2023年6月27日火曜日

〈藤原定家の時代404〉建仁4/元久元(1204)年12月1日~28日 慈円、大懺法院を建立 俊成葬送 服喪 定家、連日写経 初七日から四十九日まで兄弟姉妹が順次担当して沙汰 坊門信清の娘、実朝との結婚のため鎌倉へ出発       

 


建仁4/元久元(1204)年

12月

・この月、四度も天台座主に任じられ、後鳥羽院の護持僧となった慈円は、保元の乱以来の戦死者を供養し鎮護国家を祈念するために、師覚快法親王から譲られた三条白河の地に二字の御堂を建立する。法華懺法の祈願所としての〈順教堂)と、大熾盛光法勤行(だいしじようこうほうごんぎよう)のための祈願所としての〈真言堂〉である。

慈円はこれを後鳥羽院に捧げ、院はこれを御願寺として阿闇梨一口を置くことを許されたが、懺悔によって反省をし慎みの思いをもって怨霊の恨みを散じ、それを転じて国家の鎮護としたいというその趣旨から、その主要道場を(大懺法院(だいせんぽういん))と呼んだ。

ところが、後鳥羽院はこの三条白河の地に、鎌倉幕府討伐のための祈願所として最勝四天王院を建立しようと考え、これを進上するよう求めたため、慈円はやむなく洛東吉水に御堂を移すことにし、翌元久2年6月16日に上棟の儀がとりおこなわれた。

『華頂要略』によれば、8月10日に移徒、12月8日この新造の大懺法院において法華法が修せられた。

ここには鎮魂のために顕密僧・修験者・説教師などとともに、声明・音曲に堪能な僧も集められていたという。卜部兼好(うらべのかねよし、吉田兼好)『徒然草』には、「慈鎮(慈円)和尚、一芸あるものをば下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。この行長入道、平家物語を作りて、生仏(しようぶつ)といひける盲目に教へて語らせけり」(第二百二十六段)とあり、『平家物語』の作者といわれる信濃前司行長が、慈円に挟持されていたことが記されている。『平家物語』の成立を行長という個人の営為に求めることはできないが、慈円が鎮魂のために建立した大懺法院が、『平家物語』成立の重要な基盤であったと考えられる。"

12月1日

・俊成葬送

遺言状を持ち来る。三ケ日の間に葬送せよとあり、入棺する。墓所は、加賀の墓の辺りと決める。埋葬終る。(『明月記』)

「天明ト共ニ山中ニ入リ、彼ノ墓所ヲ見ル。故御前(俊成妻)ノ御墓ノ辛(かのと)ノ方ナリ。石ヲ丸ニ合セ、置カシメ給フ。近習ノ物等、此所ノ由ヲ申ス。成実朝臣来タリテ見ル。即チ、彼ノ従者等ヲ以テ行事ヲナシ、穴ヲ掘ルベキ由、下知シ了リテ帰リ入ル。(中略)紙ヲ以テ御衣ヲ作ル。又敷物アリ。覆フ物アリ(梵字ヲ書ク)。皆紙ナリ。」

「・・・・・次デ僧達寄リ、御衣等ヲ着セシメ奉ル(只、覆フナリ)。次デ又、梵字ヲ書ク紙ヲ覆フ。次デ蓋ヲ覆フ。次デ釘ヲ打ツ゚。釘十ト云々。石ヲ以テ之ヲ打ツ(釘毎ニ只一打)。(略)次デ四人ノ者綱ヲ取リ、穴ノ内ニ安ンジ奉ル。僧達之ヲ行フ。次デ、三品(兄の成家)鋤ヲ以テ、三度土ヲ入レ給フノ後、雑人等ヲ以テ埋メ出サシム。」

葬儀を済ませて寺に戻ると、成美の妻の老者(成家の乳母)が、一人で寺の妻戸の中で待っていた。定家は、この老女が暗くて人のいない場所で怖れずに待っていてくれたことに感謝している。そして、風雨の煩いもなく、予定通りに葬儀を終えられたことを皆で喜び、宿所に帰ったと記す。

12月2日

・この日より着服(喪の服を着て服喪すること)。

定家は、朝臥寝所を出る時、めまいがする。(『明月記』)

12月6日

・俊成の初七日、遺言により阿弥陀迎接の法華を、健御前の沙汰にて供養。成家・祇王御前・健御前・愛寿御前・斎院女別当・定家参入。(『明月記』)

この日の初七日から翌元久2年1月18日の四十九日まで、兄弟姉妹が順次担当して沙汰し、これに他のきょうだいも集まり読経をするという形で、皆で協力する。

12月9日

・定家、連日写経。~月末。

この日から法華経を書写。引き続き無量寿経、普賢経などを書写すると共に、1月11日には仏師に地蔵像を造り千手観音像を描いてもらうよう依頼。これは、前年(元久元年)7月に宇治で母加賀の夢を見たこと、そしてこの年(元久2年)が加賀の十三回忌に当ることから、父母の深恩に感謝し供養することを決めたことによる。また、これらの仏を安置するため、嵯峨に持仏堂を建てる。

1月10日

・坊門信清の娘、実朝との結婚のため鎌倉へ出発。行列は、卿三位藤原兼子の岡崎邸から出立し、院も法勝寺西の大路に桟敷を設けてこの行列を見学した。実朝の婚儀は、後鳥羽院と実朝の親密な関係を誇示する一大イベントであった。

「今日巳の時信清卿の娘関東に下向す。卿三位が岡前の家より出立す。上皇の御桟敷、法勝寺西大路鳥居西、増圓法眼これを作る。馬の助(亡者)、大刀、去る比仏師に施與す。件の大刀銭三十貫を以て買い取る。御引出物に献ずと。来迎の武士二十人の中、二人(馬の助・兵衛の尉)死去す。その替わり親能入道が子を加うと雖も、今一人猶欠く。前陣の侍九人、各々水干・小袴・行騰錦繍に非ず。次いでヒスマシ二人騎馬、直垂・小袴を着す。次いで雑仕二人、袙のつま見・ムシ笠。次いで女房六人ムシ笠、繍指貫。次いで主人輿。力者十六人、紺(星文)・亀甲袴を着す。次いで仲国・秀康、その體侍の如し。次いで少将忠清・私侍十人、次いでまた関東の侍十人(前後合せ十九人)。忠清の先女房輿六。」(『明月記』)

「各々華麗過差、喩(たとへ)ヲ取ル物無シ。金銀錦繍ニアラザルハ無シ。泣キテ沙塞ヲ尋ネ、家郷ヲ出ヅルカ。天下ノ経営、只此ノ事ニ在リト云々。見物堵(かき)ノ如シ。」(『明月記』)

実朝からの申出に、後鳥羽上皇は卿二位藤原兼子と謀り坊門前大納言信清(七条院の弟)の女を選定。婚儀調度品は在京廷臣全部に命じて整えさせ、「天下の経営ただこの事に在り」(「明月記」)と評されるほど。幕府内部への公家勢力浸透の機会と考える。この婚姻により、公家社会の風が鎌倉に入り、実朝は武芸より和歌・蹴鞠を好むようになる。

承元3(1209)年11月、大江広元(政所別当)・北条義時(政子の弟)は実朝に弓馬の道を棄ててはならないと進言。

建保元(1213)年9月長沼宗政は、実朝は歌鞠をもって業となし、武芸は廃せられたと放言。御家人の実朝に対する信頼は薄い。

実朝は、政子の勧める足利義兼と政子の妹の娘でなく、坊門信清の娘を選ぶ。坊門信清は、後鳥羽の母方の叔父で、信清の子の忠信は牧の方の婿平貫朝雅の娘を妻としており、この婚姻には、牧の方が介在しているとの推測ができる。しかし、実朝にとってのこの婚姻の意味は、政子の束縛に対する反発、政子の背景にある北条氏ら東国武士社会で相対的に独自性を保つ為に、その一掃のしがらみを回避することにある。政子は、実朝がもはや自分の言いなりになる傀儡ではなくなったことを自覚したはずである。

12月10日

・文義が、信清卿の女が、実朝の妻として関東下向、卿三位の家から出立つという。定家は写経にいそしむ。(『明月記』)

12月13日

・閉王御前が遺言によって地蔵を供養。祇王・健・竜寿・成家会合す。延寿、経一巻を供養。(『明月記』)

12月20日

・延寿御前、虚空蔵供養。(『明月記』)

12月22日

・御台所(実朝の妻)に仕える男女数人が地頭職を拝領。

12月27日

・地震あり。29日にも。

12月27日

・竜寿御前、不動を供養。(『明月記』)

12月28日

・井水が涸れたので、妻が九条に沐浴に来る。(『明月記』)


つづく

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