2009年4月21日火曜日

京都のいしぶみ 小松帯刀寓居跡ほか





今年のお正月の3日に全く予期しないところでこれを見つけました。
場所は、京都市上京区堀川一条東入ル南側(一条戻橋を西に入ったところ)。
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・正面:此向かい 近衛堀川屋敷跡
    小松帯刀寓居参考地
・左側面:藤原道綱母子 一条邸跡
      源頼光
・右側面:此付近応仁の乱洛中最初合戦地
 (写真の撮り辛い位置のため、写真はなしです)
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説明板には・・・。
「 当地は平安京の左京北辺二坊五町(キタノベ ニボウ ゴチョウ)にあたる。「蜻蛉日記」の著者藤原道綱母が住まいし、のち武将源頼光や道綱が引き継いだ平安時代の一条邸跡とされる。
 付近一帯は、応仁の乱の洛中での最初の合戦地でもある。応仁元年(1467)5月26日、東軍細川勝元方の京極持清は、この前を通って一条戻橋から西軍へ攻め入り、一条大宮で戦った。
 そのため、当時この北方にあった革堂(コウドウ、行願寺)・百万遍(知恩寺)・誓願寺などが焼亡した。
 以後洛中の寺社、貴族・武家邸がまたたくまに被災し、古代・中世都市平安京は壊滅する。
 江戸時代には、筑前福岡黒田家邸となった。同家御用達商人だった古高俊太郎・桝屋喜右衛門も出入りしたと推定される。元治元年(1864)6月5日、古高の政治活動をキャッチした新選組は彼を逮捕、池田屋事件の導火線となった。
 なお当地の向かいは、五摂家筆頭の近衛家の堀川邸で、内部に「御花畑(オハナバタケ)」があった。薩摩島津家の家老小松帯刀は「御花畑」のある近衛邸を寓居としたとされるため、当邸は有力候補地といえる。
 慶応2年(1866)1月、小松寓居には長州毛利家の桂小五郎(木戸孝允)が入り、その地で薩長同盟が締結された可能性がある。
 当地付近は千年におよぶ、たえまない重要な歴史の舞台地であった。
                                    歴史地理研究者 中村武生」
とありました。
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応仁の乱のこの日の戦いは、勘解由小路の斯波義廉邸(武衛陣、後に信長が将軍義輝の為にここに二条城を建てる、現平安女学院)に集結した西軍(山名方)が、一条大宮の細川勝久邸宅を襲ったので、東軍は京極持清を急派したところから始まるようです。
武衛陣については、下記。
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また、古高俊太郎については、下記。

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