2009年4月16日木曜日

ジャン・カルヴァンの生涯

ジャン・カルヴァン(1509年7月10日~1564年5月27日)
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ピカルディ生まれ
1509年7月10日、フランスのピカルディ地方のノアヨンに生れる。父は、裕福な中産階級の官省関係・教会関係の役人。
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「ピカルディ気質」とは:
アペル・ルフラン(フランソワ・ラプレー研究家)の指摘。「ピカルディー人は、常に、誰かとあるいは何かと争っている。イギリス人相手に戦っていない場合には、貴族を相手にして戦っていたし、イスパニヤ人を向うにまわしていない場合には、聖職者を向うにまわしていたし、既成制度に歯向わぬ場合には、与えられた観念や思想に歯向っていた」。
「のぼせ頭のピカルディー人」ということわざもある。かっとなって反抗的になる気質。
カミーユ・デムーラン、バブーフ、ジュール・ミシュレ、ピエール・ラ・ラメ、ルフェーブル・デタープルらがピカルディ生まれ。
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ノワヨンのカペット学寮で、古典学の基礎的知識を身につけ、教会関係の職禄を与えられ、父の希望通り、将来は聖職者として立つ準備をする。
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パリで学ぶ
・1523(14歳)、ピカルディ地方に黒死病が流行し、父の配慮により、親しいモンモール家の子らと共に、パリに送られ勉強を続ける。この年、ギョーム・ファレルもパリへ出る。
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パリでは、最初、パリ大学附属ラ・マルシュ学寮でマチュラン・コルディエより厳しい薫陶を受ける(後年、一城の主となった際、旧師マチュラン・コルディエをジュネーブへ迎え手厚く遇する)。
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1年後、因襲的で、極めて苛酷な教育を施すモンテギュ学寮に移る。デシデリウス・エラスムス、フランソワ・ラプレーもここの出身。健康を損う。
自由自在に推論する技術と方法を身につけ、刻苦する生活が与える純粋な喜びも味わう。旧教の硬直的な側面への疑惑を抱き始める。
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この頃のフランスにおけるカトリックとカトリック批判派(デターブルら)を巡る状況
1525年2月25日、フランソワ1世が、パヴィヤの戦い(イタリヤ)で神聖ローマ・ドイツ皇帝カール5世に破れ捕虜となりマドリッドに軟禁される。
王の国内政策(福音主義者やルター派に比較的寛大)反対派のパリ大学神学部の神学者たちは、王が異端思想に寛大であった為にこのような敗戦と屈辱を蒙ったとの「天譴説」まで持ち出して、思想検察に圧力を加え始める。
1526年3月、王が釈放されて帰国するまでに、摂政の母后ルイーズ・ド・サヴォワを中心とするフランス王国政府は、福音主義者やルター派の弾圧に乗り出し、王帰国後も、それが一進一退しながら続く。
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1525年3月、温和な改革主義者ルフェーブル・デタープルらはパリ高等法院に告訴され、1526年春には、エラスムス「対話集」がパリ大学神学部によって禁書にされる。
また、この年初め頃から、福音主義者との理由で、ギヨーム・ジゥベール、ジャーク・プゥアン(パヴァーヌ)ら青年たちが火刑に処せられる。
1528年2月、パリで開かれたサンス国内(地方)公会議、同年3月にブゥルジュ及びリヨンで催された国内(地方)公会議との議決によって、ルターの教理は異端邪説として排撃されることになり、異端弾圧は、更に過酷になってゆく。
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ルフェーブル・デタープル(1455年頃~1536年3月)
アリストテレス哲学・ブライ語を研究した後、エラスムスと併行的に聖書の原典批評を志し、1521年4月15日、著書の一つが、ソルボンヌ大学神学部によって異端と断ぜられる。
こういう状況下で研究を続け、新・旧約聖書の仏訳まで完成。
1521年6月、パリ東北の司教ギョーム・ブリソンネに招かれ、1523年、モーの教会の司教代理となる。教会制度に批判的なブリソンネ、ジェラール・ルゥセル、ギョーム・ファレルらと語らい、モーの教会を、自分たちの理想通りに導き、カトリックを止めないものの新しい理念を唱道し、農民たちを感化する。
モーの教会の人々(「モーの聖書学者たち」)は、カトリック教の頑迷な神学者たち(主にパリ大学神学部の人々)の弾圧に屈し革新思想弾圧政策をとらざるをえなくなったフランス王室・政府から異端者と断ぜられる。
1525年3月29日、パリ最高法院で、デタープルとギョーム・ブリソンネとに対する告訴が審議され、8月、2人に出頭命令下る。デタープルは、ジェラール・ルゥセルを伴い、ドイツ領ストラスブゥールヘ逃亡。モーの集団は壊滅。ギョーム・ファレルは、既に1523年、モーを退去しパリに出る。
デタープルの改革思想は、福音主義(教会の制度・伝承よりも聖書中の教えに従うほうが正しいとする主張)の線に沿っており、ルターの抜本的改革方式と比べると微温的漸進的
ルターの戦闘的な反カトリック教会主義に心惹かれるギョーム・ファレルの考えは、モーの人たちから見れば「行きすぎ」で、ファレルも、モーの人々の態度に不満となり、ついに、ファレルはモーを退去。
その後、デタープルは、国内情勢が緩和した折に帰国し、マルグリット・ド・ナヴァール公妃に庇護され、1531年頃からネラックに隠棲し、そこで没。
マルグリット・ド・ナヴァールは、国王フランソワ1世の姉、16世紀フランス文学史中屈指の閏秀作家、多くの被迫害者を救援、西南仏ナヴァール地方(ピレネー山脈に沿った地方)を領するアンリ・ダルプレ公妃、アンリ4世祖母。
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オルレアンに赴く
1528(19歳)、所定の学業を終え、モンテギュ学寮を去る。宗教改革思想を持ち始め、徐々にカトリック教神学者とて立つことに疑問を感じ始め、この年、法律研究の志を抱いて、オルレアンに赴く。オルレアンでは、成績抜群の学生として、無試験で博士にさせる申し出がなされるが、これを辞退。
1529年4月17日、フランスにおけるエラスムスやルターの紹介者ルゥイ・ド・ベルカンが、1523年以来様々な迫害を受け続けてきた挙句に火刑に処せられ、福音主義者およびルター派およびユマニストたちは大衝撃を受ける。
1530年5月21日、パリのオブリー・ル・ブゥシエ街に安置されている聖母マリヤ像に対して、新教徒の狂信者が、短剣でその心臓部その他に傷をつけるという事件が起り、一段と厳重な異端弾圧が行われることになる。
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ブールジュに赴く
1530年、カルヴァンは、ブールジュの大学で法律を講じる法律学者アンドレヤ・アルチャチ(アルシャ)に教えを乞うためブールジュに赴く。また、1529年以来、マルグリット・ド・ナヴァール公妃の招きでブールジュに来ていたドイツの学者メルキオール・ヴォルマール(熱心なルターの支持者)からギリシャ語を学ぶ。
ブールジュ滞在中、後年無二の配下ともなり後継者ともなるテオドール・ド・ベーズに出会い、マルグリット・ド・ナヴァール公妃を中心とする人々(宗教改革に同情的見解を持つ)と交際。
この頃のカルヴァンの思想は、まだ福音主義的であり、ルフェーブル・デタープル流の温和なもの。
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再びパリに出る
1531年、父の見舞いに一時故郷ノワヨンヘ戻る。父は、町の教会関係の人々と悶着を起し破門の刑を受けており、5月26日の没後も墓地への埋葬許可を得る為に教会関係者と面倒で不快な折衝を行う。彼は、この事件のために、絶対的圧力を持つ教会の存在について深く考えざるをえなくなる。
その後、再びパリに出て、創立されたばかりの王立教授団の講義に列席し、ピエール・ダネスからギリシャ語を、フランソワ・ヴァトプレ(ヴァタープル)からヘブライ語を学ぶ。この頃は、ギリシャ語・ヘブライ語は「異端」思想に触れる古典語として、旧式な学者(特に神学者)からは白眼視されている。
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「王立教授団」:
フランソワ1世が、側近の学者(特にギヨーム・ビュデら)の勧告を容れて、偏狭な神学者たちが勢力を持つパリ大学に対抗させる意図で創設させたと云われる。しかし、実際は、王は、自分の治世に何か誇らしい光輝を添えようという野心から、こうした勧告に従う。
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セネカ「寛容について」の註釈を出版
1532年4月4日(2回目のパリ滞在中)、セネカ「寛容について」の註釈を出版。評判にはならないが、ユマニストとしての最初の業績としては、名実共にふさわしい研究。
いずれ追いつめられて「不寛容」な行動をとらざるをえなくなるカルヴァンが、「寛容について」を研究対象にする事に注目すると、この1530年代のカルヴァンは、「寛容」を権力者に要請しなければならないような気持になっていたとも云える。
つまり、従来通り安穏とカトリック教会内に落ち着いてはいられない、真にキリストの精神を具現する教会のあり方を真剣に考え始め、権力者から迫害されている福音主義者や宗教改革運動家(ルター派)と同じような思想的立場に到達しかけている。
パリでセネカ「寛容について」の註釈を上梓して間もなく、再びオルレアンヘ赴き、更にまたパリへ帰来。
1933年3月、ルフェーブル・デタープルの弟子筋に当たるジェラール・ルゥセルが、ルーヴル王宮内で、福音主義的説教をして大成功を収める。王家の人々も、ルゥセルを攻撃する旧教派神学者たちから、これを庇うようなことも見られ、フランス国内の宗教思想問題は、一時小康を得た形で、甚だしい圧迫は福音主義者にもルター派にも特に加えられなくなる。
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パリを退去し逃避生活へ。国内を転々とした後、バーゼルに赴く
この年11月1日、パリ大学総長に選出されたニコラ・コップ(医学者、カルヴァンの親友、父ギヨーム・コップはフランソワ1世の侍医でエラスムスの友人)が、恒例により、マチュラン教会で就任演説。演説は、極めて福音主義的であり、たちまち物議をかもし、コップは告発され最高法院出頭を命ぜられる。コップは、友人の忠告に従い、直ちにバーゼルへ逃れる。コップの友人50人余が逮捕され、12月10日、コップと親しいカルヴァンも、変装してパリを退去。真相は不明ながら、コップの演説草稿をカルヴアンが書いたという説が現在でもある。
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パリ退去後のカルヴァンの動静は、詳細には判明しないが、1534年前半は、シャルル・デスプヴィルという偽名を用いて、中部フランスのアングレームの町でクレーの司祭ルイ・デュ・チーエ(一時カルヴァンと行動を共にし、のち旧教へ再改宗)の世話になっている。
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1534年5月以前に、東南フランスのネラックで、老残の身をマルグリット・ド・ナヴァール公妃の庇護の許に寄せているルフェーヴル・デタープルに会う。1536年初め、デターブル没。
デタープルは、没直前、「福音を教え続けてきた自分が、自分に教えられた結果殉教せねはならなくなったたくさんの人々よりも長く生き残り、死の危険を避けてきた以上、死後まともに神のお顔は拝せない」と後悔したという。
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1534年5月4日、以前から持っていたノワヨンにおける教会関係の職禄を辞退。カトリック教会と絶縁
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その後のカルヴァンの逃避生活。友人デュ・チーエと共に、パリ~ポワチエ~オルレアン~ロレーヌ~ストラスブールを経て、1934年晩秋バーゼル(バール)へ到着。
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1534年10月17日夜~18日、「檄文事件」起る。カトリシスムの聖体拝領およびミサ聖祭を激しく嘲罵した文書が、パリ、オルレアンの街頭、アンボワーズの城にいたフランソワ1世の寝室の扉にも貼附される事件。
1534年10月末~1535年初夏、ルター派、福音主義を奉ずる人文主義者(ユマニスト)、少しでも「異端」臭のある人々に対し、容赦ない迫害、火刑が行われ、多くの文学者・思想家(詩人クレマン・マロ、フランソワ・ラプレーなど)が姿を消す。
この事件は、穏和で漸進的な福音主義運動の挫折と、新教徒の結束と暴力的抵抗とを産み出し、カルヴィニスムの誕生を用意したと言える。カルヴァンは、まずフランス新教徒の、ついで全宗教改革運動の代弁者として抗議に立ちあがり、これを契機に新しい道に進むことになる。
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「キリスト教綱要(教程)」を出版
1536年3月(26歳)、バーゼルにおいてラテン語でキリストの福音を土台とする新しいキリスト教会のあり方を示す大著「キリスト教綱要(教程)」を出版。その後、1539、43、59年に修正増補版が発表され、フランス語版も1541年に出版。一躍、新教派理論家として認められる。
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「全ての者は、同じ条件のもとに創造されたのではない。ある者は、永遠の生命に、他のある者は、永遠の断罪に、あらかじめ定められている。したがって、人はだれでもこの目的のどちらかにむけて創造されており、つまり、いってみれば、生に対してか、死に対してか、そのいずれかだということだ。・・・したがって、聖書が示すところに従ってわれわれは主張する。神は、永遠の計画によって、救済にあてようとする者と、滅亡にあてようとする者とをあらかじめ定めたのである。」。
魂の救済は、人間の意志によるのでなく、神によって最初から決められているというこの教義は「予定説」と呼ばれる。
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序文「王に捧ぐる書簡」(1535年8月23日付)は、フランソワ1世に宛てられ、新教徒はフランソワ1世が説くような狂人でも愚人でも暴徒でもなく、ただ神の言葉のみによって生きているのであり、神の道に背く事はしていない、逆にこれを迫害する人々こそ、悪魔の手先であることは確実だ、と強く抗議。
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この頃の状況を、「詩篇註解」(1557年)序文で説明。(黙翁の判断で改行を施した)
「私は、常に人に知られずひそかに生活しようと考えていたのに、神は、あらゆるところへ私をお引き回しになり、いろいろ有為転変によって右往左往おさせになったのであるが、しかも、どこかで私が休息するという風には断じてしてはくださらず、その結果、私の性格がそうではないのに、明るみへ私をお出しになり、いわゆる一勝負やるようにおさせになった。
そして事実、フランスの国を後にして、意を決してドイツ(=語を話す地方、スイスのバーゼルのこと)に来てしまったのであるが、それは、いつも願っていた通り、どこか人に知られぬ片隅で静かに生活できるようにと思ってのことであった。
しかし、全く人目を避け、あまり人にも知られずに、バーゼルに住んでいた間に、フランスでは、何人もの信者や敬虔な人たちが火あぶりに会ったし、その噂は外国にまで伝えられて、大部分のドイツ人が、こうした火刑を甚だ怪しからぬものと思うようになり、かかる暴虐行為を主唱した人々に対して怨恨を抱くようになってしまった。
この怨恨を鎮めるために、虚偽に満ちたぶざまな小冊子がいくつも流布されたが、それらによると、夢幻のような考えと誤った意見とのために、宗教のみならず政治的秩序をも転覆しようとする再洗派(=幼児洗礼を否定する派)や謀反の徒である場合はいたし方ないとして、それ以外の人々は、あのように残虐に取り扱われてはいなかったということになっている。
そこで、教皇庁の手先の連中が、そ知らぬ顔をしてロを拭い、死後聖なる殉教者たちに加えた偽りの非難や讒謗によって、このように無辜の血を流した怪しからぬ行為を闇に葬ろうとしたばかりか、更にその後にいたっても、哀れな信徒たちを徹底的に殺害する方法を案出し、しかも、彼らに対して誰の同情をもひかぬように仕組んだことを見て、私としては、できる限りのことをして、勇敢に反対しないでいるならば、黙ったまま卑怯不正な態度だったと咎められても、言いのがれはできように思われた。」
「そして、これが、私の『キリスト教綱要(教程)』を公にするように私を刺激した原因だったのである。
第一には、人々が撒き散らしたよこしまな非難に答えて、主の御前に貴重なものとなった死を与えられた私の兄弟たちの冤罪をすすぐためであった。
次には、同じような残虐なことが、ほどなく多くの哀れな人々に対して加えられかねなかっただけに、外国の人々の心が、少くとも、こうした人々に対しての同情と配慮とによって動かされるようにするためであった。」
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この頃、バーゼルは、既に宗教改革の町となっており、カピトあるいはケプスタインと呼ばれるウォルフガング・ファブリキウス・ケプフェルやエコランパディウスと通称されるヨハンネス・ホイスゲンら新教派有力者が、バーゼルで相次いで福音主義思想および宗教改革思想を広めている。
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1536年7月12日、エラスムス、バーゼルで没。
晩年のエラスムスは、旧教会側からは憎悪され、新教色の濃いバーゼルの人々からは、ころび者・裏切り者・卑怯者として白眼視されていたと伝えられる。
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ジュネーブに赴くが追放される
これより先の1536年4月頃、カルヴァンは、バーゼルを去ってフェラーラに赴く。エルコーレ・デステの公妃ルネ・ド・フランス(ルイ12世と王妃アンヌ・ド・ブルターニュとの間の子、フランソワ1世の義妹、福音主義・新教に同情的)の庇護を受けるため。
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1536年4月末、バーゼルに戻り、パリに赴き、1536年7月、ジュネーヴに赴く。
この頃、ジュネーブでは、ルフェーブル・デタープルの弟子で、急進的思想の持主となっているギヨーム・ファレルが、1532年以来、独力で新教を宣伝し、危険を冒しながら新教会建設に大童で、1535年には、ファレルの煽動により、ジュネーブ民衆は、各所の旧教教会を略奪破壊するようなことまでしでになる。これによって、旧教会内にある、無知な信者たちを欺くためのいろいろな仕掛けを暴露する。
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ギョーム・ファレルは、デュ・チーエの仲介で、カルヴァンと面会し、カトリック教会が倒されたジュネーヴで、新しい教会を建てる為の協力を求め、カルヴァンは、これを承諾。
1536年9月、カルヴァンは、ファレルの同僚として、ジュネーブ教会内で、聖書の講義を始める。
カルヴァンは、未成年者教育をはじめ一般市民の風紀改革(生活粛清)を志し、「破門」の刑を重視し、市民生活指導を受持つ長老会議の長老を任命したり、市当局(政府)と教会との分離によって教会独立を企てたり、新教への信仰告白を市民に要求し、既にルターによって開かれた宗教改革の道に、更に厳粛で組織だった補修を加える。
カルヴァンの粛正改革は、ジュネーブ市政府委員会の賛意を得るものの、あまりの急激な粛正行動に不満を持つ人々や、「リベルタン」(宣誓強制を嫌う上流市民)の猛然たる反対にあう。
あたかもジュネーブ市政府委員会は改選期にあり、新委員に反カルヴァン派が選出され、1538年4月にはカルヴァンとファレルは、ローヌ河に投げ込まれるほどの危険な迫害を受けた後、4月23日、ジュネーブから追放される。
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ストラスブール時代。カルヴィニスムの基礎を確立。
追放後、2人は、ベルヌへ赴き、ジュネーブで再起を期す方策を尽すが果たせず、バーゼルヘ逃れる。
7月下旬、ギヨーム・ファレルはヌーシャテルに招かれ赴任。カルヴァンは、8月1日、ドイツの博学な新教徒マルチン・ブッツェルから、ドイツ領ストラスブールの亡命フランス人を組織して新しい教会を確立するよう招聘される。
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1538年9月、カルヴァンは、ストラスブールで説教を始め、翌年からは、大学の神学科講師をも兼ねることになる。またブッツェルらの協力を得て、フランス人亡命者を組織して「フランス人小教会」を作る。
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カルヴァンは30歳になり、このストラスブール時代に、カルヴィニスムの典礼の根本は定まったと考えられている。主要著作の一つの「キリスト教綱要(教程)」フランス語版(1541年出版)編集もここで行われる。カルヴァンと共に辛苦を分かち合ったデュ・チーエが、カルヴァンの思想・行動の前進に不安を感じ、袂を分かちフランスでカトリック教に再改宗するのもこの頃のこと。
カルヴァンは、このストラスブールで、小規模ながら自分の理想に近い教会を作り、その組織体の生命を保持する為の知識と自信とを徐々に獲得してゆき、一方でドイツの新教徒と連絡を取り、新しい教会の布陣案を得る。
カルヴァンは、自分の理想を地上に打ち樹てる為に必要な政治力を握り始める
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1540年8月、カルヴァンは、ブッツェルの勧めで、イドレット・ド・ピエールという寡婦と結婚、男子(天折)が生まれる。イドレットは1549年に没するが、献身的のカルヴァンを支えたという。
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1540年代、ジュネーブでは、カルヴァンやファレルの改革を支持するギーエルマン派(ギヨーム・ファレルの名から作られた呼び名)が勢力を盛り返し、1541年7月、毀された廃墟の上に再建作業を行う為に、カルヴァンの復帰を要請する声が強くなってくる。
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この時のファレル宛書簡。
「私の気持は次のようなものです。もしも自分で道を選べるとするならば、貴君の願い(=ジュネーブへ帰ること)を容れるよりも、むしろ、ほかのどんなことでもやりたいと思う。しかし、私は、自分が自分自身の主ではないということを思い出すので、私の心を、生贅として屠られたものとして主に捧げます。
私の求めることは、ただ一つしかないのです。それは、私のことを気にかけずに、我々の仲間の者どもが、神の栄光と教会のためを思って、何が一番よいことかを考えてくれることなのです。」
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再びジュネーブへ。神政政治の実現。
1541年9月13日、カルヴァンはジュネーブに再び赴き、ジュネーブの教会再建、カルヴィニスムの牙城建設が始まる。しかし、自分たちに峻厳な粛清行為を司令をする人間(カルヴァン)がフランス人(外国人)である事により、市民の憎悪と反感が、カルヴァンの前に立ちはだかる。
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カルヴァンは、神政政治を実現するため教会規則を制定し、礼拝の儀式制度から市民の社会生活に至るまで、果敢な刷新を断行。反対者はことごとく排除し(カステリオ追放、セルヴェ焚殺)、遂にジュネーヴを教会都市とし、長くヨーロッパのプロテスタンティズムの牙城とする。
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カルヴァンが犯罪として告発した事件の例。
①放浪者に占いをしてもらった事件。
②(カトリック教会のために)聖杯を作った金銀細工師の事件。
③ダンスをした事件。
④25歳の男と結婚しようとした70歳の女性の事件。
⑤ローマ教皇は立派な人だと言った事件。
⑥礼拝中に騒いだ事件。
⑦説教中に笑った事件。
⑧「ゴールのアマディス」(スペインの騎士物語)を一部持っていた事件。
⑨カルヴァンを諷した歌を歌った事件。
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断罪された事件
①1564年春、ピエール・アモー事件。誣告罪、罰金。
②1547年春~秋、フランソワ・ファーブル事件。擾乱罪、投獄。
③1547年春~秋、アミ・ぺラン(前者の女婿)事件。擾乱罪、投獄。
④1547年夏、ジャーク・グリュエ事件。謀反罪、斬首。
⑤1548年春以降、フィリベール・ベルトリエ事件。擾乱罪、破門。
⑥1551年春~冬、ジェローム・ボルセック事件。擾乱・不敬罪、投獄の後追放。
⑦1553年秋、ミシェル・セルヴェ事件。火刑。(別途掲載)
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その後、カルヴァンは、名実ともにジュネーブの独裁者として、その理想実現に邁進。
1555年5月、「リベルタン」派頭目アミ・ぺラン、ピエール・ヴァンデル、クロード・ベルトリエ、フランソワ・ダニエル・ベルトリエ(フィリペール・ベルトリエの兄弟)たちの起した暴動を鎮圧、端役を演じた船頭コンパレ兄弟と共に、ベルトリエ兄弟を死刑に処す。弾圧の結果、多くの「リベルタン派」は、国外へ逃亡し、受刑者の妻子は追放に処せられる。
コンパレ兄弟処刑の際、執行人の失敗から、何度も惨澹たる斬首が繰り返される。受刑者の言語を絶する苦しみについて、カルヴァンは、ファレルに対し、「裁判官の判決以外に、二人とも死刑執行人の手で長い責苦を受けたことは、神の特別なお裁きがなくてはありえぬことだと私は確信しています。」と書き送る。
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この頃、フランス国内の弾圧が厳しくなり、フランスの新教徒が、続々ジュネーブに亡命し、フランス王アンリ2世(フランソワ1世の息子、カトーヌ・ド・メディチの夫)は、イスパニヤのへリベ2世と結んでジュネーブ抹殺を計画。1559年7月、アンリ2世急没で計画は実現されないが、直前まで、ジュネーブは戦時体制を準備。
アンリ2世没後、フランス国内では、王族たちの勢力争いに新旧両教派の対立が絡み、コンデ公やアンリ・ド・ナヴァール公を戴く新教徒軍が、各地で旧教徒軍(王軍及びギュイーズ公軍)と戦い、新教徒及び福音主義者への圧力が強まる。ジュネーヴでは、カルヴァン指揮の下で、「外敵」に対抗するために、フランス国内の新教徒たちに加勢するようになる。
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1558年、ジュネーブでは、カルヴァンの理想通りの教育機関(大学)が創設され、カルヴィニスムのために挺身する多くの青年たちが養成される。
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1561年9月、ポワシーの会談(新旧両教の妥協・相互理解によって宗教戦乱の流血をくいとめる意図で、新教徒頭目ナヴァール公アンリ(後のアンリ4世)が懇請したもの。失敗に終わる)には、カルヴァンは、腹心のテオドール・ド・ベーズを派遣。テオドール・ド・ベーズの演説は、多くの人々に深い印象を与えたという。
カルヴァンは、その間、絶えずベーズに書簡を送り、イグナチウス・デ・ロヨラを頭目とする「イエズス会」(カトリック内部の刷新運動)がカルヴィニスム分裂を計画していることに注意せよと警告。
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1559年12月24日、肺結核による喀血をする。その上神経痛や結石にも苦しめられる。
1564年5月24日、盟友ギヨーム・ファレルに手紙をしたため、27日没。
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以上は、殆ど渡辺一夫著「フランス・ルネサンスの人々」(岩波文庫)に依るものです。
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フランス・ルネサンスの人々 (岩波文庫)

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余談(オランダで「清貧カルバンブーム」)。
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「読売新聞」(2009年3月10日)
「「清貧カルバンブーム」
禁欲的教理で知られる16世紀のキリスト教宗教改革指導者ジャン・カルバンが、金融危機をきっかけに、オランダで一躍脚光を浴びている。日本でバブル経済崩壊後の1990年代に起こった「清貧ブーム」とそっくりの現象で、華美や快楽、金銭欲を戒める動きが広がっている。
オランダのバルケネンデ首相は先月、金融危機に関する論文で「物欲、金銭への執着、利己的商法が(危機を)引き起こした」と指摘。カルバンの教えに立ち返ろうと国民に呼びかけた。
日刊紙トラウは、自社ウェブサイトに「カルバン度」を試す診断コーナーを開設した。「ぜいたくな食事が好きか」「ファッションにこだわるか」など24項目の設問に答えると、自分がどれだけカルバン主義か、百分率で表示される趣向だ。
カルバンを「16世紀のバラク・オバマ(米大統領)」と紹介する特集記事を載せた雑誌は、発売と同時に売り切れた。・・・
今年はカルバン生誕500周年に当たり、厳しい経済情勢と相まって、国民の“清貧魂”が呼び覚まされたようだ。昨秋以降、新車販売が落ち込む一方、自動車の売上が急増するなど、カルバン旋風は実際の消費行動にも現われ始めている。」

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