2023年6月19日月曜日

〈藤原定家の時代396〉建仁4/元久元(1204)年4月11日~29日 定家、昇進の希望叶わず奉公無益と悲嘆 


 〈藤原定家の時代395〉建仁4/元久元(1204)年3月21日~4月10日 定家、吉富荘を横領される 定家、良経への奉公も詮なしと思う 「奉公更ニ詮無シ」 三日平氏の乱(伊勢・伊賀の平家の残党が挙兵、鎮圧される) より続く

建仁4/元久元(1204)年

4月11日

・良経の若君(典侍の腹、母は宜秋門院女房の左馬助政綱女か)、今日はじめて慈円の御房に参じ給う。中納言中将殿御同車と。御供の催しありといえども、障りを申して参ぜず。この若君母儀の所行、甚だ甘心せず。迎送の志なし(この若君の誕生、御一門の遺恨か)。(『明月記』)

4月12日

・祭除目あるが、定家の所望叶わず、奉公無益と悲嘆

祭の除目。両方の所望、更に許容なし。奉公甚だ無益。今日出でゆかず。(『明月記』)

4月13日

・定家(43)、この月の除目にも望みは叶えられず(蔵人頭に任じられず)。

藤原盛経が右少弁、北条時政の子で実宣の妻の兄弟の藤原政憲が左馬助になり、「在朝の中将皆非人、あるいは放埒の狂者、尾籠白痴(びろうはくち)、凡卑の下臈、上臈を超ゆべからず。上臈の器に非ずして昇進の道理なきの由評定と云々、毎除目にあまつさえ五十人を加う、末代の中将疋夫(ひっぷ)に異らず」と罵倒、盛経や兼定に対して、「漢字を書かず、商賈(しょうか)の力によって造作の勤仕を加う」と非難。この時、定家は中将(正四位下左近衛中将)で、その次を狙う。

除目の聞書を見る。「在朝ノ中将皆非人、或ハ放埓ノ狂者、尾籠ノ白痴。凡卑ノ下﨟、上﨟ヲ超エペカラズ。非器ノ上﨟、昇進ノ道理ナキノ由、評定スト云々。除目毎ニ、剰へ五十人ヲ加フ。末代ノ中少将、疋夫ニ異ラズ。両全ノ所望、遂ニ以テ許サズ。兼定・盛経・成業、業ヲ成スニアラズ、漢字ヲ書カズ。商賈ノ力、造作ノ勤メニ依り加任。為長ノ弁官、世驚クべシ。盛経ハ父ノ子ナリ。兄ノ弟ナリ。理運ノ由、賢者等挙ゲ申ス。又母后ノ懇切卜云々」(『明月記』)

4月15日

・暁鐘の後、召しにより良経の許に参ず。東殿の若君の御方に於て、物の気を追われた。夕、賀茂の祭使の少将のもとに、摺り袴を贈る。(『明月記』)

4月18日

・北条義時(42)、若殿観音堂に向かう実朝に供奉す。

4月21日

・1日付けで院の昇殿を仰せられた、定家の長男光家が拝賀の装束を整えて参院し、舞踏(丁寧な挨拶)をした後、定家と共に越中内侍に謁して退出。

4月22日

・定家、仁和寺上乗院での藤原実明猶子灌頂に参仕

4月21日

・平賀朝雅より伊賀・伊勢の平氏残党追討が完了したとの報告が鎌倉に届く。

4月23日

・後鳥羽院、鳥羽・宇治・水無瀬御幸。~8月5日。

慈円、一昨日法住寺殿に渡り給う。この事、かねて沙汰あり。大善事を始めらるべしと。しかも、昨日逐電し、彼の御所を出で給う。周章極まりなしと。その由を知らず。天狗のなす所か。彼の御辺、かくの如き事連々又あり。驚奇するに足る。(『明月記』)

(慈円は、出家の身で更に荒い修行をしたいと、時々逐電をすることがある)

4月24日

・門戸を出でず。(『明月記』)

4月25日

・籠居す。(『明月記』)

4月26日

・定家、後鳥羽院鳥羽御幸に参仕。27日も。

4月29日

・中納言中将殿、又雑熱の事御坐す、よって参上。(『明月記』)


つづく

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