2020年7月4日土曜日

嗚呼ウラジーミル! → 「領土交渉は終わった」領土"引き渡し禁止"盛り込んだロシア改憲案成立で認識…北方領土交渉 厳しい道へ(北海道ニュースHUB) / シンゾー「ウラジーミル。君と僕は、同じ未来を見ている。行きましょう、プーチン大統領。(中略)ゴールまで、ウラジーミル、二人の力で、駆けて、駆け、駆け抜けようではありませんか」        







▼領土問題ではこのテ(↓)で逃げるかな?



2020年7月3日金曜日

次男と久々の呑み 2020-07-03

7月3日、曇りのち雨
ようやく繁忙期の明けた次男とひさびさのランチ。
(ジブン的には飲み会)
横浜みなとみらい、インターコンチネンタルホテルのなだ万で。

長男にもモチロン参集呼びかけはしたけれど、2人目が出来たばかりでこのコロナ騒ぎではちょっとムリですよね。

次男からは、ふーんそうなんだ、みたいな話をイロイロ聞かせて貰って、多少は世の中的知識をアップデートできたかな。

雨模様なので、二次会は自宅で。
ワタシは日本酒、次男は焼酎。
長男秘蔵のワイン二本と専用ウィスキーは手つかずで残してますよ。

天の川という和菓子。
ま、7月なのでいいか、と食べてしまった。
おいしい!

おやすみなさい。








2020年7月2日木曜日

この季節にしては珍しく片瀬西浜海岸からの富士山 2020-07-02

7月2日、はれ
今日は梅雨の晴れ間。
珍しく湘南モノレール江ノ島ライブカメラがギリギリだけれど富士山を映し出していたので、今週月曜日(29日)に行ったばかりなのに江ノ島に出かけた。
ま、今日は幸運にもギリギリ富士山を見ることが出来た。
この季節にしては、早朝は見える時があるにしても、お昼頃に見えるのは珍しいと思う。

海岸を引き上げる際、久しぶりに撮り鉄の真似事でもやるかな、と龍口寺から腰越まで歩いた。
貧弱な知識だけど、多分江ノ電では現役最古の型式(305)の電車に幸運にも遭遇した。

今日の総歩数は1万7千歩。



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慶応4年/明治元年記(10) 慶応4年(1868)2月11日~15日 彰義隊結成の動き 慶喜、上野寛永寺に謹慎 堺港攘夷事件 有栖川大総督、京都発(東海道先鋒は名古屋、東山軍は美濃大垣) 庄内藩主酒井忠篤、江戸発 

慶応4年/明治元年記(9) 慶応4年(1868)2月6日~10日 会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬(兄弟)、江戸城登城禁止 秋田藩、羽州一円の諸藩に使節派遣 大総督府・諸道総督府設置(有栖川宮熾仁東征大総督) 「偽官軍」布告(相楽の赤報隊取り押さえ)
より続く

慶応4年(1868)
2月11日
・一橋家家臣渋沢成一郎・天野八郎(上州甘楽郡岩戸村庄屋大井田吉五郎次男)ら同士17人、雑司が谷の茗荷屋で慶喜の冤罪をすすごうと相談。その後、会合を重ねるごとに同志は増え、21日には67人となる。23日、隊名を彰義隊とし頭取に渋沢成一郎(後、脱退)・副頭取天野八郎、屯所を浅草・本願寺とする。
・仙台藩、朝廷に徳川慶喜の処置を諸藩の議論に委ねられたいとする建白書を提出。
・高松三位(実村)、甲州人小沢一仙らにかつがれ官軍鎮撫隊組織。甲府入り。
・新政府、京阪の豪商に親征費(10万両)調達命ず。
・旧幕府陸軍諸隊に檄文。筆者は陸軍調役並本多敏三郎・伴門五郎の両名。同勤方須永於菟之輔の提唱。
・飛騨の竹沢寛三郎に東山総督府執事より出頭の最後通告。23日、総督府は梅村速水を飛騨国出役に命ずる。3月3日、梅村が高山着。13日、竹沢は高山を去る。後、加納(岐阜)で捕縛、4月10日より武州忍藩に預けられ10月10日に釈放。明治6年、神道修成派を結成。明治35年、74歳で没。
・鹿児島藩、参与大久保利通の意見により、風土10万石の献上を出願
・フランス、物理学者フーコー(48)、没。フーコーの振り子で地球の自転を示す。
2月12日
・慶喜、上野寛永寺に謹慎。慶喜、陸軍総裁勝安房守(46)の非戦論を容れて恭順の意表。午前5時、上野東叡山寛永寺大慈院に謹慎。上野には山岡鉄太郎(33)らの精鋭隊70余、榊原健吉(37)らの見回り組50、新撰組30余が警護。
慶喜の立野寛永寺謹慎に至り、大久保はようやく慶喜処分をやわらげ、死一等を減じ、備前藩に御預けにすべきであると述べる。いよいよ慶喜処分と江戸城攻撃が新政府の東征ブランの上で、射程の中に入りつつある。
・西郷吉之助、薩摩藩東海道先鋒隊差引として藩兵を率い京都を出発。有栖川宮大総督府は15日に出発。
・ロッシュ、大坂の公使館入り。
・政府、外国公使と天皇謁見の最終的討議を大坂裁判所で行う。13日、外国事務総督の東久世・伊達宗城、五代・小松ら外国事務掛と各国代表を歴訪。パークスは京都御所で各国代表が揃って参内を提案。ロッシュは天皇政権は西南雄藩に擁立されただけのもので正式政権ではないという考え。
2月13日
・容保、藩士・軍事奉行添役神保修理(30)に切腹命じる。22日、切腹。
・東山道先鋒総督兼鎮撫使岩倉具定、薩摩藩差引島津式部、本営参謀伊地知正治・大迫貞清・田中清右衛門・有馬藤太・種子田政明・池上四郎左衛門(四郎)、城下4番小隊(川村純義)・5番小隊(野津鎮雄)・6番小隊(野津道貫)・2番砲隊半隊(大山巌)・臼砲半隊・兵具方半隊、京都を出発(「鹿児島県史」第3巻)。20日、東山道軍、大垣集結後に東上する。
・板垣の迅衛隊、東山道先鋒総督府に所属し京都発。18日、大垣着。21日、大垣発。3月1日、下諏訪着。
・東久世・宗城・五代・小松、各国代表歴訪。
・山国隊、京都発。隊長因幡藩士馬場金吾・組頭藤野斎(38)。30人4分隊。岩倉具定東山道軍所属因幡藩兵800人の第13番隊として。水口市之進統率30人京都残留、御所警護・金策。
2月14日
・東久世通禧(みちとみ)・伊達宗城外国事務総督・醍醐忠順(ただおき)大坂裁判所総督、各国代表と会見。西本願寺。天皇政府の対外政策に従うことを各国代表の前で誓約させるため、主要17藩重臣が列席。入洛して天皇と会見するよう、正式申入れ。フランス公使ロッシュは反対、イギリス公使パークスは賛成、オランダはイギリスに同調、アメリカ・イタリア・プロシアは新政府に懐疑的。午後4時散会。16日午前10時再会合となる。
天皇謁見の件は、2月7日、薩摩島津忠義・越前松平慶永・土佐山内容堂ら6名の議定より建議。ただ、宮廷ではなかなか決まらず、この日14日夜10時頃ようやく決定(朝議決定の報は、15日正午までに大坂に届く)。17日、外国公使引見を布告。
2月15日
・堺港攘夷事件
前日に堺遊歩の届けを出したフランス人2人(ヴェニス号艦長ロア(少将)と兵庫副領事ヴィヨー)が外国事務掛の宇和島藩士らと大和橋に来るが、堺警備の土佐藩箕浦・西村両隊(71人)は免状が無い事から入市を拒否(堺は外国人が遊歩できる区域であるが、警護の土佐藩はそれを知らない)。午後3時、フランス軍艦デュプレクス号のボートが港内を測量、またロア一行を迎えるためランチが旭茶屋前に接岸。午後5時、2人が入市を試みて、土佐藩士に捕まる。1人が逃げ出し、ランチのエンジンに点火し船を出そうとしたため、土佐藩兵が発砲。殺害11、負傷5。
ヴェニス号のボートは、朝から木津川~大和川河口の砂洲を測量しながら港外に到り、堺沖に碇泊したデュプレックス号のランチを正面入口から誘導。ロア艦長以下はなかなか到着しないので、港内を漕ぎ廻って測量を続行。デュプレックス号のボート(上陸用蒸気艇)は、ヴェニス号の測量ポートに額導され、午後3時、堺港正面から入って来て、南側取っつきの岸壁の角にある料亭、旭茶屋前に着岸。乗員は、見習士官シャルル・ピエール・ギヨソを長とする護衛兵15名で、測量ポートはA・パリス少尉を長とする8人。蒸気艇乗員はピストル携行、ポートではパリス以外は武装せず。この時、警備の土佐藩兵側は、陸路を阻まれたので海から来た、と怒る。しかし、実際は港湾への外国人出入も自由で、堺市中に外国人遊歩を許した条項の付帯事項に「外国人は大阪府内に於て海陸共往来する事日本人同様差障なかるべし」とある。
フランス兵2人(デュレルとルムール)が栄橋通りに行くと、2本ざしの西村隊兵士がふいに現われ、どこかへ連行しようとする。デュレルは連行されようというが、ルムールは、不意に逃げ出し、蒸気艇後方甲板に上り繋留索を切ろうとする。箕浦が「射て」と命令、最初の一斉射撃で、ルムール他5名が身に数弾を浴びて即死。(即死は4名で溺死7名の計11名ではないか?=後で行方不明者7名引渡しは事実のようである)
・午後、アーネスト・サトウ、伊達宗城を訪ね、天皇謁見の議の結果について京都から通知があった否か聞きに行く。決定は伝えられたが正式通達はないとのことであるが、直ちに各公使を廻って招請の旨を告げるのがよいと助言。そこで伊達は午後5時、醍醐・東久世と共に最大の難物ロッシュを訪問。
・午後5時、伊達宗城、東久世と共に天皇謁見についてロッシュを訪問。散々時間をとらせた上で、ロッシュは「ミカド政権はクーデタ政権であり、謁見には応じない」と回答。午前1時、宗城はパークスを訪問しロッシュ説得手段を聞く。このとき、堺事件の報、入る。宗城は除外され、外交団はフランス公使館に集まり徹夜で協議。
・有栖川大総督、京都発。但し、既に東海道先鋒は名古屋、東山軍は美濃大垣にあり。/3/5.駿府城着。
・北陸道鎮撫総督高倉永祜、福井着、西本願寺掛所入り(13日敦賀発)。20日、佐賀藩兵が加わる。この間、越前諸藩主に対し、朝命に服する誓約請書を提出させる。また旧幕府領調査を命じ、福井藩には越前国内の代官支配地取締りを命じる。28日、福井発、金津着。翌29日、加賀の大聖寺に向かう。
・越前の松平慶永、上書。慶喜は罪を謝しているので、大総督の出発を中止し、諸軍を引きあげるよう建議。
・庄内藩主酒井忠篤、江戸発。途中、仙台で伊達慶邦と面会。3月9日、鶴岡城着。帰国にあたっては、新徴組を同行させ、幕府の兵器も持帰る。
・庄内藩家老松平権十郎、近日中に江戸を退去して国許へ戻ることを届け出る。
・大木四郎ら赤報隊分遣隊70人、碓氷峠屯集。小幡藩2万石松平摂津守忠恕、吉井藩1万石松平鉄丸、七日市藩1万石前田丹波守利豁が、勤皇誓約書を提出。高崎藩8万2千石松平右京亮輝照は代表を派遣してきたので脅迫して返す。安中藩板倉家から横川関所を官軍に引き渡させる交渉をする予定。
〔官軍先鋒きょう導隊本部〕大木四郎、西村謹吾、竹内健介、外組下10余人、〔大砲組〕金原忠蔵、北村与六郎、外組下10余人、〔監軍隊〕荒木直、小時三七郎、熊谷和吉、外組下10余人、〔探偵検査掛〕神道三郎、組下、土屋勝三郎、野瀬万吉、〔応接掛〕中山仲(造酒ノ助)、小林六郎(六兵衛)、〔小荷駄司令金穀出納役〕川崎常陸、下士2人、中間2人、〔遊撃隊〕桜井常五郎、組下14四人(信州附属扱い)、〔小銃組清水隊〕清水定右衛門、組下5人、〔小銃組大藩隊〕大藩栄、組下5人、〔小銃組今大路隊〕今大路藤八郎、組下5人。
・赤報隊西村謹吾、早駕籠で下諏訪発。佐久へ出た隊の先頭が軽井沢に到達しているが、不慮の衝突を避けるため和田峠まで引き返させるため。
・(新3/8)権田直助・落合源一郎、岩倉命により関東探索途中、下諏訪訪問。相楽謹慎説得目的だが相楽不在。17日、再度訪問。相楽不在のため、居合わせた隊士に、出かけている隊士を纏め、謹慎して総督府到着を待つように説く。この頃、下諏訪には赤報隊討伐の達しが、どこからとなく届いている様子。権田・落合は江戸へ向かう。
岩倉の密偵。これより先に、別の一組で武州賀美郡元安保村(現、埼玉県児玉郡丹ノ庄村)の塩川広平が、正月8日夜、京都を出て江戸に向かう。江戸では、旧幕臣の間に非戦主義者をつくり、旧幕軍の武力を弱めるのが目的(塩川「関東謀攻日記」)。塩川の江戸下りは岩倉の発案でなく、塩川自身の発案で、鳥羽伏見後、旧幕の武力を軽くみては間違うとして、関東謀攻策を岩倉に献策、同意を得る。周旋した者は、岩倉側近の北島千太郎(後の北島秀朝東京府大参事、千葉県令)、原保太郎。その1ヶ月後に、権田・落合が岩倉から関東探索を命ぜられる。これは三州刈谷藩士で、今は岩倉側近の伊藤謙吉が周旋。伊藤謙吉は阪木下枝・榊下枝と・坂木静枝ともいう。
・備前藩主池田茂政、病気を理由に隠居願い。/19.受理。支藩主池田政詮(章政)、藩主となる。
・新選組、2班に分かれて交替で慶喜の警備。
・(露暦2/3)チャイコフスキー「交響曲第1番」初演。モスクワ('73/3に3回目の改訂)。

つづく


止まらぬ感染者増に専門家が苦言「東京のコロナ対策は失敗」(女性自身);「都民にとって不幸なことが2つあって、1つ目は…五輪をやることを優先したあまり、対策が遅れた。2つ目は、この時期に東京都知事選挙があること…収まりかけたと思ったら、今度は選挙だということで、小池都知事は東京アラートを引っ込めて、自粛を全解除してしまった」




2020年7月1日水曜日

慶応4年/明治元年記(9) 慶応4年(1868)2月6日~10日 会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬(兄弟)、江戸城登城禁止 秋田藩、羽州一円の諸藩に使節派遣 大総督府・諸道総督府設置(有栖川宮熾仁東征大総督) 「偽官軍」布告(相楽の赤報隊取り押さえ) 

慶応4年/明治元年記(8) 慶応4年(1868)2月1日~5日 韓国との間に「皇」「勅」問題 慶喜、絶対恭順(降伏)決意 「慶喜退隠の嘆願、甚だ以って不届き千万、是非切腹迄には参り申さず候わで相済まず...」(西郷の大久保宛書簡) 親政の詔(「征討の大号令」)宣布
より続く

慶応4年(1868)
2月6日
・下諏訪に向い進軍中の相楽総三に金輪五郎が追いつき、京都に戻るようにとの伊牟田尚平の手紙(忠告)を届ける。総三は伊牟田に感謝しつつも、進軍継続。この日、下諏訪到着。人足を含め総勢220~230。これまで同様「年貢半減」の高札を掲げる。
伊牟田は、「朝廷におかせられては大軍議をなされ、それにつき滋野井、綾小路の両卿をお召しかえしになった。そのことでいろいろ疑惑も起ったので、桑名から昼夜兼行で京へのぼり、伺ったところ案外の好都合で、両卿は会津攻めの総督を仰付けられるとのこと、この手紙着次第、昼夜兼行で、帰洛し、両卿に附属せらるべく、御僻論御無用、何にても人の忠告御用い然るべし、実に千里一歩の場合ゆえ、くれぐれも申し上げる」と忠告。
1月25日、綾小路俊実が鵜沼に泊った時、「赤報隊は速やかに桑名に到り総督の本営に会すべし」との命令が届く。綾小路は先鋒の相楽を鵜沼に呼び、「桑名にある東海道総督の許に行け」と言うが、相楽は応ぜず、「悪名を着るとも、旧幕府の主力を苅るペく自分たちは行動する」と言う。そこへ桑名の本営から伊牟田が駈けつけ、「相楽君それはいけない、本営へ行くべし」と勧告するが、相楽は応じなかった。伊牟田はこれを以て、「僻論御無用」「何にても人の忠告御用い可然」と言う。しかし、この時、相楽が桑名へ行っていたら、山本太宰らのように死刑を免がれなかったと推測される。
□この時点での赤報隊幹部。
総裁:相楽総三、大監察:科野東一郎(斎藤謙助)、監察竹貫三郎(菊池斉)・木村庄蔵(岡田信造)・金原忠蔵(竹内廉太郎)、監察使番:西村謹吾(菅沼八郎)・伊達徹之助(戸田恭太郎)・丸山梅夫(金井清八郎)・大木四郎(大樹匡)・小松三郎(福岡幸衛)、使番:金田源一郎(宇佐美庄五郎)・高山健彦(望月長三)・渋谷総司(大谷総司)・浅井才二(神田湊)、役不明:桜井常五郎・神道三郎(三浦秀波)
・東海道・東山道・北陸道、三道鎮撫総督を先鋒総督兼鎮撫使と改める。
・幕府別撰隊頭佐川官兵衛、中隊司令官に任命され、江戸城内でフランス式訓練実施。15日、容保は、藩兵全員を和田倉邸内に集め、慶喜に従い東帰したことを謝し、会津藩を守ることを近い励ます。
2月7日
・村田蔵六(大村益次郎)、京都に入る。
・近藤勇、銃創治療のため横浜の医学所に行く
・赤報隊木下四郎ら5人、官軍先鋒と称して信州・上田城下着。8日夕方、中之条陣屋(埴科郡中之条村)に向う。9日、ここで、勤皇の誓約をさせるために、松代藩真田家に向うものと小諸藩牧野家に向うものの二手に分れる。小諸藩(1万5千石)では議論の末、帰順と金穀献納(米200俵・金500両)に決まり、大木らは金だけを受取る。
・丸山梅夫と丸尾清が率いる遊撃隊大砲隊2隊22人、上田より軽井沢に向かう。碓氷峠~坂本~横川~安中藩3万石板倉主計家中の動静探索と碓氷峠の確保が目的。そのうち金原忠蔵が兵を率い合流。
2月8日
・慶喜、松平容保・松平定敬ら朝譴(チョウケン)を受けた者24名に登城を禁じ、江戸からの立ち退きを命じる。
・伊達宗城、神戸事件の滝善三郎(32)助命について兵庫でパークスと会見。10日、滝善三郎(32)、神戸永福寺で米人の目の前で作法通りに切腹。備前藩家老日置帯刀家臣。
フラソス公使ロッシュも減刑に賛意を表すが、イタリアとプロシャが反対。パークスは、自分が陸戦隊上陸を要求する旗を掲げた為に、事件を大きくしたと感じ(実際後日そのように批判されている)、減刑に反対ではないが、事務官サトウとミットフォードが、一旦決めたことを改めるのは良くない、日本人に今後如何に我らに対処すべきかを教えておく方がよい、と反対。
・秋田藩、羽州一円の触頭を命ぜられ諸藩に使節を派遣。庄内・松山・山形・上ノ山・長瀞の徳川譜代5藩には、錦旗に発砲せぬよう諭す。
2月9日
・ハンガリー、全労働者協会設立。ラサール主義の影響。
・8日に東海道総督橋本実梁より呼出しがあり、相楽総三は金輪五郎を連れて出発。19日、大垣本営着。23日、下諏訪帰着。留守中、北信州の追分軽井沢で戦争。
・(新3/2)大総督府・諸道総督府設置。有栖川宮熾仁東征大総督。東海道軍・東山道軍・北陸道軍の総指揮官。参謀:正親町公董(公卿)・西四辻公業(公卿)・広沢真臣(長州、12日、広沢は辞任し、西郷隆盛(薩摩)・林通顕(宇和島)が参謀となる)。3道の先鋒総督兼鎮撫使には夫々公卿2人(正副)を選び、そのもとに参謀をおく。参謀は、東海道に木梨精一郎(長州)・海江田信義(薩摩)、東山道に板垣退助(土佐)・伊地知正治(薩摩)、北陸道に黒田清隆(薩摩)・品川弥二郎(長州)。3道には既に官軍が鎮撫使としてくり出しているが、それを改めて再編成し、兵を増発。15日、有栖川宮大総督、出発。
江藤新平、東征総督府軍監に任命され、同じく軍監の小笠原唯八(土佐)と共に江戸偵察に出発。乞食に変装して潜行、東征軍を待受ける。
・奥羽鎮撫総督沢為量、副総督醍醐忠敬、任命。11日、参謀に品川弥二郎・黒田清隆に任命。26日、九条道孝を総督に、沢為量は副総督に任命。30日、参謀黒田が大山綱良(薩摩)に、3月1日、参謀品川が世良修蔵(長州)に交代(黒田・品川は会津征討方針に異論を持ち、参謀を辞任したと考えられる。世良は強硬派。政府部内では常に穏健派(寛典処分派)と強硬派(武力討伐処分派)がある)。
・天皇の親征大坂行幸、決定。
・永井尚志(なおゆき、54)、御役御免寄合。19日、逼塞。
2月10日
・「偽官軍」布告。東山道総督府より信州諸藩へ相楽隊取り押さえるべしとの布告。13日、京都に行っていた竹貫三郎が、相楽総三が不在の下諏訪の赤報隊陣に、政府の偽官軍布告を伝える。
東山道総督府の布告。「回章 高松殿京師御脱走ニテ人数召連レ、東国へ御下向之趣、右ハ決(ケッシ)テ 勅命ヲ以テ御差向ニ相成候義ニチハ無之、全ク無頼ノ奸徒、幼稚之公達ヲ欺キ奪出シ奉り侯義卜察シ侯、右無頼ノ者共、当総督様ノ先鋒卜偽り、通行ノ道々、金穀ヲ貪り、其他如何様ノ狼薄可有之哉モ難計候ニ付、諸藩イヅレモ此旨篤卜相心得右等ノ徒ニ欺レ不申様可仕候、尤右公達ニ於テハ卒忽之義無之様可仕候得共、人数ノ義ハ夫々取押へ置キ、総督御下向之上、御所置相伺ヒ侯様可仕旨御沙汰侯事 附、先達テ綾小路殿御手ニ属シ居候人数、綾小路殿既ニ御帰京ニ相成供後モ、右ノ者共無頼ノ徒ヲ相ヒ語ヒ、官軍ノ名ヲ偽リ、きょう導隊抔卜唱へ、虚喝ヲ以テ農商ヲ劫シ、追々東下致侯趣ニ相聞エ候、右等モ高松殿人数同様之義ニ侯間、夫々取神へ置キ可申旨、被仰出侯事 二月十日 総督府執事」。宛名は堀左衝門尉(須坂1万石)、内藤若狭守(高遠3万3千石)、諏訪因幡守(高島3万石)、松平丹波守(松本6万石)、松平伊賀守(上田5万3千石)、真田信濃守(松代10万石)、堀内蔵頭(飯田1万7千石)、牧野遠江守(小諸1方5千石)、内藤志摩守(岩村田1万5千石)。
これより先、東山道鎮撫総督は、江州その他、赤報隊の通過した後々に布告。「近日滋野井殿、綾小路殿家来抔(ナド)卜唱へ、市在ニ徘徊イタシ米金押借り、人馬賃銭不払者モ不少候趣、全ク無頼賊徒ノ所業ニテ決而許容不相成候、向後右横之者於有之者捕へ置、早速本陣ヱ可訴出侯、若シ手向等致シ候モノハ討取侯トモ不苦段、被仰出候事。但シ此後岩倉殿家来抔卜偽り、右等之所業ニ及侯モノ可有之哉モ難計、聯ノ用捨ナク同様之取計可致旨、御沙汰ニ候事 戊辰正月 東山道鎮撫総督 執事 東山道諸国宿々村々役人中」
・会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬(兄弟)、徳川家威信回復を主張し、登城禁止となる。
・小笠原壱岐守長行、老中職辞職。

つづく


宇都宮けんじから小池百合子に対する公開質問(8項目);「あなたは、東京アラート解除の翌12日に都知事選への出馬を表明されました。政治的思惑から恣意的な対応を行ったとすれば重大です。結局のところ、東京アラートの発令とその解除は、あなたの都知事選出馬のための政治的都合を優先し、恣意的に判断されたものではありませんか。明確にご説明ください」









小池百合子氏「カイロ大学卒業証書」に残る疑問……舛添要一氏「ずっと彼女に騙されていた」(文春オンライン)




(略)

 15日、小池氏は会見で、お友だちメディア以外にも初めて卒業証書を公開。そこには「76年10月に行われた試験の結果、学位を与える」とあるが、小池氏は「自由にご覧頂きたい」と語るのみで、『女帝』でも再三示されてきた疑問には答えない。著者の石井妙子氏が言う。

「これまで不鮮明な証書しか見ることが出来ませんでした。今回ようやく小池氏が卒業証書を示しましたが、本人からは何の説明もありません。76年の10月上旬は同居女性とエジプトで国内旅行をし、その後小池さんは日本に帰国しました。その際、日本で取材を受けた記事に『9月にカイロ大を卒業した』とあり(76年10月27日付の東京新聞)、サンケイ新聞(10月22日付)には『10月11日に帰国した』とも記してある。記憶の鮮明なこの時期のインタビューに、なぜこんなに辻褄の合わない間違いが生じるのか。さらに言えば、同年8月、ハイジャック事件が起こって新聞にコメントを求められたとき、彼女は自らの身分をカイロ大生ではなく、『日本航空駐在員』としていたのも不可解です」

 小池氏は自著『振り袖、ピラミッドを登る』(82年)で、「一年落第」と記している。にもかかわらず72年に入学して76年にストレートで首席卒業と書いている点も謎のままだ。

(略)

 あの老獪な二階氏さえも振り回した小池氏。その言動を憂慮する元在日エジプト大使館職員(前出)の声が重く響く。

「首席卒業とはいくら何でも大風呂敷を広げ過ぎ。本当に優秀な卒業生なら、証書以外にバックアップする同窓生が出てきてもよさそうなものですが」

(略)

東京を壊した小池都知事をさらに追い込む「元都職員の重大告白」;「自分の話題作りのために、都の人とカネを使うようなイベントはやめていただきたい。それと、人事権の乱用は慎むべきだと思います。.....小池知事の場合、有力局長を格下の事務局長にするなど、見せしめ人事を行うことがあります。また、女性活躍社会を演出したいのか、副知事、局長、部長クラスに適材適所でない女性を持ってきて、役に立たないと簡単に配置換え。そうした思いつき人事もやめていただきたい」

小池百合子優勢…都知事選前に絶対説明しない「2つの大切なこと」(文春オンライン); 都民は知る由もなく計五回に渡って防護服は中国に寄付された。総数は三十三万六千着。金額にすれば約二億五千万円