昭和13(1938)年1月14日
・トラウトマン駐中国独大使、日本提案の具体的性質と内容を知りたいとの中国側の回答を広田弘毅外相に手交。
取扱いを巡り政府と参謀本部が激しく対立。
参謀本部は、ソ連への敵意に基づく疑惑から、「朝に一城を夕に一村を各方面の戦線が前進し勝利の号外を聞くごとに北方に事なかれと祈り」、「常に裏口の狼を気にしながら表口に群犬を追いまくる気持」に陥っている(「西村敏雄回想録」)。
参謀本部は、ソ連への顧慮と中国の赤化防止とを至上とする観点から、国民政府を相手とする早期講和実現を望み、講和条件を過重にすることに反対。
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1月14日
・閣議、中国側の誠意のない引き延ばし策としてトラウトマン工作打ち切りを決定。
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1月15日
・孔祥熙行政院長、トラウトマンに、中国政府は日本の提案に回避的態度をしているのではないと説明し、前回よりも妥協的に表現された口上書を日本に伝達するよう依頼。
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1月15日
・南京、アリソン米大使館二等書記官、エスビー副領事纏め「南京の状況」と国際委員会の暴行記録をワシントン送付。米大使館の損害を巡り日本側と交渉。
また、南京の不祥事を本国へレポート。アリソンのレポートは、本国~東京のグルー大使~南京にはね返り、現地軍はアリソンに憤慨。
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1月15日
・大本営政府連絡会議、交渉継続派(長期戦を避ける)の参謀本部多田駿次長と政府(広田外相)が激論。
多田は、総辞職しかないと詰め寄られ、交渉打切りを黙認。既に作戦拡大を追認し、和平条件拡大にも追随してきた参謀本部の主張に迫力はなくなっている。
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会議では、近衛首相・広田外相・杉山陸相ら閣僚は、中国側に誠意なしとし、停戦交渉打切りを主張し、多田参謀次長のみが交渉継続を唱え対立(対立は政府と大本営の対立であり、陸軍省と参謀本部との対立でもある)。
広田は「外務大臣を信用しないのか」、米内ら閣僚は「政府は辞職の外ない」と迫り、多田は、「明治大帝は朕に辞職なしとおおせられた。国家重大の時期に政府の辞職云々とは何事か」と怒る。
会議は纏まらず、夕刻休憩に入る。
この休憩時、多田は中島総務部長・本間第2部長・河辺作戦課長を呼ぶ(戦争指導班は呼ばれず)。杉山陸相秘書官山本中佐と町尻軍務局長が、中島総務部長に「多田次長が諒承しなければ、内閣は倒れる。この非常時に内外に与える影響を考え、次長の翻意をうながせ」と説き、それに同意した中島の意見を多田がのみ、意見を変え譲歩。
夜の会議では、多田は、「統帥部としては同意できないが、内閣崩壊の不利を認めて黙過し、あえて反対を唱えない」と発言。
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杉山陸相「期限までに返電のないのは和平に誠意のない証拠である。蒋介石を相手にせず、屈服するまで戦うべきである」。
広田外相「永き外交官生活の経験に照し、支那側の応酬振りは和平解決の誠意なきこと明瞭なり。参謀次長は外務大臣を信用せざるか」。
近衛首相「速かに和平交渉を打切り、我が態度を明瞭ならしむるを要す」。
米内海相、「統帥部が外務大臣を信用せぬは同時に政府不信任なり。政府は辞職のほかなし」。
政府側は交渉打切りを主張。
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資本家の態度。
「軍需生産に当たる企業家も、支那事変が短期に終息するのでは拡張施設に投資するのに躊躇せざるを得ないので、心ひそかに拡大長期化するのを念願していた者もないとは保証し得ないのであった。これらが世論を作り出し、対支庸懲の国論を盛り上げ、政府も、国論や政党の動向に迎合し、勢い強い声明を発し、和平条件にも過酷の要求を中国側に強いるという結果になる傾向もないではなかった」(「戦史叢書」大本営陸軍部Ⅰ)。
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近衛は、戦勝国なのに「我より進んで条件を提示し、講和を促すことは我に重大なる弱点なき限り軽々になすべきことでなく、却ってそれがために、彼の侮りを受けて彼の戦意を復活せしめ、大害を将来に招く恐れありと考えて」いる(「講和問題に関する所信」(「近衛文書」「現代史資料」9)。
文相木戸幸一(親友近衛に協力する為、37年10月入閣)も、「こっちからわざわざ肚を見せた条件等を出して「これで講和したらどうか」というようなことは、今日連戦連勝の国の側から示すべき態度じゃあない。そんなことをすれば結局、「日本はよほど弱っている。もう既に危ないんじゃないか」というようなことで、内兜を見透かされ、そのために対外的には日本為替の暴落とか、公債の下落とかいうようなことで、商売もなんにもできなくなり、品物を買おうとしても買うわけにはいかんし、パニックでも起こったら一体どうするのか・・・」(「原田日記」弟6巻)という認識。
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参謀本部は「現政権否認後に来るものは長期戦にして、少なくとも四、五年に亘る覚悟を必要とし、兵力を更に増加し戦費を継続することは国際情勢及びわが国力上不適当とする旨数字を上げて累説し、放漫なる決心に陥るを防止せんとせるも、大勢は戦争次期段階の本質を究明せんとするの誠意に乏しく、滔々として強硬論のみ横溢せり」(堀場一雄)という判断。
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かつて支那駐屯軍司令官として華北分離工作を強硬に推進し日中全面戦争について大きな責任を有する多田が、いまや参謀次長として戦争の長期化を恐れ、その収拾に腐心しながら、結局強硬論に屈服。
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・参謀本部、近衛の上奏の前に帷幄上奏(直訴)を試みるが、実際は、近衛の後の上奏となる。
閑院官参謀総長が参内した時は既に近衛首相の上奏が終わっていたが、総長は次の趣旨を上奏。
①蒋政権否認に関する本日の連絡会議決定は、時期尚早にして統帥部としては不同意。
②しかし政府崩壊の内外に及ぼす影響を慮り、政府一任とした。参謀本部は帷幄上奏により、政府に対し再考の勅錠があるか、御前会議開催となるかと期待するが、翌16日の近衛声明となる。
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「帷幄」:「韓非子」にも出てくる古い漢語で、野戦用テントのこと。
統帥に関する作戦上の秘密は、陸軍の場合、参謀総長が、首相などを経ず、じかに天皇に上奏すること。
明治憲法第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」に基き、軍部が統帥事項について上奏することで、旧「内閣職権」(第6粂)及びそれを引き継いだ「内閣官制」(第7条)に規定されており、それは「事ノ軍機軍令ニ係」るものとされている。
今回の上奏内容(蒋政権否認反対)は統帥事項ではなく、外交大権に属し、帷幄上奏の対象にならないもので、天皇としても聞きおくより他なく、これにより、再考の勅諚や御前会議を期待することはできないもの。
参本多田次長は、和平問題は純粋の国務に属し、統帥部には関わりない事を理解していたようだという(風見章「近衛内閣」)。
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天皇が語るこの時の経緯(「原田日記」第6巻)」:
「実は参謀総長宮が来られたから「どういうわけで参謀本部はそう一時も早く日支の間の戦争を中止して、ソビエトの準備に充てたいのか。要するにソビエトが出る危険があるのか」ときくと「結局陛下の行幸の時の御警衛のようなもので、つまり、何にもないとは思うけれども、万一のことがあっては責任者として申し訳ないから、できるだけの御警衛を申し上げるのとおんなじことで、その意味でソビエトに対する準備をしたいのだ」ということを言っておられた。
それなら、まず最初に支那なんかと事を構えることをしなければなおよかったじゃあないか。参謀本部は近衛総理の拝謁より前に、参謀総長宮が拝謁したいという希望であったけれども、自分はこれは必ず決まったことを、またひっくり返そうと思うんじゃないかと思ったから「総理と最初に会う約束をしているから、それはいけない」と言って断った」。
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1月15日
・陸軍軍需監督官令公布。
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1月15日
・中国戦線への笑いの慰問団、吉本興行の「わらわし隊」一行、門司港出港。
柳家金語楼、花菱アチャコ、横山エンタツなど、ミスワカナ・玉松一郎、石田一松、杉浦エノスケ、神田ろ山、千歳家今男、柳家三亀松、京山若丸。~2月中旬。
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1月15日
・向坂逸郎「日本資本主義の諸問題」、階級闘争主義として発禁
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1月15日
・朝鮮人志願兵制度許可決定
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1月15日
・仏、第3次ショータン内閣瓦解。共産党の棄権とショータン内閣の挑戦により社会党は閣僚引上げ。ルブラン大統領はショータン、ダラディエ、ボネに組閣依頼。ショータンが組閣。社会党は入閣せず
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1月15日
・イタリア、東アフリカへの植民開始。
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中旬
・南京、宮崎事件。
目に余る行動を発見した南京憲兵分隊長宮崎有恒大尉が、第16師団の査問委員だった将校と通訳数名を逮捕し手錠をかけ連行。これに対し、師団側が反発し、参謀長を立てて軍司令部へ抗議。宮崎大尉の転任で収束させる。
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形式的には憲兵尉官は佐官以下の将校を取り調べる権限を持つが、兵科将校は憲兵将校を見下す傾向があり、「統帥侵害、不敬事件」(木佐木師団参謀日記)、「非常識な越権行為、不都合な奴」(上村軍参謀副長日記)と反発。
宮崎大尉は、部下の石倉伍長が、「たとえ参謀といえども、軍紀を紊乱するものは容赦なく取締った」(石倉「南京大虐殺説の実証的考察と対応」)と書く硬骨の士で、難民区で女性を囲う軍司令部少佐参謀を取り調べ、「和姦」と判定、説諭にとどめ帰隊させたこともある。南京の高級将校には女性を囲う者が少なくなく、師団のみならず軍にとっても宮崎大尉は煙たい存在。
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1月16日
・山西省臨時政府籌備委員会主催の「県政会議」開催、晋北・晋中11県の県維持会長が出席、太原特務機関の谷萩顧問が維持会を基礎とした県政府公署組織を指示。~18日。
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1月16日
・閣議、昭和13年度物資動員計画決定。物資動員計画発足。
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1月16日
・第1次近衛声明。
トラウトマンを通じ和平交渉打切り通告。「爾後国民政府を対手にせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、是と両国国交を調整して、更正新支那の建設に協力せんとす」。
参謀次長多田駿は声明発表延期を訴えるが、陸軍大臣杉山元(一撃論者)がこれを押える。
外務大臣広田弘毅は、和平条件が厳しく中国は乗るまいと見切る(広田は「軍部と右翼に弱い人」(石射猪太郎東亜局長))。
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以後暫くは、大本営政府連絡会職は開催されず、重要政策決定の舞台は五相会議に移される。また発表と同じ日、ドイツ大便に和平交渉打切りを通告。
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「南京をやったら敵は参る」(武藤参本作戦部長)、「南京を攻略せば(蒋は)下野すべし」(松井石根)と強行した南京攻略戦の政略的失敗を政府・軍中央が自ら認めたかたちになる。
首都南京が陥落しても中国は屈服せず、屈服するまで戦争を拡大・継続すると決定。日本を長期日中全面戦争の泥沼に引きずり込む決定的契機となる。
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「対手」としたのは、「対話のあいて」という「相手」よりも狭いニュアンスを出そうという外務省当事者の狙いによるものといわれるが、強硬派の要求により、18日には、「対手とせず」とは「否認」より強い意味であり、「否認すると共に之を抹殺せんとするのである」との補足声明が出され、対手にしないのだから宣戦布告もありえないと付言される。
近衛自身は後に「対手とせず」は誤りだったと語るが、「対手」にするかしないかという点がではなく、「支那軍の暴戻を庸懲し以て南京政府の反省を促す」との最初の戦争目的を、「新興支那政権の成立発展を期待し、更生新支那の建設に協力する」という新しい戦争目的に置き換えた点が重要。
声明は、軍事的勝利の上に立つ威勢のよいものに見えるが、実は、「南京政府の反省を促す」という最初の目的を実現できなかった政治的失敗を認めるもの。
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この声明の文章は、「陸軍省軍務課の河村参郎と佐藤賢了とが頭をひねって考え出した合作だった」(元朝日新聞記者田村真作「石原莞爾の悲劇」(「文芸春秋」昭和25年7月号))。
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社説「帝国政府の声明」(「東京朝日新聞」17日付朝刊)、全面的に政府を支持。
「帝国不動の対支方針を闡明すべき歴史的重大声明は十六日正午内閣より発表された、その全文は左の通りである」
「〔帝国政府声明〕帝国政府は南京攻略後尚お支那国民政府の反省に最後の機会を与うるため今日に及べり、然るに国民政府は帝国の真意を解せず浸りに抗戦を策し内民人塗炭の苦みを察せず外東亜全局の和平を顧みる所なし仍て帝国政府は爾後国民政府を対手とせず帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し是と両国国交を調整して更生新支那の建設に協力せんとす、元より帝国が支那の領土及主権並に在支列国の権益を尊重するの方針には毫もかわる所なし、今や東亜和平に対する帝国の責任愈々重し、政府は国民が此の重大なる任務遂行のため一層の発奮を翼望して止まず」
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・この日夜ドイツ大使館に入ったトラウトマンからの電報では、中国政府の態度は「脈アルコトハ勿論、少ナクモ文面ノ表面ハ和平ノ誠意テ有シァルコトハ事実ナリ」(「参謀本部機密作戦日誌」1月17日)というもの。
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1月16日
・稗田利八(池田七三郎、90)、病没。最後の新選組隊士。
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1月16日
・米、ベニー・グッドマン、ニューヨークのカーネーギー・ホールで初のジャズ・コンサートを開く。
to be continued
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