元久2(1205)年
1月1日
・北条時政、垸飯(おうばん)を源実朝に献上。
「遠州椀飯並びに御馬・御劔以下を献らる。」。
3日「千葉の介椀飯を献る。」(「吾妻鏡」同日条)。
1月1日
・定家、亡母十三年遠忌料として法華経を写経。~11日。
1月3日
・土御門天皇、元服。
1月3日
・定家喪中にて終日写経。(『明月記』)
1月4日
・俊成法事。(『明月記』)
1月5日
「将軍家正五位下に叙せしめ給う。」(「吾妻鏡」同日条)。
1月8日
・定家、方違えのため、嵯峨に行く。雪、紛々たり。(『明月記』)
1月11日
・定家、仏師を呼び、地蔵の像を造るべく依頼。又千手観音画像もあつらえる。去年七月、宇治で母加賀の夢を見る。わが罪障心中悲しみを増し、この事をいとなむ。(『明月記』)
1月13日
・俊成法事、成家修す。(『明月記』)
1月14日
・定家、金光明経を書写
1月17日
・吉田社の南に、院の御所を建てられるため、諸人の領を押し召されると、定家、竜寿御前に聞く。(『明月記』)
1月18日
・俊成四十九日仏事。
俊成法事、雪殊に甚だし。(『明月記』)
1月20日
・後鳥羽院水無瀬御幸。~27日。
1月20日
・良経の子の道家、従三位に叙せられる。(『明月記』)
1月21日
・定家、越部荘より運上の船が沈む
1月22日
・慈円より歌を贈られる。(『明月記』)
1月23日
・定家、為家を公経・八条院・宜秋門院・良経に参らせる
1月24日
・定家、仏事のため妻子とともに嵯峨に滞在。~2月20日。
1月29日
・実朝、右近衛権中将。
「去る月二十九日の除書到着す。将軍家右中将に任ず。加賀の介を兼ねしめ給う。善信この聞書を御前に持参す。」(『吾妻鏡』2月12日条)
1月30日
・後鳥羽院水無瀬御幸。2月12日。
2月9日
・定家、海慧僧都を呼び、嵯峨の持仏堂に安置した地蔵木像、千手観音画像の開眼供養を営む。兄・姉妹参列。
1月12日
・定家、永代の繁栄のために修二月会を修す。先祖四代夫妻の忌日仏事を嵯峨の堂にて修することを決める。
先祖四代とは、長家・忠家・俊忠・俊成を指し、仏事を御子左家(みこひだりけ)の祖長家からとするところに、定家が和歌の家を強く意識したことを思わせ、忌日仏事を「恒例の事となし、不退転となす」(『明月記』)と記し定家の決意のほどを感じさせる。
嵯峨からの帰京後は、翌日より毎日参院し、和歌所での新古今の編纂の仕事を熱心にこなしている。
1月13日
・定家の亡母の十三回忌忌日仏事
1月16日
・もと白拍子石、丹波の局、凞子内親王を生む。簾を編むものの女、被差別部落出身である。(『明月記』)
1月17日
・北条義時(43)、実朝に供奉して鶴岡宮に参宮。
2月19日
・定家、和歌所での撰歌等の作業に毎日参ずべき由命じられる。以降連日和歌所で撰集作業。~27日。
日の入る以後、院に参ず。家長・秀能・宗宣、和歌所に在りて呼び入る。この日来、撰歌の詞を書き、切り継ぎ殊に急がれる。毎日参ずべしと。夜に入りて退出し、嵯峨に行き宿す。風病更に発る。(『明月記』)
2月20日
雪飛ぶ。早旦、嵯峨を出て冷泉に帰る。巳の時許りに院に参ず。終日、日﨟。具親・宗宣・家長等、この事を沙汰す。家長・盃酌を行う。去年、予この事に接せず、所役を果すべきの由、各々これを示す。なまじいに領状す。(『明月記』)
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿