建仁4/元久元(1204)年
11月26日
・実朝、京都の画工に将門合戦絵12巻を描かせる。この日、京都よりこれが到着(「吾妻鏡」同日条)。
11月26日
・明け方、定家は、父俊成と同居する兄成家から俊成危篤と聞き、騎馬して成家の六角邸にかけつける。俊成の希望により、俊成を法性寺邸に移す。
俊成、二十五日より御病の気あり、事のほか危急の告げあり、驚いて病を扶けて馳せ参ず。俊成は、急いで法性寺に渡りたいという。御病の事、誠に恐るべし。御身すこぶる熱し。又右顔、すこぶる腫れる。俄にかくのごとき状態にて、飲食も通じない。法性寺へ渡ること、遠路不便ながら、止めようがない。九十一歳の身、この度はもはやたのみ少ない。
定家は、未明以前に一旦家に帰る。巳の時、すでに法性寺に移った由を聞き、暁に鳥羽より帰ったばかりの健御前と同車し法性寺に行く。見れば、遠路にて、ほとんど前後不覚の状態である。定家と健御前と近習の小男が抱き下ろし臥す。堂はもとより荒廃していて、冷気烈しい。兄の成家も来ている。言葉は交わせないが、意識ははっきりしている。定家は、日来病悩、冷気堪え難く九条に帰る。(『明月記』)
11月27日
・定家、俊成と和歌について話す。定家の姉妹、見舞に訪れる
俊成、今日は話が出来、和歌のことなど語る。食事は不通。顔はやはり腫れている。俊成卿女が、旧夫通具(みちとも)と共に馳せつける。今は別居しているが、危急の場合にて、年来の如く同車して来た。姉の閉王御前、上西門院五条の局・竜寿御前・愛寿御前も集まる。昏に及びて、大変苦しむ。(『明月記』)
11月28日
・俊成の気色、同じ状態にて、殊に身体が痛む。(『明月記』)
11月29日
・俊成、静快より受戒。雪を喜び食する
呼ばれて最勝金剛院の兼実の許に行くと、兼実は「臨終のことは一生に一度の大事であるから、秘計を廻し注意して事にあたるように」と言う。骨の痛みには、湯船に馬の食するものを入れて、温湯を入れ、上に蓆(むしろ)をしいて蒸すのがよいと教えられる。
俊成は、病気になってからしきりに雪をもとめる。文義(定家の家司)が北山から求めてくる。咽喉がしきりに鳴る。
六角尼上が息子の侍従敦通(あつみち)と来る。公仲(きみなか)侍従の妻(俊成卿女の妹)も見舞いに来た。昏に静快参入、授戒する。意識はたしかである。
夜に入って、冷病又術なく、九条に静快と同車して帰る。夜半、留めて置いた青侍が来て、今夜はしずかであるが、咽喉の鳴る事は増すという。しきりに雪など冷たいものを欲するのは、咳病のためであろうか。今夜は、竜寿御前もついている。(『明月記』)
11月30日
・俊成(93)、念仏して臨終
周章して馳せ参ず。念仏の声高く聞え、すでに終息。開眼すれど、まだ呼吸がある。
健御前の言によれば、雪を殊によろこび、しきりにこれを召し、〈めでたきものかな。なほえもいはぬものかな〉といい、又〈おもしろいものかな)と。人々しきりに恐れをなし、雪をとり隠す。又夜半ばかりに召す。なお尋ねて雪を求める。志ある由、俊成はしきりに感謝する。その後御寝。この間、小僧念仏の声を断たず。
「此ノ天明ノ程ニ仰セラレテ云フ、しぬべくおぼゆト。此ノ御音ヲ聞キ、忩(いそ)ギ起キテ御傍ニ参ズ。申シテ云フ、常よりも苦シクオハシマスカト。頷(うなづ)カシメ給フ。申シテ云フ、さらば念仏して、極楽へまいらんと思食(おぼしめ)せト。」
起きたいのですかと問うと、又うなずくので抱き起す。事のほか苦しげに見えるので、小僧を近寄せ、念仏を勧める。念仏して、やすらかに終った。見ている中に、遂に息絶え、臥す。まことに正念見事な大往生であった。(『明月記』)
この日の『明月記』には、漢文の中に父の言葉としての和文が入ってくる。
雪をもとめて、「殊令悦喜給、頻召之、其詞、めでたき物かな。猶えもいはぬ物かな。猶召之。おもしろいものかな。人々頻成恐、取隠之。」
一代の歌人俊成にふさわしい風雅幽玄の終命の言葉である。
遺言状が六角にあり。今夜、籠りの僧のことを大略定めて、隣の小屋を借りて宿す。加賀(定家の母、俊成の妻)の折の籠憎が臨終に祇候している。(『明月記』)
つづく
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