主に相応せざるの間、更に死を免かるべからずと。果してその旨に違わず。しかのみならず彼の時兵法の才学を吐く。盛綱等これを聞き、件の詞を意端に挿み、合戦を致すの処、一事としてこれに府合せざると云うこと莫しと。」(「吾妻鏡」同26日条)


つづく



0 件のコメント: