建仁4/元久元(1204)年
1月2日
・俊成の許に参ず。今年九十一歳。御気力甚だ無為。悦びとなす。(『明月記』)
1月3日
・定家、病により外出せず。4日も。
1月5日
・良経従一位に叙される。実朝従五位上に昇叙。
1月5日
・定家、後鳥羽院の八条院への御幸始に供奉
1月7日
・定家、良経の叙従一位拝賀に供奉
1月8日
・定家、卿三位兼子の縁を求めて五辻の宮女房に謁する。公経(義弟)に昇進のことを示し合わす。
1月11日
・定家、痢病を病む。
1月12日
・実朝の「読書始め」。
源仲章が侍読(じとう)を務める。教科書は儒教の教典の一つの『孝経』。『孝経』は儒教の教典の一つで、親を愛する孝は徳の根本であり、天子の政治だけでなく、諸侯、卿大夫、士、庶人までの行動原理であると論じた書物である。仲章は、「才名の誉れ」があるわけではないが、多くの書籍を集め、「百家九流」に精通した学識豊かな学者であったという。これがきっかけとなり、後年には政所別当に就くなど、実朝の側近として幕府・実朝と後鳥羽上皇の朝廷を結び付ける役割を果たすことになる。
源仲章は後鳥羽の近臣。『愚管抄』には、光遠の子であったが、家を興して儒家に入り菅原長守の弟子となって学問を修めたという変わった経歴の持主。「事の縁」があって関東の将軍の師となったことから、実朝は武よりも文に心を染めるようになり、また仲章は京と関東を往来する飛脚の沙汰を行うなか、将軍に中国の例などを教えていった。
1月12日
・定家、後鳥羽院法勝寺御幸に供奉
1月13日
・定家、宜秋門院の供で御堂修正会に参る
1月14日
・定家、病悩。~19日。この日は良経夫妻の供で御堂に参る。
1月15日
・窮屈病悩し、さし出でず。終日倒れ臥し沐浴す。寒気の病、甚だ術なし。(『明月記』)
1月16日
・病気不快により出仕せず。(『明月記』)
1月17日
・頭甚だ痛む。出で行かず。(『明月記』)
1月18日
・北条義時(42)、実朝の奉幣使として二所詣に参宮。
1月18日
・後鳥羽院、水無瀬御幸。~2月10日。
院、水無瀬殿に御幸と。白拍子をあずかるべきの由、清範告ぐ。よって忠弘をして先陣せしむ。所労術なきにより、出で行かず。今日、良経若君、中山殿におわしますと。御供に催しありといえども不参。(『明月記』)
1月19日
・定家、オーロラを見る。定家は何かの予兆と怖れる。
「病気甚不快。静快已講ヲ招キ、護身ヲ加フ。仁和寺法眼・高倉少将入り坐ス。秉燭以後、北幷ニ艮ノ方ニ、赤気アリ。其ノ根ハ、月ノ出デ方ノ如シ。色白明ニシテ其ノ筋遥カニ引キ、焼亡スルガ如クニ遠ク光ル。白キ色四五所、赤キ筋三四筋。雲ニアラズ雲間ノ星宿ニアラザルカ。光卿カモ陰ラザルノ中ニ、此ノ如キ白光赤光、相交ハル。奇シテ尚奇スベシ。恐ルベシ、恐ルベシ。」(『明月記』)
〈『明月記』と『宋史』の記述から、平安・鎌倉時代における連発巨大磁気嵐の発生パターンを解明〉
国立極地研究所(所長:白石和行)、国文学研究資料館(館長:今西祐一郎)、京都大学(総長:山極壽一)等の研究者からなる研究グループは、『明月記』などの古典籍に残されたオーロラの記述と、樹木年輪の炭素同位体比を比較することなどにより、平安・鎌倉時代における巨大磁気嵐(注1)の発生パターンを明らかにしました。(略)
藤原定家(1162-1241)が残した『明月記』には、1204年2月21日と23日(*引用者註:新暦)、京都でオーロラが見えたとの記述があります。これは1週間のうちに何晩も、京都のような緯度の低い地域でオーロラが観測された「長引く赤いオーロラ」の記録としては、これまでに調査されている中では日本で最古のものです。中国の歴史書『宋史』には、同じ2月21日に、太陽に大きな黒点が観測されたという記述があります。これらの記述は、現代的な観測データから推定する限り、太陽から噴き出たコロナ質量放出(注2)が何度も地球に直撃することで、大きな磁気嵐が単発で終わらず何度も発生する「連発巨大磁気嵐」が起こっていたと考えられます。(後略)
つづく
オーロラが最も見えやすかったのは「鎌倉時代」…藤原定家「明月記」にある「赤い光」と合致 : 読売新聞オンライン https://t.co/bcPCgyGG6s
— 黙翁 (@TsukadaSatoshi) June 13, 2023
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