2023年6月18日日曜日

〈藤原定家の時代395〉建仁4/元久元(1204)年3月21日~4月10日 定家、吉富荘を横領される 定家、良経への奉公も詮なしと思う 「奉公更ニ詮無シ」 三日平氏の乱(伊勢・伊賀の平家の残党が挙兵、鎮圧される) 

 


〈藤原定家の時代394〉建仁4/元久元(1204)年2月12日~3月20日 定家、越中内侍から所望(昇進)叶い難いと聞き悲嘆 八条院姫宮(以仁王女)没 義時(42)従五位下相模守 山内首藤経俊が伊賀・伊勢の叛乱鎮圧に失敗したとの報告 より続く

建仁4/元久元(1204)年

3月21日

・この日の院御所議定の決定に基づいて、平賀朝雅は追討使だけでなく伊賀国知行国主にも任じられ、翌22日、200騎ばかりを率いて下向した。この措置は、国衙を掌握して人員や兵粮などの軍需物資を確保できるように、朝廷側が追討活動の便宜をはかったものであり、朝雅は美濃国を迂回して伊勢・伊賀両国に侵攻し、4月10日から12日にかけての3日間の戦闘によって反乱をほほ平定した(そのため「三日平氏」の名がある)。

3月21日

・この一両日、伊勢平氏謀反のこと噭々の由、その聞えあり。その勢千人に及ぶと。(『明月記』)

3月23日

・定家、八条院の美福門院月忌仏事に参仕

3月24日

・歯痛む。心神冷然たり。出仕せず。(『明月記』)

3月25日

・定家、吉富荘のことにつき八条院に訴える。定家が吉富の荘園で使っていた悪僧杲云(かううん)が、卿三位兼子と共謀して定家の吉富荘を横領。

吉富庄、卿三位の庄となし、押入らる。解状を八条院に持参し、これを申し入れる。御腰のことにより、御灸治とのこと.(『明月記』)

3月27日

・夕、嵯峨に行く。静快の庵室に宿る。方違えのためなり。(『明月記』)

3月28日

・定家、良平著陣に扈従

3月29日

・定家、後鳥羽院の御修法結願に参仕

3月29日

・伊勢・伊賀両国に進発した朝政から報告がなく、大江広元は、京幾の御家人たちが朝政の下知に随って現地へ出動するよう命じた。

「伊賀・伊勢両国の平氏謀叛の事、その後左右を申さざるの間、頗る御不審無きに非ず。仍って今日昼夜雑色等を遣わさる。武蔵の守朝雅が下知に随い発向すべきの旨、重ねて京畿御家人の中に仰せらると。廣元朝臣これを奉行す。」(『吾妻鏡』同日条)

3月30日

・定家(43)、良経を歯がゆく思う。官位の推挙なければ、良経への奉公も詮なしと思う。

「所望ノ事、更ニ御吹挙(推薦)ノ御心無シ。奉公更ニ詮無シ。(中略)余命幾バクナラズ、何(いづ)レノ日ヲカ期セン。」(『明月記』)


4月1日

・実朝、駿河・武蔵・越後の検注を令ずるも遵行されず。

「駿河・武蔵・越後等の国々、重ねて内検を遂ぐべきに依って、宣衡・仲業・明定等を下し遣わさるべきの由その沙汰有り。廣元朝臣・清定奉行たり。」(「吾妻鏡」同1日条)。

「駿河以下三箇国内検の事、先日決定せしむと雖も、重ねてその沙汰有って延引す。これ去年御代始故、撫民の御計らい有るべきに依って、有限の乃貢、猶員数を減ぜられをはんぬ。今年その節を遂げらるるに於いては、民戸定めて休み難きか。然れば善政を行われざるが如し。暫く閣かるべきの由と。」(「吾妻鏡」4月16日条)

4月1日

・良経男教家元服。定家の長男光家、院の昇殿を仰せられる。4月21日、拝賀の装束を整えて参院し、舞踏(丁寧な挨拶)をした後、定家と共に越中内侍に謁して退出。

辰の時京を出て、日吉に参詣。申の時宮過り、通夜。今日、良経の若君御元服と。従五位上に叙せられ昇殿と。(『明月記』)

4月2日

・暁、京に帰る。夜に入り、中納言中将殿の許に参ず。二十七日より、この殿、雑熟とのこと、その後、連々相障りて参ぜず。よって今夜参ず。今日減気と。(『明月記』)

4月7日

・物忌みの由を称し、籠居。(『明月記』)。8日も。

4月10日

・三日平氏の乱。

平賀朝雅軍、攻勢に出て、若菜五郎盛高を関の小野で討つ。基度・盛光・四郎・九郎を誅殺、河田刑部大夫を捕縛。雅楽助三郎盛時、逃亡。12日、叛乱鎮圧。

伊勢平氏の叛乱は、まず元暦元年(1184)7月、出羽守平信兼を中心に伊勢・伊賀両国の平家一族が蹶起し、伊賀守護大内惟義の率いる鎌倉勢によって鎮圧され、富田家助(資)、平家継、平家清(頼朝を除名した宗清の子)等は討ちとられ、信兼や藤原忠清らは姿を晦した。叛乱は一応鎮定されたけれども、伊勢平氏や伊賀平氏の根は、広く深く伸びており、この程度の追討では払拭されるものではなかった。

「三日平氏の乱」は、元暦の叛乱を企てた、伊勢・伊賀両国の平家の残党が雌伏20年の後に企てた一揆で、彼らは将軍頼家の廃除をめぐる幕府の内訌を好機として、挙兵した。

「武蔵の守朝雅が飛脚到着す。申して云く、去る月二十三日出京す。爰に伊勢平氏等鈴鹿の関所を塞ぐ。険阻を索めるの際、縦え合戦を遂げずと雖も、人馬これを通り難きに依って、美濃の国を廻り、同二十七日伊勢の国に入る。計議を凝らし、今月十日より同十二日に至り合戦す。先ず進士三郎基度(もとのり)が朝明(あさけ)郡富田の館を襲い、挑戦刻を移す。基度並びに舎弟松本の三郎盛光・同四郎・同九郎等を誅す。次いで安濃郡に於いて岡の八郎貞重及び子息・伴類を攻め撃つ。次いで多気郡に到り、庄田の三郎佐房・同子息師房等と相戦う。彼の輩遂に以て敗北す。また河田刑部大夫を生虜る。凡そ狼唳両国を靡かすと雖も、蜂起三日を軼(す)ぎず。件の残党猶伊賀の国に在り。重ねてこれを追討すべしと。」(「吾妻鏡」4月21日条)。

「朝雅が飛脚重ねて到来す。去る月二十九日伊勢の国に到る。平氏雅楽の助三郎盛時並びに子姪等、城郭を当国六箇山に構う。数日相支えると雖も、朝雅武勇を励ますの間、彼等防戦に利を失い敗北す。凡そ張本若菜の五郎城郭を構える処所、所謂、伊勢の国日永・若松・南村・高角・関・北野等なり。遂に関・北野に於いてその命を亡ぼすと。度々の合戦次第・軍士の忠否等、分明にこれを註し申す。山内首藤刑部の丞経俊・同瀧口の六郎等、始めは平氏の猛威に怖れ逐電せしむと雖も、後は朝雅に行き逢い、相共に征伐を励むの由、同じくこれを載すと。」(「吾妻鏡」5月6日条)。


つづく

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