建仁4/元久元(1204)年
7月14日
「未の刻、将軍家俄に以て痢病を患わしめ給う。諸人群参すと。」(『吾妻鏡』)
7月14日
・定家、後鳥羽水練を見る。
院に参ず。院は、「水練ノタメ、川上ニオハシマス(去ル十日、又此ノ如シ)。諸人裸形ニテ、平等院ノ前庭ヲ渡ル。又裸ニテ馬ニ乗ル(鞍ヲ置カズ)。行列ノ躰、密カニ目ヲ驚カス。」。大府卿と後戸の方に隠れて、伺い見る。「窃(ひそか)ニ嘆息ス。」。夢の如し。冥鑒(みようかん)如何。礼仏して宿所に入る。今夕平等院に御幸の由。聞くといえども、程なく参ずるあたわず。私に橋の辺りに出づ。礼軽からず。(『明月記』)
7月15日
「将軍家御不例。猶御平癒の儀無し。仍って鶴岡宮に於いて真読大般若経を始行せらる。当宮の供僧等これを奉仕す。駿河の守季時御使いとして宮寺に参る。三箇日中に結願すべきの由仰せ下さるる所なり。」(『吾妻鏡』)
7月15日
・院に参ずる。今日宝蔵を御覧。笠懸あり。予、推参を恐れて見ず。日没するの程、還りおわします。すなわち退出す。又左金吾の宿所に出で向う。謁するの後に、良経の許に参ず。深更に退下す。(『明月記』)
7月16日
・宇治御幸歌会。定家、講師を勤める
下の袴を着し、巳の時、良経の許に参ず。午の時、御供して御所に参ず。未の時許りに出でおわします。各々召しに応じて参入す。歌を置き終る。仰せにより、定家講師。「ナガラノ橋ノ橋柱(はしばしら)ノ木ヲ、文台(ぶんだい)ニ作ラル(是レ院ノ御物ナリ)。今日、始メテ和歌所ニ出サル」。一座の講終って退下す。すなわち日来の狩衣を改め着す。次いで還御。京極殿より退下す。(『明月記』)
「長柄(ながら)の橋柱の朽ち残りによる文台」についての含蓄ある解釈については、堀田善衛『定家明月記私抄』を参照のこと。ここでは割愛。
7月18日
・源頼家(23)、修善寺で北条時政の手の者に入浴中を襲われ殺害。政子はこの時48歳。
「伊豆国ノ飛脚参着ス、昨日(十八日)左金吾禅閤、当国修禅寺ニヲイテ薨ジタマフノ由、コレヲ申ス」」(「吾妻鏡」)。
「修善寺にて、また頼家入道をば指ころしてけり。とみにえとりつめざりければ、頸に緒をつけ、ふぐりを取などしてころしてけりと聞えき。人はいみじくたけきも力及ばぬことなりけり。ひきは其郡に父の党とて、みせやの大夫行時と云う者のむすめを妻にして、一万御前が母をばもうけたるなり。その行時は又兒玉党にしたるなり。」(「愚管抄」)。
「正治元年ノコロ、……景時国ヲ出テ京ノ方へノポリケル道ニテウタレニケリ。子供一人ダモナク、鎌倉ノ本体ノ武士カヂハラ皆ウセニケリ。コレヲバ頼家ガ不覚ニ人思ヒタリケルニ、ハタシテ今日カゝル事(暗殺)出キニケリ」と記し、梶原一族の滅亡を見過ごしたことが、頼家自らの破滅につながったという見方を取っている。
「左金吾禅閤の御家人等、片土に隠居し謀叛を企つ。縡(コト)発覚するの間、相州金窪の太郎行親已下を差し遣わし、忽ち以てこれを誅戮せらる。」(「吾妻鏡」7月24日条)。
7月19日
・気比社の再建がなり、遷宮日が定まる。
7月22日
・和歌所にて撰歌、部類始。この日、定家はこの勅撰集に続古今集の名を与えることに反対し、新撰古今集とすることを主張。
『新古今和歌集』「撰歌」作業に加え、「部類」の仕事が始まる。撰ばれた歌を、春夏秋冬・恋・旅などといった部類に分ける作業。
今日、撰歌の部類を始めらるべき由、和歌所に参ずべき由、一昨日催しあり。よって参入す。酉の時許りに良経の御供して退出。家に帰って日没。(『明月記』)
7月23日
「将軍家御病悩平癒するの間、沐浴し給う。」(『吾妻鏡』)
7月23日
・歌の部類、留守に付けらる。よって河陽に参ぜず。ただし家長・清範を尋ねるに皆参ずと。(『明月記』)
7月24日
・頼家の家人謀叛を企つ。北条義時(42)、金窪行親を派遣して鎮圧す。
7月26日
・実朝、政治始め。実朝、安芸国壬生荘地頭職をめぐる山形為忠と小代八郎の争論を直々に沙汰。
「これ将軍家直(じか)に政道を聴断せしめ給うの始めなり」(『吾妻鏡』)。
7月27日
・春部上下の部類を終える
家長、昨夜京に帰る。その告げにより和歌所に参ず。大理・大府卿雅経・羽林・家長会合す。歌の箱を開きて部類す。羽林執筆。相構えて、春の上下、形の如くに功を終る。夕に退下す。家長杯酌破子(わりご)をすすむ。(『明月記』)
7月28日
・夏部の部類を終える。和歌所にて遊興、削氷を食べる
早旦、良経の許に参ず。御供して、五辻・新御所に向う。御覧じ廻らす。午の時に還りおわします。途中より和歌所に参ず。昨日の如く、家隆朝臣参合す。大理櫃二合を取り寄せられる(銘、代々勅撰の上下)。破子・瓜・土器・酒等あり。又寒氷あり。大理自ら刀を取り、氷を削らる。入興甚だし。納涼の中といえども、外人なきにあらず。堪能と称してこれを削る。白き布巾を以て、氷をつつみて、左手にこれをたたく。皐陶(こうよう)の職、頗る軽々たり。各々饗応してこれを食す。
今日、夏の部を終う。七夕の歌、又これを書く。取り置きて退出す。夜に入り、春宮に参じて陪膳を勤む。(『明月記』)
見事な、氷削りの芸である。当時、公卿は、みずから包丁と箸をとって魚も料理した。晴には、料理もまた、男の仕事であった。
7月30日
・夜に入り、北野社に参じ、通夜。(『明月記』)
つづく
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