2023年6月20日火曜日

〈藤原定家の時代397〉建仁4/元久元(1204)年5月1日~26日 この月、定家、断続的に籠居 「病と称して倒れ臥し出で行かず」 

 


〈藤原定家の時代396〉建仁4/元久元(1204)年4月11日~29日 定家、昇進の希望叶わず奉公無益と悲嘆 より続く

建仁4/元久元(1204)年

5月1日

・定家、後鳥羽院鳥羽御幸に参仕

鳥羽殿に参ず。明日御狩、伏見の山鹿を駆り、鳥羽の山に追い入れらるべしと。近習の人皆参ず。京に帰る。(『明月記』)

5月2日

・定家、八条院の鳥羽院月忌仏事に参仕

中納言中将殿の許に参ず。御雑熱、減気あり。(『明月記』)

5月3日

・九条に在りて、出で行かず。(『明月記』)。4日も。

5月5日

・明日、五節の遊びを行わるべし、近習の公卿以下、殿上人六位となすと。乱舞遊宴あるべしと。無骨の者、召されず。もっとも然るべし。(『明月記』)

5月6日

・以後三ケ日、籠居。(『明月記』)

5月8日

・幕府、国司の訴えにより山海狩猟などの国衙の所役および国司・地頭の得分を定める。

「・・・山海の狩漁国衙の所役に従うべき事。塩谷の所当三分の一を以て地頭分と為し、抑留の儀を止むべき事。節料の焼米国司の得分たるべき事。以上三箇條、且つは国宣に随い、且つは先例に任せ、沙汰を致すべきの旨、地頭等に仰せ付けらる。左衛門の尉義村・左京の進仲業奉行たりと。」(「吾妻鏡」同日条)。

5月10日

・幕府、山内首藤経俊の守護を剥奪。代わって平賀朝雅を伊賀・伊勢両国の守護に補任(「吾妻鏡」同日条)。

「伊勢平氏等追討の賞の事、その沙汰有り。廣元朝臣・問注所入道等これを奉行す。朝雅伊勢の国守護職を補任す。また彼の輩の私領水田を給う。件の両国守護は経俊が本職なり。而るに平氏が片時の権威を恐れ逃亡するの間、改補せらるる所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

5月10日

・今度安井殿に行幸。所労を申して冷泉に帰り、倒れ伏す。(『明月記』)

5月11日

・以後、病と称して倒れ臥し出で行かず。(『明月記』)

5月15日

・最勝講。兼実の御子息両人の御所作、殊勝と (良田法印・良快僧都)。

5月20日

・後鳥羽院、春日社三十首を奉納

5月22日

・定家、後鳥羽院鳥羽御幸に参仕。以後、6月にかけてしばしば参仕

籠居の後、初めて鳥羽殿に参ず。九条に帰り、良経の許に参ず。(『明月記』)

5月26日

・良経の許に参ず。御不例、事のほかにむつかしくおわしまし、出でおわしまさず。(『明月記』)


つづく


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