2009年4月24日金曜日

1871年4月4日 デュヴァル銃殺 マルセイユ・コミューン崩壊 パリ・コミューン(14)

■1871(明治4)年4月4日
・日本、「戸籍法」制定・公布。民部省起案。翌5年2月~実施。壬申戸籍。明治6年3月、全国の戸籍簿3万1千冊が完成。
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市街地で4~5町、村部で7~8村を基準に区を設け、戸籍事務を行う為に戸長を置く。
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[福井藩の例]
6月、福井藩は、村方の郷を区に改め、郷長を戸長とし、里長を廃止。
また、同法では、士族卒農工商の別なく居住地の順に戸籍編制する為、福井城下は、町方12区と士族卒の町を合わせ、新たに8区に編制。これにより3人の坊長が戸長と改称され、族長が廃されて新たに5人の士族戸長が任命される。武生・三国の市街地も夫々1区となり、福井藩は16区16戸長となる。
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4月4日 パリ 
・砲・食糧もなく、コミューン軍は退却。
デュヴァルはヴェルサイユ軍の捕虜となり、ヴェルサイユ軍総司令官ヴィノアの命令でその面前で銃殺。ティエール軍はシャティヨンとクラマールを占領。捕虜虐殺
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[経緯] 
ヴェルサイユ側ヴィノワ将軍はヴェルジェ師団の1旅団を、ムードンのファロン将軍への増強部隊として派遣。
ペショ旅団は、ペレ師団・デロージャ旅団に支援のもとにシャティオン保塁を攻撃。ペショ旅団第70混成連隊が正面に殺到し、側面のデロージャの第109連隊は連盟軍の背後に回る。ペレ将軍が生命を保証する投降勧告を出し、午後5時頃、保塁守備隊は降伏。
ヴェルサイユへの連行途中、ヴィノア将軍は将校全員の射殺を命令。
護送部隊長が、投降の際に助命の約束を与えたことを述べると、ヴィノアは、「指揮官は誰か?」と尋ねる。デュヴァルが名乗り出て、次いでデュヴァルの参謀長と義勇兵指揮官が名乗り出るヴィノアの命令により、デュヴァルと将校2名は銃殺処刑される。
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ヴェルサイユでは、官吏やその家族、社交界の貴婦人たちが道路にとび出し、捕虜に対して、唾を吐きかけ、拳骨や棒や日傘で殴りつけ、捕虜の帽子や上衣を剥ぎとり、「人殺し!」 「ギロチンへ送れ!」などと叫ぶ。
捕虜たちはサトリーの軍用倉庫に投げ込まれる。
捕虜の証言。「最後にわれわれはサトリーへ連行され、千六百八十五人の者がそこの軍用倉庫におしこめられた。疲労と飢餓でへトへトであったが、狭い所にぎっしりつめられ、横になる場所もなく、二日二晩立ったままで、ときどき交代で湿った藁の上に横になるだけであった。ロに入れるものといっては、パンと、番兵がその辺のどぶ池からすくってくる臭い水だけであった。」。
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多くの捕虜処刑の証言。
ある警察隊将校は殺された5人の国民軍兵士の死体を見たと言い、別のひとりは、ヴェルサイユへの行進を拒んだ18人の捕虜が射殺されたと伝える。
ガリフェ将軍はシャトゥーの広場で連盟兵を銃殺し、住民たちに向かって、「戦争はパリの悪党どもによって宣せられた・・・昨日、一昨日、今日、彼らは私の部下を殺した。・・・私がこの暗殺者たちに宣するのは、休戦も慈悲もない戦争である・・・今朝私は手本を示さねはならなかった。」と宣言。
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・ヴァンヴとイッシーの要塞は、デロジャおよびラ・マリウーズ将軍の軍隊を撃退。
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・コミューン、国民軍経理部を、国民軍中央委員会管轄下に移譲する決定。
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・軍事代表委員クリュズレ将軍が総司令官(桂圭男著書では「総司令官格の「陸軍省代表」」)になる。衛兵、特に司令部再組織を望む。
歩兵中隊創設。
ドンプロウスキー(1838~71年、旧ポーランド士官、フランスに亡命)、ウロプレスキーラ・セシリアなど優秀な将校を補佐役に据える。
17~25歳の独身男子市民を召集(重大な過失。確信を持つ古い革命家を除外することになる。中小ブルジョアジーの服役忌避者・逃亡者を発生させる)。
コミューン軍の完全な再編成ができるまで防禦態勢に留まる事を望む。
軍隊移動はパリ防塞地区指揮官ベルジュレ将軍命によってのみ行われると決定。
コミューン砲艦隊指揮官、水兵達に勤務につけとアピール。
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[その後の総司令官の異動]
4月末、クリュズレはその無能さによって、罷免され逮捕される。後任はクリュズレの参謀長ロセル。しかし、ロセルは元職業軍人ということで猜疑の目で見られ就任後10日で罷免され、老革命家ドレクリューズに代る。ドレクリューズは民衆に尊敬される人物であるが軍事的は素人。
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・パリで「調停派」が再び活動、パリ権利擁護共和主義同盟を組織(国民議会から離脱した議員3名、パリに残る区長若干、その他自由主義者若干)。
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彼らは議会とティエールの責任を確認。各地(パリと地方)で民主主義的・非宗教的共和政を求める請願や声明の署名が行なわれ、内戦終結が要求される。
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「内乱を避けることはついに不可能であった。
パリの権利を承認しようとしないヴェルサイユ国民議会の態度が、運命的に流血を不可避ならしめた。今日となっては、すべての市民を死物狂いにさせている闘争がその運命的結果として、共和制とわれわれの自由の喪失をともなわないように努力することが肝腎である。
それで大多数のパリ市民を一つの考えによって統一する明確な綱領を作成して、理解の混乱と努力の分裂を防ぐ必要がある
・・・われわれは次の綱領を採用した、それは、われわれの確信によれば、パリ市民の欲するところを表現したものである。
すなわち共和制の承認、良心の自由と警察・財政・厚生・教育の自治管理をともなう、自由に選挙された市会によるパリの自治的権利の承認がそれである。パリの警備は、兵役の能力あるすべての選挙人によって構成された国民衛兵のみに委ねられるであろう。」。
最後に、和解達成の為の精力的な努力の必要を強調し、それのみが和平を回復し、共和制を救い得るであろうと結ぶ。
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・フルーランス、デュバル虐殺の報復として、パリ大司教ダルボア、マドレーヌ教会司祭ドゲリーその他の司祭や僧侶を人質として逮捕。保安委員会、反動新聞3紙を発行停止。
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・パリ第3区区長、学校・軍隊に対し、16~20歳の青年の中から、体操教師養成の特別無料学校開校を公告。
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・パリに少女用職業学校を開講。職業教育とともに、将来の手工業婦人の一般教育も予定する。
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・パリ~ヴェルサイユ間の鉄道その他一切の交通断絶。
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・コミューン兵士、イエズス会経営サント・ジュヌヴィエーヴ学校攻撃。神父8・修士4・使用人7名を留置。教会は、パンテオン(偉人たちの記念殿堂)となる。
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校長デュクードレ神父はコンシェルジュの独房に、他のものは拘置所の大部屋に入れられる。6日に彼らはコンシェルジュからマザの監獄に移される。彼らと共に移動させられた人質にはパり大司教ダルポワ、元議長ボンジャンら民間人も多い。13日にはセーヴル通りのイエズス会本部で捕えられたイエズス会員も連行される。4月初めに始まった人質逮捕は5月に入っても続く。
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・連盟兵捕虜、ヴェルサイユに到着、中に世界的に有名な地理学者エリゼ・ルクリュがいる。捕虜への侮辱。
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マルセイユ・コミューン崩壊
マルセイユでは、この日早朝、政府軍が、市内に突入、人民のデモへ発砲。市街でバリケード戦。県庁奪回。マルセイユ・コミューン崩壊。コミューン戦士の大量逮捕と銃殺。
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▽[マルセイユ・コミューンの経緯] 
マルセイユの3月23日のコミューンは、マルセイユ地区の露天鉱における1867、68年の大ストライキ、1870年8月8日の暴動など先立つ運動と考えあわせる必要がある。
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1870年8月8日、「先進的」共和主義者ガストン・クレミューが指導し群集が市庁舎を占拠、コミューン成立。
しかし、勢力を回復した警察が、にわかに消極的になった群集を追い散らし、クレミューと彼の仲間は見捨てられ降伏。
9月5日、労働者が市民衛兵3個中隊を編成、市民衛兵は、「正式の」市や県に対して、第2の権力、蜂起の常備兵力を代表する。
9日マルセイユのアルハンブラ公会堂において、無政府主義的傾向のインターナショナル派パステリカが、南仏統治の組織と、労働者を支柱とする国民総動員と人民武装を命ずる地方執政府の組織を要求。
28日、南仏同盟は最初の会合を開き、この計画を支持。
以後、数ヶ月間、マルセイユは殆ど自立的な政府、国家の中の国家を持つことになる。
最も積極的なメンバーは、1793年の意味での公安委員会への道を、南仏同盟(革命的コミューン)としてのこの連合体の中に中に見出す。
11月1日、革命的コミューンを宣言。ガンベッタは中央集権主義者としてそれに抵抗し、特別行政官をマルセイユに任命。市民衛兵と国民衛兵の正面きっての戦い(内戦)が勃発しようとする3日、市民衛兵は、勝利の確信がなく屈服。
9月5日以後占拠している県庁を明け渡し、最初のマルセイユ・コミューンは瓦解し、社会主義的傾向をもつ南仏同盟(ガンべッタはフランス南東部の知事たちに宛てた回状の中で非合法であると声明する)も消滅。
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この年1871年3月22日夜、ガストン・クレミューは聴衆1千人超に対しヴェルサイユを激しく非難。「諸君、家に帰り、諸君の銃を取りたまえ。攻撃のためではなく、諸君の身を護るために・・・」。
知事、市長、駐屯部隊司令官エスピヴァン将軍は、衛兵の「善良分子」による一大示威運動を計画し、23日朝、太鼓で召集を告げるが、秩序派国民衛兵は集結せず、アンドゥームとラ・ベル=ド=メー地区の衛兵が大勢駆け付ける。
10時~12時、ベルズュンス散歩道に、ガリパルディー派、市民衛兵、義勇兵などが民衆の大隊に加わる。
午後、大群集が「パリ万歳」を叫び県庁に乱入、プーシュ=デュ=ローヌ県知事コニエ提督を逮捕。クレミュー、靴屋マリエル、人足エチエンヌ、組立工ギラールら委員6人からなる委員会設置され、やがて委員の数は市議会・国民衛兵クラブの代表者を加え12人に達し、委員会は地方権力を掌握する。
委員会は、マルセイユにおいて、全市民は自ら自治を行ない、市民の地域的関心は県或いは地方(レジヨン)にまで拡大される、と宣言。
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マルセイユ・コミューンの運命はパリ・コミューンの運命のパロディーとなり、その縮図的な予告となる。
クレミュー指導する委員会は、県議会でもあるコミューン議会を普通選挙で選ぶことによって、また、知事の職務を果す市長と県の軍事的指揮権をもつ衛兵連隊長を任命することによって、委員会の地位を早く正常化しようと望む。
「われわれは、コミューンの自治と共に、行政の地方分権化を望む」という布告が出されるが、この声明も「単一不可分の共和国万歳!」という呼びかけで終る。
委員会は、2、3日間、市行政を担当しようとして、市中に溢れる東部方面軍の敗残兵、義勇兵、遊動隊、ガリパルディー派、ポーランド人志願兵などの軍隊の問題に専念する。
この間、エスピヴァン将軍はティエールを真似て、信頼のおける軍隊と、彼に従う官僚を、郊外のオバーニュの町に撤退させ、反撃の準備をする
市当局は和解を画策し、人々は混乱する。
27日、市当局の代表者が委員会から退き、委員会の孤立が深まる。
28日、パリのコミューン代表者がに到着するが状況立て直しできず。パリのコミューン代表はクレミューを攻撃し、クレミューは委員会から退く。しかし彼らは、衛兵大隊を整理したり、街頭に分散している兵士を集結させることさえせず、4月5日の選挙を告示するだけで満足している。
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選挙は4月5日午後6時実施のため、エスピヴァン将軍は「クーロンヌ号」「マニャニーム号」乗員と指揮下の全軍隊を結集させ、4日、マルセイユを砲撃。
しかし、兵士たちは、黒旗を先頭にした非武装デモ隊が、「パリ万歳」と叫びながら進むのに出会うと、砲兵や、空砲の他に2発発射したばかりの大砲と共に、群衆に引きずられて行く。
エスピヴァンは反対側のサン・ニコラ要塞から、コミューンの拠点県庁を砲撃
ランデック、メジー、カンレ・ド・タイヤックらパリの代表委員はガストン・クレミューと共にエスピヴァンに会い、無防備の人々への殺戮に抗議すると、エスピヴァンは、部下の反対を押し切り、ガストン・クレミューとパリの代表委員たちを逮捕。しかし、すぐに釈放されるや、「コミューン万歳!」と叫び、群衆や、人民と交歓する兵士の間を通って立ち去る。
エスピヴァンは反動派や猟兵を窓の背後に隠れさせておき、サン・ニコラ要塞の大砲に掩護させ、7時間にわたり銃撃戦を展開。夕方、水兵たちは守備隊が放棄した県庁を占領。正規軍側損害、死者30・負傷者50。反乱側犠牲者150超(砲撃による犠牲者、その場で銃殺された人を除く)。
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5日、エスピヴァン将軍は、麾下部隊と市中を行進し、「キリスト万歳!」「サクレ=クール万歳!」を叫んでノートルダム・ド・ラ・ガルドに参詣。冷たい野次が彼を迎える。
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エスピヴァンからヴェルサイユへの報告。
「一八七一年四月五日、マルセイユ。
師団長より陸軍大臣へ。
本官は麾下の軍隊を率い、かくかくたる勝利をもってマルセイユ市への入城を飾りました。本官は大いなる歓呼をもって迎えられました。
司令部は現在、県庁におかれています。革命委員会の代表委員たちは昨日朝、個々に町を退去しました。
エックスの裁判所の検事総長は、本官のもっとも献身的なる協力者でありますが、フランス全土にわたり拘引状を発しております。われわれは五百人を捕虜としました。本官はこれらの者をシャトー・ディフに送りこみます。
現在マルセイユは完全に平静であります。 エスピヴァン将軍」
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マルセイユの蜂起を支持する運動やその反響。
4月4日、労働者パルパルーによるエックスにおける蜂起の企て、5月ドラギニァンに短命のコミューンを引きおこすヴァール県の革命的動揺など。
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リモージュ、ヴェルサイユ政府支援の軍隊派遣に対し労働者たちが蜂起。コミューン宣言の試み、弾圧
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この日、この地に駐屯の戦列歩兵連隊がヴェルサイユ軍増強の為に出動命令をうける。彼らを駅まで送った群衆は、パリの殺戮に加わらないよう兵士たちに誓わせ、彼らはこれを誓い、人々に武器を渡し兵営に引き返す。兵営では、将校の前で町中が兵士たちに喝采を送る。
しかし、当局側は市庁舎に集まり、市長が弾圧に乗り出す。市長は胸甲騎兵に、服従拒否の分遣隊掌握と群衆鎮圧を命じ、戦閥が始まる。
結果、秩序派は武力で勝利。但し、胸甲騎兵の連隊長・中隊長が死亡。
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リモージュの労働組合は、パリのコミューン成立後、代表をパリに送り、コミューン委員のリモージュへの派遣を希望するが、コミューン執行委員会は、それは不可能と回答。
パリのコミューン指導者には運動を全国的規模に展開する計画も熱意もない
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パリの革命に呼応して起った地方都市の運動は、分権的コミューンを信奉する急進主義にのめりこみ、ブルジョア国家権力の反撃を許し、4月初め迄に、ティエールの思惑通りに、パリは地方から遮断され、孤立する
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to be continued
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