2009年4月23日木曜日

横浜 金沢八景 明治憲法起草の碑









先日、称名寺に行ったついでに立ち寄ったところです。
*
①②③「明治憲法起草の碑」。
明治憲法の政府(伊藤博文)草案は、通称「夏島草案」と呼ばれてまして、私も伊藤博文の夏島別荘で仕上げられたと思ってましたが、③にあるように初めはこの相州金沢の料亭「東屋」で作業が始まったそうです。
明治20年6月から、伊東巳代治・金子堅太郎は「東屋」に泊り、伊藤博文は夏島別荘から、井上毅は野島旅館から通い、この「東屋」においてドイツ人顧問ロエスレルの意見書、伊藤らのドイツにおける講義筆記などをベースに検討を開始しました。ところが、8月6日夜、機密書類の入った行李が盗まれ、翌日発見されましたが、以降の作業は伊藤の夏島別荘で行ったとのことのようです。
ただ、この頃、この憲法草案の一部が「西哲夢物語」という秘密出版物で出回ったといいますから、この盗難事件があるいは絡んでいたりするのでしょうか。
*
そもそも政府側の憲法制定作業は明治14年(1781)に始まります。
明治14年(1781)3月末
・筆頭参議大隈重信は、「国議院開立の年月を公布せらるべき事」との意見書を左大臣有栖川宮熾仁に提出。第5項で「明治十五年末に議員を選挙せしめ十六年首めを以て国議院を開かるべき事」(明治16年会開設)、政党内閣制を盛り込む。
福沢諭吉の高弟で太政官権大書記官矢野文雄の起草(2年前出版の福沢「民情一新」と殆ど同じイギリス流の議院内閣制度。急進的で岩倉に衝撃与える。
井上毅は、時期的には大隈意見書と同時期での国会開設を主張。但し、皇帝権限の強いプロイセン憲法を模範とするよう主張。岩倉は憲法・国会問題を新設の部局に委ね、ここに岩倉の意に沿った人物を送り込む策を立てる。
*
4月8日
・福澤諭吉の弟子グループ「交詢社」(明治12年9月設立)、「私擬憲法案」発表。福沢の同意ものと矢野文雄(後、改進党)・馬場辰猪(後、自由党)ら、30回以上の会合を経て作成。憲法草案作りに苦心している愛国社以外の地方結社は、この交詢社案を拠り所とする。
* 
明治14年7月12日付太政官書記官井上毅の伊藤博文宛書簡。「・・・皆な憲法考究と一変いたし候にこれあり、その憲法考究は、すなわち福沢の私擬憲法を根にしたし候ほかこれなく、ゆえに福沢の交詢社は、すなわち今日全国の多数を牢絡し、政党を約束する最大の器械にこれあり。・・・その主唱者は十万の精兵を引て無人の野に行くに・・・」。
*
6月27日
・伊藤博文、太政大臣を通じて大隈意見書を借覧。
*
7月1日
・伊藤博文、大隈意見書に関して三条に怒りの手紙、辞意表明。2日、岩倉に参議辞任表明。
*
7月5日
・右大臣岩倉具視、井上毅起草の憲法大綱領を太政大臣と左大臣に示す。
*
・岩倉具視意見書(井上毅執筆)は、交詢社の私擬憲法案を「英国の規範の倣うもの」と断定、朝野に浸透と危惧。
植木枝盛などは交詢社を敵への内通者と見るが、井上毅から見れば交詢社は自由党と変わらないものに見える。
*
また、この日、伊藤博文と大隈重信が会見、伊藤は大隈案に反対を表明。
*
7月8日
・伊藤博文、辞意撤回。岩倉らが憲法制定作業の促進を申合せ、大隈が、伊藤に弁明したため。
大隈・伊藤間の確執。
*
7月27日
・井上馨(政府内での国会開設論の急先鋒)、伊藤に対し大隈との絶縁を提言。
「・・・ついに彼の先生(大隈)は人望を得るを主とし、今日に至るまでその定説なきは、ご承知の事と愚考せり」。
*
7月29日
・井上馨、イギリス流議院内閣制モデル(福沢・大隈派)の放棄を伊藤に提言。イギリスの立憲君主制はアメリカの共和制に近く、日本に導入には適さない(裏で、プロイセン憲法を規範としようとする井上毅の働きかけ)。
*
また、この月26日には「北海道開拓使払下げ問題」が表面化し、参議・開拓長官黒田清隆は窮地に立たされるが、29日、黒田は、伊藤に対し、この問題は大隈の陰謀と説く。
大隈と福沢系「東京横浜毎日」「郵便報知」が組んで、払下げを攻撃し、黒田は大隈に激怒、薩長系参議を打倒する陰謀と捉える。大隈との断絶決意。
*
にわか仕立ての議院内閣論者になった大隈は、反国会派の黒田から、国会論者の井上からも、機会主義者として反撥される。
*
こうして、大隈追放の「明治14年の政変」へと展開してゆく。
10月11日
・この日、閣議は、大隈抜きで、北海道開拓使官有物払い下げ取り消し・大隈重信参議の罷免・勅諭による10年後の国会開設と欽定憲法制定の宣言。
*
10月12日
・国会開設の勅諭。
国会の組織・権限(憲法の内容)は、天皇が親裁し人民の議論を禁圧(強硬な弾圧方針を示し脅迫)。自由民権運動に分裂の楔を打ち込もうとする戦術的譲歩と反動攻勢の開始宜言。
*
この日、大隈罷免に続き、農商務卿河野敏鎌、駅逓総監前島密(11月8日)、判事北畠治房のほか、大隈一派と目された官吏、矢野文雄、小野梓、牛場卓造、中上川彦次郎、犬養毅、尾崎行雄、島田三郎など免官。
*
明治15年3月3日
・参議伊藤博文、憲法調査のためヨーロッパ出張を命じられる(勅書)。同行者は、後に憲法草案作成に参画する伊東巳代治(参事院議官補、後に農商務大臣)・平田東助(大蔵省少書記官、後に内務大臣)・西園寺公望(参事院議官補)ら。
3月14日東京発。5月~翌83年2月、ベルリンとウイーンで、グナイスト、スタイン、モッセらから講義を受ける。83年8月3日帰国(横浜着)。
*
伊藤は、「憲法の如きは主に独国に模倣し、拙者如きも我日本のビスマークたらんことを期望せり。則ち我党(長州系参議)は施政の大権に当り、飽迄も一種特別なる立憲帝政国の基礎を確立せんことを勉むべし。又海陸軍の如きに剛毅忠実なる薩参議之に当り、皇室の安泰を図られたし云々なりしと云ふ」(「朝日」16日)と「洩れ聞く」伊藤の話。
*
この年8月11日付、
・ウィーンの伊藤博文から岩倉具視への手紙。
天皇(君主)に不可干犯の地位を与える智恵(秘策)。天皇に行政権・立法権を集中させ、国会は協賛機関に位置づける狡知。これは、日本の特殊な歴史伝統、1千年来の稀な「国体」により正当化されるとする。
伊藤はベルリンでグナイストに、ウィーンでスタインに就き外見的立憲制を採用する軍国主義帝国ドイツの議会政策を学ぶ。
「・・・博文来欧以来取調の廉々は、片紙に尽兼候故、不申上候処、独逸にて有名なるグナイスト、スタインの両師に就き、国家組織の大体を了解する事を得て、皇室の基礎を固定し、大権を不墜の大眼目は充分相立侯間、追て御報道可申上候、実に英米仏の自由過激論者の著述而已を金科玉条の如く誤信し、殆んど国家を傾けんとするの勢は、今日我国の現状に御坐候へ共、之を挽回するの道理と手段とを得候、報国の赤心を貫徹するの時機に於て、其功験を現はすの大切なる要具と奉存候て、心私に死処を得るの心地仕侯」(伊藤博文書簡、明治15・8・11)
*
明治憲法起草の碑
*
*
「★横浜インデックス」をご参照下さい
*

0 件のコメント: