建仁4/元久元(1204)年
6月2日
・定家、若宮(寛成親王)五十日に参仕
大雨未だ止まざるの程に門を出て鳥羽殿に参ず。(『明月記』)
6月5日
・定家、日吉社に参詣
6月6日
・中納言中将殿の許に参ず。吉富の禍事を申す。(『明月記』)
6月9日
・今日、院、得王を追放される。院の女房を奸(おか)すのゆえである。その女房は、皇女の母であり、これもまた追放された。得王は法眼実快の子で、院の寵童である。保家・実快等は、一条能保に親近していた。能保の猶子として、院に初参、弓馬の芸、抜群の者である。今日明日にも元服して、英華の器たるべきものだった。(『明月記』)
「真面目な、あるいはクソ真面目な文体(漢文)で記されている明月記を読んでいても、ときには吹き出し笑いに笑い出させられることがある。元久元年六月九日の記である。煩を避けるために私の文章に直してしまうと、
今日後鳥羽院は得王なる者を追い出された。院の申されるには、「保家卿に返せ、本父には返すな」と。保家は得王と同車して退出した。天下の幸人(得王)、今かくの如しだ。(得王が院の)女房を犯したからだ。この女がまた、院の皇女を生んでいたのだ。この女も追放された。この童子(得王)は、法眼実快の子で、保家と実快が一条禅門(源能保)のところに居候をしていたことから、能保の養子ということで初参させたものだ。これが外嬖(グワイヘイ)の寵、すなわち院の男色用に可愛がられ、弓馬のの芸も抜群であった。今日明日にも元服して、内裏の英華の器になる筈であったのに、今此ノ如シ。
後鳥羽院にいったい何人の女がいたか、それはもう数えがたい。天皇のための侍寝職(すなわち寝る役職である)として令制にあるものだけでも、皇后一、妃二、夫人(ぶにん)三、嬪四、計十人、令制はこの時代には実態とかなり異なってきているとはいえ、これに女御、更衣などぞろぞろといて、年に二人から四人くらいの子供が生まれているのであるが、これだけではなくて、後鳥羽の場合、遊女や舞女、白拍子などを引き入れたり、向こうから押しかけて来たりで、(略)女の数も子供の数もとても数えられぬ有様である。
そこへもって来て男色までが加わり、(後略)」(堀田善衛『定家明月記私抄』)
6月13日
・定家、大内行幸に供奉
6月15日
・熊野の行遍法橋来談、歌人である。(『明月記』)
6月22日
・早旦、中納言殿の許に参ず。良業真人、尚書を授け奉る。申終許りに、良経の許に参ず。今日、御作文あり。去る十二日詠史あり。詩の序、清撰。時々この如き普通の事あり。諸儒等を召すべきの由、儒教等申し行うと。よって採用なきの輩、皆もって参入す (実は御入興なきか)。予又その事に接す。殿下御絶句と。(『明月記』)
6月26日
・院、御不例、殊のほかに御増加と。(『明月記』)
6月27日
・院に参ずると、御悩、事の外重く、奏する事など、通ぜずという状態である。(『明月記』)
6月28日
・夜前今朝、車馬奔走す。院の御悩重い由、人々告ぐ。早旦に馳せ参ず。去る夜今朝、種々の御祈あり。御温気熾盛、供御のもの全く通ぜず。近臣集会す。暑気堪え難きにより退出す。後に聞く、物忌の良経も参入したと。(『明月記』)
6月29日
・早旦、良経の許に参じ、御供して院に参ず。今日すこぶるよろしくおでますと。天下の慶びなり。(『明月記』)
7月1日
・巳の時許りに院に参ず。去る夜今朝、事のほか無為。大略御減かと。八条院に出車を進む。(『明月記』)
7月2日
・定家、鳥羽殿での八条院の鳥羽院月忌仏事に参仕
7月10日
・日来、所労快からず。腹痛術なしといをも、申の時許りに、相扶けて良経の許に参ず。すなわち出でおわします。深草の辺りに於て、車に乗る。御船を以て河を渡り、宇治の新御所につく。今夜事なし。ただ経営するのみ。深更、宿所に退く。(『明月記』)
7月11日
・定家、後鳥羽院宇治御幸に参仕。~16日。
辰の時許りに参上す。緇素(しそ)集会奔走す。儲けらるもの、装束など一間の所に取り置く。未の時に御幸。公卿・殿上人、かくの如き旅の御供に参ずる輩、一人も残さず。有家朝臣・予等これに加わる。皆布衣なり。しばらく釣殿におわします。入りおわしますの後、公卿水干を着す。殿上人に直垂を給う。予の如き、ことさらに早く出づ。今日御笠懸あり。良経御見物に参ぜられる。(『明月記』)
7月12日
・院の御所に参ず。御狩という。太政大臣直垂を着して、御狩に参ずと。退出するの後、経蔵に参ず。良経以前におわします。有家朝臣衣冠、御経蔵を開くためなり。種々の珍しき物あり。今日の御狩、雨によって還御。(『明月記』)
7月13日
・後鳥羽院狩猟の間、定家、宇治平等院の宝蔵を見る
院に参ず。御狩おわしますの間、列居するの後、宝蔵に参ず。又種々の珍しき物を見る。(『明月記』)
つづく
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