2023年6月14日水曜日

〈藤原定家の時代391〉建仁3(1203)年12月1日~27日 院御所二条殿、焼失 「御所、地ヲ払ヒテ焼亡ス。馬場殿同ジク焼ケ了ンヌ。(略)之ヲ案ズルニ、若シクハ攘災カ。(略)今、火災ニ於テハ、猶安穏ノ儀ト謂フベシ。」(『明月記』)  三日平氏の乱の始まり       

 


〈藤原定家の時代390〉建仁3(1203)年11月14日~30日 俊成九十賀宴(『明月記』に記事なし) 「かたじけなき召しに候へば、這ふ這ふまゐりて、人目いかばかり見苦しくと思ひしに」(俊成) 東大寺落成総供養 より続く

建仁3(1203)年

12月

・忠快(42)、前権僧正・慈円の譲りを受けて権少僧都に任じられる。更に、承元年間中に阿闇梨を授けられ、法眼、権大僧都に叙任され、建暦年間には法印に昇叙される。

12月1日

・定家の冷泉邸近くで火事

12月2日

・院御所二条殿、焼失。

咳病殊に増し、籠居。

「御所、地ヲ払ヒテ焼亡ス。馬場殿同ジク焼ケ了ンヌ。(略)之ヲ案ズルニ、若シクハ攘災カ。今度造営ノ躰、頗ル尋常ノ事ニアラズ。金銀ノ過差、国土ノ衰弊、直(ただ)ナル事ニアラズ。今、火災ニ於テハ、猶安穏ノ儀ト謂フベシ。」(『明月記』)

12月4日

・後鳥羽院、宇治新造御所へ御幸。~8日。

12月11日

・御随身敦久来る。春日の競馬供奉の禄を給わるなり。門に立ちて来る由を示す、忠弘を以て会釈せしむ。鼠毛の小鳥小なりといえども逸物をかずけものとして送る。(『明月記』)

12月12日

・早旦、時成の許に行き、顔に針を加う。この二十日余、連々雑熱のためである。今日、七条院、熊野御幸のため、御精進屋に入る。那智の神輿騒動の折、いかがかと思うが、なお熊野詣を遂げられると。髪を洗い、精進をはじめる。(『明月記』)

12月13日

・御馬の毛付け、顔腫れて参じ難き由申したが、再三の催しにより参院。(『明月記』)

12月14日

・定家、後鳥羽院の梶井御所、日吉御幸に供奉。~16日。

12月17日

・定家の姉朱雀の尼上(50、故藤原宗家室)没

未明、朱雀の尼上、ついに入滅した。五十歳であった。(この人は定家の姉で、八条院按察と呼ばれた人で、大納言藤原宗家の妻となり、文治五年宗家の死後出家した)。本性甚だ廉直の人であった。午の時許りに、俊成の許に参ず。民部大輔、女房を相具す(亡者の姉なり。心操頗る似ず)。参会して、又三品に謁し、未終に退出す。中納言中将殿の許に参ず。秉燭、九条に行き、冷泉に帰る。

この頃、しきりに放火がある。御所や宜秋門院など。犯人あらわれず。

太政大臣藤原頼実、卿三位の局に通ずと。その日を聞かず。年来の妻室あり、三十年経ると。共に壮年四十九歳。去る春、通資卿御懇望、上下器にあらざると哢らるるの間、この公、已に撰び取らると。権門の奇体な婚姻である。

(卿三位藤原兼子の夫・宗頼は、この年建仁3年(1203年)正月に死去し、権勢を誇る兼子に通親の弟の源通資など複数の男が近づき、兼子は同年のうちに太政大臣大炊御門頼実と再婚した。)

12月18日

「諸人訴論の是非、文書を進覧するの後、三箇日に至り下知を加えざるは、奉行人を緩怠の過に処せらるべきの由、その法を儲くと。」(「吾妻鏡」同日条)。

12月19日

・定家、内裏仏名に参仕。道家の拝賀に供奉。

12月20日

・定家、承明門院仏名に参仕。

12月22日

・若狭忠季所領のうち、今富名・国富荘・前河荘など遠敷・三方両郡16ヶ所は二階堂行光に、太良保・瓜生荘など遠敷郡9ヶ所は中条家長に与えられる。翌年8月29日、二階堂行光に与えられた16ヶ所、若狭忠季に返される。

12月22日

・定家、後鳥羽院の北野御幸に参仕

後鳥羽院の京極殿、炎上(放火)。23日にも。

12月24日

・定家、後鳥羽院の御仏供養に参仕

12月25日

・三日平氏の乱の始まり。鈴鹿・八峯などで、伊賀・伊勢平氏蜂起。 

この日、伊勢平氏の若菜五郎は、伊賀・伊勢国守護山内首藤経俊を夜討ち。

進士三郎基度・松本三郎盛光(弟)・四郎・九郎・岡八郎貞重・庄田三郎佐房(貞房)・師房(子)・河田刑部大夫・雅楽助三郎盛時・雅楽助惟基・中宮長度光・若菜五郎盛高。

 初めこれは、員弁(いなべ)郡の郡司の文章生・行綱の仕業と誤解され、行綱は召捕られた。伊勢国守護経俊は、情報に疎く、この叛乱の性格を容易に察知できなかった。

「夜討ち人伊勢の国守護に乱入す。その張本進士行綱たるの由、義盛これを申す。」(「吾妻鏡」同25日条)。

〈藤原経俊〉

山内首藤刑部丞こと藤原経俊は、石橋山の合戦で大庭影親の軍に加わり、頼朝の鎧の袖に射立てたことで知られている。のち降人となった経俊は、彼の母、すなわち頼朝の乳母の摩摩局が首藤家の源家に対する累代の功績、特に経俊の父の俊通が『平治の乱』の際、義朝方に馳せ参じ、六條河原で討死したことを述べ、助命を欺願したので、刑を免れた。

首藤と言うのは、祖先の藤原資清が主馬首であったことから称した家名である。山内は鎌倉の円覚寺あたりの荘名で、ここに移住した首藤家の者が家名を山内(やまのうちの)首藤家と称するようになった。

経俊はその後は忠勤を励み、頼朝の乳母子であることから次第に信用を快復し、元暦元年(1184)頃、伊勢国守護に抜擢された。のみならず、経俊は大内家の惟義の後を承け、伊賀国守護をも兼ねた。

経俊は、伊賀・伊勢両国における叛乱計画を探知出来ず、更に、夜討ちを受けた後、叛乱勃発を幕府に通報しなかった。

12月25日

・定家、東宮御書始に参仕

12月27日

・九条道家(良経の子)の四位の拝賀。定家が供をする。

定家、宜秋門院仏名に参仕


つづく




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