2009年4月5日日曜日

石垣山一夜城(2) 北条氏、秀吉と敵対す












①は、城跡前の駐車場前に広がる風景。
②は、城跡から、小田原市街、相模湾を望む風景。雑木林が邪魔して現在の小田原城の天守閣が見えない。
③は、井戸の跡。これは、臨場感あります。ここの水を使って秀吉の茶会、茶頭は利休・・・。あったかなかったか。
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前回は、秀吉出陣~小田原落城のエッセンスを掲載しましたが、今回は、北条氏が秀吉に敵対するに至る経緯の「さわり」を・・・。
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天正10年の本能寺の変後、北条氏は信長家臣の滝川一益を関東から追放し、年来の夢である関東制覇の道を歩む。
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一方の秀吉は、織田信雄、上杉、家康をなんとか臣従させ、九州も武力制圧し、残るは北条と伊達(伊達と対立する佐竹は秀吉と誼を通じている)のみ。
家康或いは上杉を仲介しての、両者へのアプローチが始まる。
また秀吉は関白となり、「公儀」の立場から関東・奥羽惣無事を命じる。
もうひとつ秀吉政権で忘れてならないのは、三成ら強硬派と家康らの宥和派(=関東・奥羽分権派)の対立が、この戦略を左右する大きなファクタであること。
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余談ですが、奥羽に関して言えば、佐竹が先に小田原に参陣し、伊達は小田原落城後にようやく小田原着。家康や利休のとりなしでことなきを得ますが、秀吉の戦略は、次期ステップとして伊達をテコにした奥羽仕置を断行すること。
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宥和派に関して言えば、利休が切腹命じられ、秀長が病没し、利家が没し、遂には家康のみが残される(おまけに江戸へ移封)。
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先に行きすぎました。
以下、「黙翁年表」より。
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天正15年(1587)年1月6日
北條氏本城小田原城普請開始。対秀吉戦準備。
小田原城普請を課役された北条氏房は、この日に家臣の関根石見守に、2月6日に道祖土(サイド)図書助(ズショノスケ)に役を配分。氏邦は永楽100余貫文・兵糧500俵を負担。普請には氏照が立ち会い。この月、郷村に人足役配分。概ね、1~5月本城、5~9月上野の支城、10月~上野以外の支城の普請。
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3月1日
・秀吉、島津氏討伐のため兵2万5千を率い大坂を出陣。
(略)
「本願寺ならびに京・堺の徳人(豪商)以下、多勢お伴…高麗・南蛮・大唐までも切り入るべしと聞えたり、そもそも大へんの企、前代未聞なり」(「多聞院日記」)。
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5月
・北条氏支城の上野松井田城(群馬県碓氷郡松井田町)・箕輪城(群馬郡箕郷町)・金山城(太田市)で城普請。10月、武蔵岩付城・栗橋城、相模・駿河の足柄城・山中城(三島市)も普請。
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7月30日
・北条氏、諸郷村に対して「人改め」令を発する。軍事動員準備。
①「侍・凡下」を区別せず「御国」のために働ける者を選び名を書出す。
②弓・鑓・鉄砲のいずれかを準備する。「権門の被官」だと言って陣役を務めていない者、商人・「細工人」(職人)で15歳~70歳の者の名前を書き出す。
③「腰差類のひらひら(旗指物)」はいかにも武者のように見えるように支度する。
④戦の「能き人」を残し、人夫同前の役に立たない者を選んだ場合は小代官を斬首。
⑤よく働いたに者は望み次第に恩賞を出す。
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「定 
一 当郷において、侍・凡下をえらばず、自然御国御用のみぎり、召仕わるべき者をえらびだし、その名を記すべき事、
一 この道具、弓・鑓・鉄砲三様のうち、何なりとも存分しだい、但し鑓は竹柄にても木柄にても二間より短かきは無用に候、しからば権門の被官たりといえども陣役をいたさざる者、あるいは商人、あるいは細工人のたぐい十五・七十を切りで記すべき事、 
一 腰さし類のひら〃武者めくように支度いたすべき事、・・・」(「新編武州古文書」)。
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この人改令の対象は、「陣役(軍役)を致さざる者」と限定されており、軍役を負担する軍役衆=兵は除かれている。この「侍」は、主を持たず軍役を負担しない旧来の身分としての侍で、後北条氏の検地で「百姓」とされたもので、「兵」でない故に、「武者めくような支度」が命ぜられる。
動員されてもも「当郷にこれある者、侍・凡下共に廿日雇うぺく候」(「相州木古座宛動員令」)・「廿日以後は下知を得るにおよばず、軍役衆の外は指し返さるべし」(「天正五年武田家軍役条目」)とある如く、20日間の軍事動員に限定されている。
本来彼等は大名権力の権力体系の中で兵と区別された非戦闘員として位置づけられた存在で、それ故、彼等の動員の論理に、大名は「兵」の召集の論理が使えず、国家存亡の際という状況を強調し、「国にこれある者の役」という国家の論理を持ち出し、事実彼等の農兵としての動員は、国家防衛戦に限定される。
この人改令は、兵と農の明確な区分を前提にして出されたも。
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10月
・北条氏政、下総佐倉城に入城。下総の千葉家家督を氏政5男重胤が継承するが、年少のため氏政が佐倉に入り仕置きを行う。
この時期、北条領内の防衛体制を整備
武蔵の拠点江戸城に上野衆が配置、駿相国境の足柄城に北条氏光、伊豆支配の拠点韮山城に北条氏規が、下野唐沢山城に北条氏忠が入城。
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11月3日
・北条氏照、栗橋城(茨城県猿島郡五霞町)普請を命令。この月、山中城(静岡県三島市)の普請実施。
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12月3日
関東・奥羽両国惣無事令
豊臣秀吉、関東・奥羽両国惣無事令を発す。以降の合戦は私闘とみなす。
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12月24日
・北条氏照、対秀吉戦の陣触を領内に発する。28日、北條氏政も発令。小田原着府を1月15日とする。
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天正16年(1588)年1月5日
・北条氏照領内で寺院の鐘が徴用。6日、北条氏、伊豆桑原(静岡県田方郡函南町)に材木運搬人足を課す。7日、武蔵駒込(大田区)・相模千津島(南足柄市)に境目普請人足を課す。12日、鉄砲玉鋳造御用のため大磯~小田原の伝馬が使用。14日、伊豆桑原・塚本(函南町)に山中城普請役を課す。17日、氏照、兵糧調達のための出銭を命じる。
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1月15日
・この日、北条市の軍事行動開始日とされるが、15~20日頃、対秀吉戦争回避へ政策転換
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2月中旬
・北条氏政に派遣された家臣笠原康明、氏政書状を秀吉侍医の施薬院全宗に届ける。全宗は内容を確認し氏規に宛てて上洛を待つ旨返書。北条氏の対秀吉和平交渉と推測できる。
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3月19日、北条氏政・氏直は小田原の西光院に2千疋の地を寄進。
寄進状に、「この度、一ヵ条の所願の旨があるので、祈念を仰せ付けられたところ、異儀なく成就した」と書く。特定はできないが、期日からして笠原康明が小田原に戻る時期に近く、北条氏政・氏直の現下の優先課題は秀吉との関係であり、対豊臣和平交渉の成功を祈念したものと推測できる。
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4月6日
・家康、出羽の最上義光に上洛を促す。
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4月6日
・秀吉、東国・関東の群雄へ、戦闘停止と服属を求める指令を発し、上使金山宗洗を派遣。
「天下一統」強行を望む弱小大名の要請に応じた石田・増田・上杉ら強硬論者の画策。
その対極に、家康・秀次・前田利家・浅野長政・千利休ら分権派が形成され、秀吉政権内の権力闘争を生み出す。
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4月6日
・秀吉家臣富田知信、陸奥の白川氏に服属の使節派遣を勧告。唐国までも平定するのだから、関東・奥州は秀吉に従うべきという論理。
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4月14日
・北条氏照、伊達政宗からの書状を受けて、政宗家臣の片倉景綱に今後は北条・伊達連携が重要と書簡(対秀吉和平政策とは逆行)。氏照は進行する対秀吉和平路線に批判的。7月29日、政宗に宛てて連携しての佐竹攻撃を提案。政宗は、氏直に宛てて了解の旨の返書を送る。
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5月21日
・家康、秀吉・北条氏間交渉打開の為、北条氏政・氏直に起請文のかたちで3ヶ条を突き付ける。
①父子が上洛すればこれをを捕縛・処罰する、北条領を家康が得る、などの風聞があり、これに家康が関与しているなどの疑惑を否定し潔白を主張。
②今月中に北条家兄弟の上洛を要請。
③秀吉への出仕に納得いかぬなら、北条・徳川同盟を解消する(氏直の正室は家康の娘)。
北条氏は従属か対決かを迫られる。
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北条氏の即時氏規上洛を返答したと推測できる。6月、北条家では氏規上洛資金を配分。また、閏5月26日、秀吉は陸奥国磐城平城(福島県いわき市)城主岩城常隆に対し、「関東については北条がいかようにも上意次第と詫言を言ってきた」と伝えている。氏規即時上洛の報がこの時期に家康より報告されている。
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7月14日
・家康、北条氏規の上洛が遅れている為、家臣朝比奈泰勝を北条氏政・氏直に派遣。上洛催促。
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7月29日
・北条氏照、伊達政宗に共同して佐竹攻撃を提案。政宗は了解した旨を氏直に返書。
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8月7日
・北条氏政の弟氏規、伊豆韮山発。上洛資金は2万貫文。10日、三河岡崎着。17日、上洛。宿所は相国寺。22日、大坂城で秀吉に謁見。氏政の立場の釈明。24日、秀長の接待を受ける。29日、帰国の途につく。
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〇北条氏規:
氏康の4男。幼少期は駿河今川家で人質生活、隣人が同じ境遇の松平元康(のちの家康)。その縁からか、徳川家との交渉の窓口を努める。兄の氏政・氏照は強硬派、氏規・氏邦は穏健派。
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北条氏政・氏直赦免
9月2日付け秀吉朱印状で、秀吉は、反北条派の佐竹義重・結城晴朝・太田道誉・梶原政景(太田道誉の子)に宛てて、北条氏が上意次第と懇望したので「御赦免」したと連絡し、関東8州には上使を派遣して境界を確定する、上洛の折に仰せ聞かせる(上洛要請)、と朱印状発行。
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8月22日
・北条氏邦、長尾顕長の足利城攻撃のため足利着陣。氏照もこの頃着陣。(この日、氏規は大坂城で秀吉と対面)23日、外構えで合戦。冨岡六郎四郎が軍功あげる。翌年正月、足利城攻め開始。
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氏規入洛で豊臣政権との関係が和んだかに見える一方で、「惣無事令」を無視しての出兵。また、戦備増強も図られ、前年に続いて「人改め令」が発布され、普請工事・武具拠出の賦課が課せられる。相模田浦津(横須賀市)で浦伝役に苦しんだ領民の退転、上野福島郷(佐波郡)で百姓の欠落、下野星野郷(栃木市)で領主星野氏の欠落などの事態が生じる。
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9月13日
・施薬院全宗、伊達政宗に北条氏規上洛を報じ、政宗上洛を要請。10月5日、富田知信も来年早々の上洛を要請。最上・岩城は必ず上洛すると明言してきた為、先を越されると従来からの友好関係が無になる可能性があると指摘。
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11月30日
・北条氏規、家康家臣酒井忠次に足利事件(長尾顕長の足利城攻撃)の報告。他家(秀吉)の介入懸念。また、氏政が隠居と称して引篭もり取合わないと困惑をうかがわせる(氏政の上洛拒否に繋がる)。
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この頃、秀吉から使節妙音院・一鷗軒宗虎が小田原に到着、富田知信・津田信勝の書状が届く。また、家康使節の朝比奈泰勝も到着。彼らは北条氏の「沼田問題」(上野内の真田領の帰属問題)への返答を求める。若神子合戦後、家康より北条氏に権利が認められるが、真田昌幸は不服、家康に背き、上杉景勝・秀吉を頼り所領維持を模索。北条氏は沼田を攻撃するも落とせず今に至る。真田昌幸は家康上洛時に家康帰属とされ、天正15年3月には家康に出仕。
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天正17年(1589)1月10
・北条勢、足利城(長尾顕長)を本格的攻撃。この日、城際で合戦。24日にも激戦。
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1月19日
・天徳寺宝衍、足利城救済を上杉景勝に依頼。宝衍は、秀吉命で北条勢を撤兵させるべく、石田三成・増田長盛に相談し取り成しを得ようと画策。
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2月
・北条氏家臣板部岡江雪斎、上洛。「沼田問題」の事情説明。裁定は、上野の真田領の2/3は沼田城に付けて北条氏に割譲、1/3は真田昌幸に安堵、家康は割譲する2/3相当分を真田に所領として宛行う。
但し、秀吉から「北条上洛」(氏政・氏直どちらか1名の上洛)を約束する「一札」の提出が条件付けられる(この「一札」は即座には提出されない)。
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2月19日
・北条氏政、氏規に足利事件の処分を連絡。
足利の長尾顕長だけでなく桐生の由良国繁も問題であったが、由良は北条氏家臣に糾明された際、氏邦に取成しを依頼、桐生城を退去し城は破却、自身は小田原城入りする。長尾顕長は「逆意」なしと主張し再調査となる。氏政は「文なりとも、武なりとも、静謐にするので安心して欲しい」と氏規に連絡(長尾氏も由良氏同様に城を明け渡し小田原入りしたと推測できる)。
足利事件は北条・秀吉間の問題としては取上げられず、大名間の境界問題でなく北条領国内部問題とされた。
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金山城・館林城を拠点とし、上野国東部~下野国南西部に勢力を誇った由良国繁・長尾顕長兄弟は、完全にこの地域の地盤を失う。天正11(1583)年、佐野宗綱の画策への同調が躓きの最初。
小田原落城後、秀吉は、由良国繁・長尾顕長に対し堪忍分(生活費)として常陸国牛久(茨城県牛久市)を与える。宛先は「由良・長尾老母かたへ」と記される。子2人が捕縛される中で足利城で奮戦した老母に対するもの。
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3月
・この頃、宇都宮国綱、秀吉に上洛意志を伝える。石田三成は早急な上洛を要請。
①上洛中に北条氏に宇都宮を占領されたとしても、北条氏は既に秀吉に臣従しており宇都宮領土は保障される。
②北条氏照(栗橋城・祇園城・榎本城を拠点に宇都宮攻めを画策した)が上洛すれば、宇都宮氏は不利になるので早急の上洛が必要。
③進上物の準備は不要、と伝える。
三成の文書は、北条氏規上洛以降、佐竹・宇都宮氏に対して、従来のような味方を庇護する立場から圧力に近いものになる。
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6月5日
・北條氏直、妙音院・一鴎軒に氏政上洛は12月上旬の予定と伝える。22日には上洛人数・負担金手配がなされる。
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9月1日
・秀吉、1万石以上の諸国大名の妻子を在京させ人質とする。諸大名妻子を人質として在京させる指定期日。「世上、このゆえに震動」(「多聞院日記」)。
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9月3日
・秀吉秘蔵の刀(一文字という頼朝の守刀)が盗まれたとして責任を問われ、多くの男女が処刑。東北宥和派に近い浅野長政甥も切腹。
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10月
・秀吉、小田原攻めの準備として兵糧奉行長束正家と小奉行17人を任命し、
「一、…年内代官方より、弐拾万石これを請け取り、来春早々船にて駿州江尻・清水江運送せしめ、蔵を立て入れ置き、惣軍勢江相渡すべき事。
一、黄金壱万枚請け取り、勢州・尾州・三州・駿州にて、八木(米)買い調え、小田原近辺舟着江届け置くべき事 附 馬弐万(匹)之飼料調え置き、滞りなく下行せしむべき事」と命じる。
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10月14日
北条氏政上洛資金の配分中。北条氏忠が家臣に対して資金拠出を求める。締切は30日。緩やかな準備状況。
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10月23日
・名胡桃事件。北条(氏邦)家家臣沼田城代猪俣邦憲、真田家支城名胡桃城を奪う。名胡桃城代真田家臣鈴木主水、自殺。秀吉にとって北条氏征伐の格好の口実となる。
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11月10日
・秀吉家臣富田知信、奥羽の伊達政宗の会津攻め非難。「唐国までも」支配する殿下が公平に裁定する、勝手な行為は許さないとする。
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11月11日
・在京の佐野宗綱叔父天徳寺宝衍、上杉景勝家臣木戸元斎に書状。秀吉は4日に今月中の氏政上洛なければ来月20に出陣との意向を表明。
また、10日にも北条の上洛なければ出馬と発言。「八州が御静謐の上は、かの表の者共の過半を景勝に付ける」とも発言。
富田知信・津田信勝・施薬院全宗もこれを聞いた。自分は秀吉の旗本に召される、と連絡。この時点では、関東管領山内上杉家の系譜を引く景勝が関東にふさわしいと考えられていた(?)。天徳寺は旗本ではなく、佐野家当主として下野佐野に下り家康の監視役の役割も担う。
秀吉政権内部で北条誅罰の準備が始まる。
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11月21日
・秀吉、名胡桃事件(大名間の戦争禁止する「惣無事令」に違反し、真田昌幸の属城名胡桃城を乗っ取る)の報を受けて被害者の真田昌幸に朱印状。
この日の段階では、たとえ氏政上洛があっても名胡桃事件当事者処罰がなければ北条氏を赦免しないとする。即座の出陣ではない。
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11月22日
・北条氏政・氏直より名胡桃事件弁明使者石巻康敬が上洛。氏政の上洛なく使者のみの上洛に対し、「殿下御逆鱗」し、石巻の誅伐命令まで出る。
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11月24日
北条氏誅伐の宣戦布告
秀吉、政権内部の権力闘争を押し切り、北条氏政・氏直父子に対して長文の宣戦布告状(絶縁状)を送り、諸将に出陣の準備を命じる(出動時期は「来歳」とだけ書かれる)。
前田利家らは写しを伊達政宗に送り上洛勧告。政宗動かず。
29日、三成系の大谷吉継~家康経由、北条氏直に届く。
「北条事、近年、公儀を蔑し…」で始まり、「天道の正理に背き、帝都に対して奸謀を企つ」「天下の勅命に逆う輩(やから)」、来年必ず出陣し、氏直の首を刎ねる。この決定に変更はない、と結ぶ。
誅伐は「公儀」「天下」という関白の論理によって正当化・合理化される。
重要な政策:①全大名へ人質の提出要求、②検地施行要求、秀長が指揮。
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伊達政宗・北条氏直、及び関東・東北大名の反応:
浅野長政・富田一白・豊臣秀次・前田利家ら宥和派は、秀吉の東征が避けがたいと政宗に急報し上洛を勧告するが、政宗はこれに応じない。
氏直も、大政所(秀吉の母)と引き換えに父の氏政を上洛させると富田一白に伝えており、宣戦布告後は家康に仲介を依頼。しかし、三成らの強硬派の政策は最早確定している。
宣戦布告の写しは、関東・東北の大名にも送られるが、彼らは伊達・北條の圧迫に脅かされており、秀吉の東征を待ちわびる。
* 
・秀吉、小田原攻略に当って関東・東北の諸大名に小田原攻略参陣を通告。参陣すれば所領・居城の安堵、参陣せぬ者は領地没収・居城追放。
東北大名はこの指示に従い、角館の戸沢氏、続いて伊達、最上、津軽、秋田、南部氏は参加。
南部・葛西氏は内部に一族間の対立(南部氏は信直の藩主就任に反対する九戸政実(まさざね)一派との対立、葛西氏は気仙の浜田氏の謀反計画、葛西一族でありながら大崎氏に通じている富沢氏(三迫領主)の動向が心配)、小田原参陣の機会を失う。
大崎・和賀・稗貫氏も部内に同様な問題をかかえ、参陣に至らず。
伊達氏は他の諸氏よりも遅れて5月に参陣。
葛西氏は6月に参陣を断念し、逆に佐沼方面に軍勢を集結し邀(よう)撃体勢を整える。
* 
豊後の大友吉統(ヨシムネ)への指示:
①「御検地、残る所なく」実施すべき、
②「御国衆、何(イズレ)も在城」させ、「女子衆、悉く召寄」せる(家臣の妻子を城下に集める)、
③大名の妻子を在京させる。
* 
人質提出:
諸大名に対し、妻子を人質として緊楽へ同道し、9月1日から在京させよと発令。大友吉統への命令では、「上意」として、「日本何れも堅く仰せ付けられ、秀長御内様まで在緊楽」という大規模なものであり、「人質のこと、とかく御気色(ミケシキ)六敷(ムツカシク)」と報じられる。
* 
国衆と妻子を大名城下集住指令:
中央に各大名の人質を集め、各大名にはその城下に家臣・妻女を集めさせ、豊臣政権が全領主階級の統制を、各大名領の末端にまで貫くという意図を明確にもつ政策。
* 
軍役体系の深化。
軍役賦課は、検地による知行高(無役高控除後)を基準に「三・遠・駿・甲・信・七人役」「北国、六人半役」「五畿内、半役」「中国・四国、半役」など地域別に一定率をとる(100石につき5人の軍役を本役とし、半役はその半分)。
軍役割当方針は、東海・北陸に重く、畿内以西に軽い(家康領国狙い打ちの過重な軍事動員強制朝鮮侵略に備えた西国・九州勢の温存)。
配置も同様。東海道から家康軍、中山道から前田・上杉軍進発命令。中国勢は後方の備え(毛利輝元は「帝都の御警固」、吉川広家は兵500で尾張星崎城、小早川隆景は兵2500で清州城と苅安賀城)。 * 
家康の分国は、三河の岡崎城に秀長軍が入るなど殆ど全域が他国の大名の守備に委ねる形で、豊臣政権に開放させられる(九州動員の際の毛利氏の役割と同じ)。
三成ら強硬派の東国制圧の狙いの一環で、西に偏っている豊臣政権の勢力が、東海~東国へ浸透していく画期となる。
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軍資動員。
兵糧奉行長束正家、各地の秀吉蔵入地代官に年内に20万石をス駿府江尻・清水港に集結させる。黄金10万両で勢・尾・三・遠・駿より米を買い集め、馬2万頭の飼料と共に小田原近辺の港に集結させる。
輸送は、秀吉直属水軍の九鬼嘉隆のもとに、毛利水軍・長宗我部水軍(土佐)・加藤嘉明(淡路)の水軍が動員(翌18年2月末には清水港に集結)。
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大名の政商依存:
家臣団・妻子の城下集中命令により、大名は城下町の新設・再編を余儀なくされ、その過程で領内の職人・商人段と結びつきを強め、また上方商人への依存度を高める。
毛利氏(吉田郡山⇒広島城)、佐竹氏(常陸太田⇒水戸城)。
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12月8日
・秀吉、宮部継潤へ定軍役事を下す。編制は宮部継潤2千、垣屋恒総400、荒木重堅900、亀井茲矩(コレノリ)550、南条元続1500を動員。宮部継潤へ因幡国内4万3600石・但馬国二方郡内7370石、合計5万0970石を扶助。内、1万石は無役、残り4万石に対して2千の軍役を課すと通達(「宮部文書」)。
* 
この月、亀井茲矩は因幡国内1万3,800石の知行を与えられる。軍役負担は、総高から無役2,800石を控除した1万1千石を基準に「「五百五十人軍」を「本役」とするもの。これは、宮部継潤と同じ100石につき5人の軍役という基準によるもの。これが豊臣政権下での「本役」(石高当りの基準軍役)で、今回の関東陣では「中国・四国、半役」とされた為、実際にに亀井氏が遠江浜名城に動員した人数は270人、宮部継潤が浜松城に入れた人数は1,000人といわれる。
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12月10日
・秀吉、在京の上杉景勝・前田利家・家康と小田原攻め(北条氏征伐)軍議。~13日。
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12月13日
・秀吉、大坂城に帰城。20日、入京、聚楽第で初めて越年。
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天正18年(1590)1月2日
小田原評定
北條氏重臣、評定会議。和戦決せず、最終的に氏政の篭城説に落ち着く。 
4日、北条氏、領内に「諸軍討ち立ち」。小田原城に詰める命令。
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2月7日
・小田原攻めの家康の先鋒酒井家次・本多忠勝・榊原康政・平岩親吉・大久保忠世・井伊直政ら、兵を率いて駿河を出発。
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以下、秀吉方諸将の出陣・・・、3月1日の秀吉出陣と続く。

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