治承4(1180)年4月9日(3)
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〇以仁王について:
後白河院の第2皇子。三条高倉に住んだので高倉宮・三条宮とも称す。「王」「王女」は、「親王」「内親王」の宣旨を受けられない皇子・皇女の称号。
異母兄弟は天皇(兄は二条天皇、弟は高倉天皇)。
白河・鳥羽・後白河の血の半分は閑院流で、以仁王はいとこ同士の父母による息子。母の閑院流藤原成子(高倉三位(タカクラノサンミ)局)は後白河の母・待賢門院の姪。
後白河の最初の皇子は二条(1143生)、次が守覚法親王(法親王は、出家した親王)、3番目が以仁王(1151生)。守覚と以仁王は同母で、女流歌人式子内親王も同母。 異母弟の高倉(1161生)は以仁王よりも10歳年下。
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後白河と成子(高倉三位)の間には男2女4の子が生まれ、男(守覚と以仁)は幼少期から出家の道に進み、守覚法親王は第6代御室(仁和寺の最高位)となる。女4人のいずれもが齋宮となり内親王となっている。長姉・亮子は安徳准母として殷富門院の院号を授けられている。つまり、以仁を除く全員が親王宣旨を受けている。
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以仁王は、兄同様、出家のため天台座主最雲(堀河院皇子)に預けられるが、応保2年(1161)最雲が没し、その遺領城興寺領を譲られ、里に戻り、15歳の永万元年(1165)、近衛・二条の「二代の后」として知られる近衛河原の大宮多子の御所で密かに元服。
幼少時より、鳥羽上皇の妃で二条天皇の母である美福門院の娘八条院の庇護を受け、その猶子とされ、周囲から秘かに二条帝の流れを継ぐ皇位継承者と目されていた。
半年前に二条天皇が譲位して順仁親王(六条天皇)が帝位につくが、皇太子は決まっていなく、元服には皇位への希望が秘められていたと推測されている。
しかし、その翌々年の仁安2年(1167)に後白河の寵妃建春門院(滋子)の生んだ憲仁親王が皇太子に立てられ、翌年に8歳で即位するにおよびその望みは断たれてしまう。こうしたことから建春門院に疎まれ、その圧迫により親王にもされず、無官の王として以仁王は不遇の日々を送る。
「平家物語」に「故建春門院の御猜によって、押篭められさせ給ひけり」とある。
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八条院に出仕する女房との間に、若宮(7)・姫宮(5)があり、八条院がこれを養育。明経・紀伝・陰陽道を学び、笛にすぐれ、蝉折という名器を所持し、書にも秀れていたという。
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(異説)
「平家物語」「吾妻鏡」のように頼政が高倉の宮に平家打倒を誘いかけたのではなく、事件の中心人物は高倉の宮であるとの説。
「頼政はそれまでの七十六年間にわたる生涯を大過なく過ごして来、多少歌道と武芸にすぐれた身が報われなかったとしても、とくに不遇であったとはいえない。ことに前年三位に叙せられたのも清盛の推挽によるもので、平家打倒に決起する動機を見いだしがたい。
これに反して以仁王には、帝位への望みを平家ゆかりの高倉天皇の即位によって妨げられたうえ、師僧最雲の死後に譲られた常興寺とそれに付属する荘園を平氏の推す座主明雲のために没収されたことから、平家に対する宿怨が強く、これを排除しようとするじゅうぶんな動機をもっていた」と指摘(上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」)。
また、謀反発覚の際、頼政の子の兼綱がその追捕役人の中に含まれ、三井寺攻めの討手の大将の1人に頼政が選ばれるなど、当初は頼政を首謀者とする観測は全くない。「頼政に謀反の動機がなく、以仁王に動機が多いとすれば、『平家物語』にいうように頼政が以仁王をそそのかしたのではなく、以仁王が頼政を誘ったことになる。」という。
また、「以仁王が令旨を発し、謀反をおこすにいたったのは、安徳の立太子により以仁王の皇位継承が絶望となった段階で、後白河が平氏に幽閉されたことがおそらく大きく影響しているであろう。」と、皇位継承の夢を断たれた無念の思いが、宮を平家転覆の反乱へと駆り立てたとの推測もある(五味文彦「平家物語・史と説話」)。
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〇「物語」に描かれる以仁王。
□「源氏揃」(「平家物語」巻第4):以仁王のプロフィール。
「その頃一院(後白河)第二の皇子(出家した守覚法親王は数えない)以仁の王と申ししは、おん母加賀大納言季成卿のおん娘なり。三条高倉にましましければ、高倉の宮とぞ申しける。
去(イ)んじ永萬元年(1165)十二月十六日、御年十五にて、忍びつゝ、近衛河原の大宮御所にて御元服ありけり。御手跡(シュセキ)厳(イツク)しう遊ばし、御才学すぐれてましましければ、太子にも立ち、位にも即かせ給ふべかりしかども、故建春門院の御猜(ソネミ)によつて、押し籠められさせ給ひけり。
花の下の春の遊には、紫毫をふるって手づから御作をかき、月の前の秋の宴には、玉笛をふいて身づから雅音をあやつり給ふ。かくして明し暮らしさせ給ふ程に、治承四年には、御年三十にぞならせましましける。」
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「今鏡」巻8
「高倉の三位と申すなる御腹に、仁和寺の宮の御室(オムロ)伝へておはしますなり。・・・次に元服せさせ給へる(以仁王のこと)おはしますなるも、御文にもたづさはらせ給ひ、御手など書かせ給ふと聞えさせ給ふ。」。文芸に通じ筆跡も巧みですぐれた資質を備えているという。
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「古今著聞集」巻13
「二条院かくれさせ給て、中納言実国卿、白河宮(以仁王)にまゐり見まゐらせけるに、故院にあさましく似まゐらせ給ひたりければ、・・・」。二条天皇に生き写しという。
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□皇統を巡る争い
以仁王は八条院の猶子となるが、その時期は不明。
幼少時、天台座主最雲(法親王、堀川天皇の皇子)の弟子となるが、応保2年(1162)12歳の時、師が没し還俗。永万元年(1165)12月16日、15歳の時、大宮・多子の邸である大宮御所(向かいには頼政邸がある)で密に元服(5歳の弟宮(高倉)が親王宣旨を受ける9日前)。
閑院家や六条家の流れは、以仁王担ぎ出しを企図し、平氏側はその弟宮憲仁(高倉)を皇位につける準備を進める。
以仁王元服の2日後、元服式場を提供した大宮多子は出家し、4ヶ月後、王の生母の兄権中納言公光は免職されている。
以仁王元服(15歳)時点では、5歳の弟親王に対しては、帝位候補者として優位な足場を固め、それ故に高倉帝位を実現させようとする平家側からは厳しい警戒とその後の圧迫(「建春門院(滋子)の御猜」)が想定される。
to be continued
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