2009年4月13日月曜日

天文5(1536)年(4) 大内義隆の筑前支配 [信長3歳]

天文5(1536)年(4) [信長3歳]
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(天文法華一揆関連項目は前回集中して掲載しましたので、以下では省略します)
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8月
・皇帝カール5世、プロヴァンスに侵攻。神聖同盟結成に失敗した皇帝カール5世の対フランソワ1世作戦(フランス包囲作戦)の一環。
カール5世はマルセイユからローヌ川を遡って侵攻。弟フェルディナントはフランス東部シャンパーニュより侵攻。妹マリアは北部ピカルディよりパリに向け侵攻。
アヴィニョンのモンモランシーは、焦土作戦を採用、皇帝軍が食糧不足で消耗したところで攻撃。
皇帝軍は、6週間で撤兵、カール5世はニース経由ジェノヴァに戻る。皇帝軍、全軍半ばを喪失、殿のレイヴァ将軍戦死。ピカルディ方面のナッサウ公麾下ネーデルラント軍もローマ王フェルディナント指示によるシャンパーニュ攻撃も失敗。
ネーデルラント総督マリア(カール5世妹)が姉フランソワ1世妃エレオノーレと連絡をとり、皇帝カール5世とフランソワ1世に10ヶ月の休戦協定を締結させる。 
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[経緯]
ハプスブルグ王家とヴァロア王家の対立は、1529年のカンブレーの和約(フランスはブルゴーニュを保有、スペインのイタリアでの覇権確立)で一時の平和が訪れる。
前年1535年11月1日ミラノのフランチェスコ・スフォルツァ2世が没し紛争再燃。
フランス宮廷ではハプスブルグとの協定を主張するアンヌ・ド・モンモランシーの勢力が衰え、積極政策はの提督シャボが権力を掌握し、フランソワ1世はミラノに対する権利を要求。
ベルンが、サヴォア公に対して蜂起したジュネーブを支援し紛争に介入した結果、フランソワ1世は参戦を決意し、この年2月~4月、ブレス、ビュジュ、サヴォア、ビエモンテを占領。
イタリアにいるカール5世は、4月17日、ローマ教皇パウルス3世の前でフランソワ1世を激しく非難し、プロヴァンス攻撃に移る。教皇は両者の紛争に介入せず。
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8月3日
・越後守護長尾為景、家督を長男晴景に譲る。晴景の弟の景虎(謙信)、この時7歳。
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8月10日
・フランソワ1世長男フランソワ(17)、トゥールノン(ローヌ河畔)で没。
秘書官モンテククリ伯とポーム球技後、氷水を飲み、翌日没。外科医7名の解剖所見は自然死。
モンテククリ伯が毒殺したとの噂が流れ、モンテククリ伯は告発され拷問で自白。リヨンで公開裁判の後処刑。モンテククリ伯はイタリア人、皇帝カール5世の元スパイ(カール5世を裏切りフランス宮廷に出仕)で、カトリーヌが王妃になるためモンテククリ伯に毒薬を渡したと噂される。
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9月
・谷野一栢、朝倉孝景の命により、明の熊宗立が注釈した内経系医学の書「八十一難経」を校正して一乗谷で出版。越前での最初の版木版書籍。
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谷野一栢:
在京中は易学の人で、「医書ヲモ読ム也」とも云われる(「聾盲記」永正17年正月27日条)。孝景に招かれて一乗谷に住み、三段崎安指(玉雲軒)に医者の法を伝えたとされる。この版木の一部は敦賀の西福寺に伝存。三段崎は三崎と改め、朝倉家臣で医術の大月景秀の後裔とともに今に存続。
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9月 
・ジャン・カルヴァン、ジュネーヴ教会内で聖書講義始める。
同時に、未成年者教育、一般市民の風紀改革、信仰告白を強要。急激な粛清に不満な人々、「リベルタン」(ジュネーヴ上層階級)の反対。ジュネーヴ市政府委員会で反カルヴァン派が勝利。
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9月4日
大内義隆の部将陶興房少弐資元(スケモト)を肥前多久(タク)城(佐賀県多久市)に攻撃、敗死させる。
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▽大内氏の筑前支配の経緯。
筑前は、鎌倉時代以来一貫して大宰少弐の官を帯びた武藤氏(少弐氏・大宰氏とも)が守護職を世襲。
足利直義と高師直による観応の擾乱(1349~52)に際し、少弐頼尚(ヨリヒサ)が足利直冬党として幕府に叛した時期に、一時、鎮西管領一式直氏が守護を兼帯したほかは、少弐氏の守護支配が続く。
今川貞世(了俊)の九州探題就任に伴い、1372年(応安5)、探題が筑前守護を兼官し、少弐氏は守護職を手放さざるをえなくなる。
しかし、その後も、南北朝時代末の至徳・康応(1384~89)に怡土(イド)・志摩両郡(福岡県糸島郡)の分郡守護(一郡または数郡に守護と同質の支配権を許される地位)に任ぜられており、幕府は少弐氏の由緒・実績は無視しえず。
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1379年(康暦元)、筑前のうちの長門に近い糟屋郡が分郡として始めて大内氏に与えられる。
大内義弘は密かに九州探題の地位を狙うが、1395年(応永2)、今川貞世の探題更迭後、渋川満頼がその後継となり、大内義弘の野心は挫折。
1399年(応永6)、義弘は応永の乱で第3代将軍義満に叛いて敗死、長く大内氏雌伏の時代が続く。
第4代将軍義持の晩年、大内氏は幕府から待望の筑前守護に補任される。しかし、少弐氏の存在は無視しえず、大内氏の北九州支配は不安定なものとなる。
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大内義弘の弟で応永の乱後家督を継いだ盛見(モリハル)は、1431年(永享3)6月、筑前深江(福岡県二丈町)で少弐満貞と戦って敗死、跡を継いだ甥の持世(モチヨ)は、幕閣の支援を得て満貞父子を秋月城(福岡県甘木市)で斬殺したものの、嘉吉の変(1441年)で第6代将軍義教に相伴し殉職。
この時、一旦は少弐氏が守護に返り咲き、更にその後、大内氏側の猛運動によりほどなく大内教弘が守護を奪回したようであるが、少弐氏の筑前における蠢動は止まず、歴代大内氏は筑前分国の維持・確保に苦しむ。
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[大内対少弐・大友連合軍]
享禄元年(1528)7月、少弐資元(スケモト)と豊後守護大友義鑑が同盟し大宰府回復を狙い、大内義隆の父義興は、幕府に少弐討伐を願い出るが許されず、同年末義興は病没。
翌々享禄3年(1530)4月、義隆は筑前守護代杉興運(オキモチ)に少弐資元・冬尚(フユヒサ)父子を攻撃させ、肥前勢福寺城(佐賀県神埼郡)に拠る資元は、肥前野路宿まで追撃してきた杉軍を田伝(タデ、佐賀県神埼郡)で迎撃、被官龍造寺胤久らの活躍で大勝。興運は大宰府に逃げ帰る。
義隆は、第12代将軍義晴に少弐追討の内命を請うが、幕府は資元を肥前守護に補任しるためこれを許さず。また、義晴は近江に亡命中で幕府の威令は畿内近国にすら及ばない状況であり、義隆は天皇の権威を背負うことを考える。
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天文元(1532)9月、資元と結ぶ大友義鑑は、大内氏に反撃、府内(大分市)より長駆、筑前西郷(福岡県宗像町)に侵入。
同年10月、義隆は諸分国に大動員令を発し、自身は長府(下関市)修禅寺まで出陣してそこを本営とし、11月、大内軍きっての宿将で周防守護代陶興房(晴賢ハルカタの父、義興時代から京畿に転戦して功あり)を総司令として大内氏の大軍を預け筑前に渡海させる。
11月5日、周防国衛領にも軍夫を動員するための措置として、義隆は周防介を許される。この年末まで、筑前・肥前・豊前で大友・少弐軍との一進一退が繰り返される。
天文2(1533)2月、義隆が興房の甥隆康に増援軍を托して出兵させると、大内軍は攻勢に転じ、3月19日、興房は大友方の是松太郎の拠る筑前柑子岳(コウジダケ)城(福岡市西区)を落とし、逃げる資元を高祖(タカス、福岡県前原町)まで追撃。
4月3日、肥前に入り、千栗山(佐賀県基山キヤマ町契山チギリヤマ)に資元を撃破。一方、陶軍別動隊は筑紫平野を南下して筑後に迫り、3月22日には立花(福岡県立花町)で大友軍主力と衝突。
大内氏は莫大な兵力を費して筑前一国をほぼ固めるが、追い詰められた少弐・大友氏は一層結束を固くし、4月27日には義鑑は少弐松法師丸(のち冬尚)と盟約を交わす。
肥前境で残敵掃討をした興房は、7月1日、ようやく大宰府に凱旋し、杉興運と陣替えを行なう。
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この年8月10日、大内義隆は「筑前守」を運動して許される。
第12代将軍義晴は近江桑実寺におり、筑前守の官途は全くの直奏によって申請され、天皇の意志によってのみ許される。義隆としては、幕府から補任された「筑前守護職」が殆ど権威を失い、まだしも天皇の任命する「筑前守」の方が対少弐・対大友の軍事作戦上、効果が期待できるもの。
律令的な国司制度の観念が、幕府による守護補任の代替的機能を果たす形で復活し、中央に対して求心力を持ち始める。
一方、天文2(1533)年末、大友義鑑は、近江逃亡中の将軍義晴をして、子の義鎮(のち宗麟)を豊前守護に補任させる事に成功。大内氏と大友氏の闘争は、天皇の権威と幕府の権威の代理戦争の観を呈す。
大内義隆は長府の本営に在陣したまま2度目の越冬をし、天文2(1533)年末、筑前国内で最後まで頑張る少弐被官筑紫惟門(コレカド)を降す。
ここで大内軍は、筑前周辺の豊前・豊後・筑後・肥前で全面的攻勢に出て、龍造寺家兼父子の拠る佐賀城攻略だけは手間取るが、天文3(1534)年4月、豊後勢場原(セイバガハラ、大分県山香町山浦)で大友軍に大勝、翌月、豊後薄野浦(ウスノウラ、大分県真玉町)で、7月、豊後玖珠(クス)郡で大友軍と戦い、次第に義鑑を豊後の一角に封じ込める体制をとる。同9月、大内氏側の豊前守護代(豊前守護は大友氏側であり、この職は僧称)杉重俊が大友被官星野親忠(チカタダ)兄弟を筑後大生寺(ダイショウジ、福岡県浮羽町)に敗死させ、10月、大内軍が肥前勢福寺城を包囲、少弐冬尚は蓮地域(佐賀市蓮池町)に逃亡。
義隆は少弐父子を徹底的に攻撃し、龍造寺家兼に依頼して和睦を講じ、同年10月30日、資元の隠居と、冬尚に東肥前半国を安堵する条件で講和成立。
一方、義隆は幕府にも働きかけ、将軍義晴は義鑑に和睦を勧告、同年12月14日、大内・大友間の講和締結。義隆は山口に引き揚げ、興房も山口に凱旋。こうして義隆の太宰大弐任官の条件が醸成される。
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[天皇の権威(律令制的権威)の利用]
義隆は更に朝廷政策を推進
天文3(1534)年12月、後奈良天皇即位惣用(即位大礼費)2千貫を献上。翌天文4年は、天皇の生母が病没し諒闇(リョウアン、天皇が喪に服す)となり、即位礼は天文5年に延引。
義隆は待ち切れず、9月、禁裏日華門修理費100貫を進献し、その賞として天文4年12月22日、大宰大弐就任を正式に奏聞。27日、天皇は一旦は勅許するが、翌28日に俄かに心変わりし「旁(カタガ)た以て然るべからず」との理由で前日発給した女房奉書を撤回。
翌天文5(1536)年2月、天皇は即位式を挙行、その費用の大半は義隆の献金であり、諸大名中の功労は抜群であり、遂に5月16日、義隆の大宰大弐任官が認められる。同時に義隆の昇殿も決定。翌月、勅使広橋兼秀が周防山口へ下向、義隆の即位費献上を賞し剣を下賜。義隆の大弐就任は、少弐資元の大内氏への臣従を意味することになり、陶興房が肥前に出兵
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その後、天文8(1539)年9月、出雲富田(トダ)城主尼子経久の孫晴久が、中国山脈を縦断し南下。大内方最前線で孤立した吉田城(広島県吉田町)主毛利元就救援の為、義隆は親征を決意、翌天文9正月防府に出陣、同3月、岩国に本営を置く。ここで義隆は伊予介を授けられる。瀬戸内の水軍中、村上海賊まで尼子方に靡いており、伊予介受領はそれらを抑える意味がある。陶隆房(のち暗賢)らの活躍により、天文10(1541)年正月、吉田城下に尼子軍を粉砕し大打撃を与え、尼子軍3万を出雲に敗走させる。
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このように義隆は、筑前守・大宰大弐・伊予介という律令的官位を、宣伝戦と支配の正統性確保に利用し、大きな成功を収める
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9月24日
細川晴元、芥川城より京都入り。将軍義晴に謁し、名実ともに幕府執政となり、管領に相当する政治的地位を継承。翌年8月、右京大夫に任ぜられ、足利義晴の偏諱を受けて晴元を名乗る。
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大永7年(1527)、堺に上陸して以来、おおむね畿内の政治的実権を掌握していたが、ここに至って初めて中心地京都に座をすえ、将軍を擁する安定的位置を占める。
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晴元政権の政策変更。
一向一揆は沈黙し、法華一揆も崩壊し、畿内の動乱は小康状態に入り、晴元政権の基盤となる諸勢力のうちでは木沢長政・茨木長隆らに代表される畿内、とくに摂・河・泉の国衆の比重が大きくなる。
入京前の晴元政権は、京都近郊の軍事拠点獲得のため、欠所とした権門の所領を家臣団に宛行い、戦国大名化の政策をとっていた。
荘園制は解体の最後の段階にきているが、入京後は、晴元および国衆らは荘園の全面的解消を抑え、京都の諸権門を一定度保護・温存する政策を採用。これにより、大徳・妙心・竜安寺などの禅院は、加地子得分を集積し、近世的禅寺へ成長して行く。
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茨木長隆
細川氏の奉行人であると同時に、春日社領摂津国垂水西牧南郷(豊中市)の給人を兼ね、また大徳寺領洛中土御門四町町の代官職をも入手するなど、一面では代官職・名主職を通じて荘園制的収取機構に寄生する性格も併せ持つ。晴元政権の性格は、摂津国衆と在京権門の連合政権と定義づけられる。
三好長慶
阿波国人の出身ながら父祖之長・元長らが畿内に扶殖した地盤を引き継ぎ晴元に帰参し、重んじられ、越水城(西宮市)に居城し摂津下郡の守護代に補任されたと推定される。
木沢長政
天文元年以来山城守護代であるほか、天文10年の史料によれば山城上3郡・河内半国でも守護代職を帯び、大和の一部でも守護代に準ずる地位にあったと推定される。従って、三好長慶・木沢長政は、勢力相桔抗し、いずれは反目・対立せざるをえない運命にある。
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9月25日
・神聖ローマ皇帝・スペイン王カール5世軍、プロヴァンス地方より再びヴァール河を渡りイタリアへ敗走
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10月
・イングランド、「恩寵の巡礼の乱」。
この年6月より国王代官3人がリンカシャーで任務遂行(修道院財産没収、補助金評価、国教会に対する聖職者の忠誠誓約)。
7月リンカシャー全土の教会から貴金属のプレート類・宝石が没収される段取りで、更に「全ての角のある家畜、洗礼式、結婚及び葬式」に課税決定。
9月リンカシャーの小村ルースで、教会を守る為、靴屋ニコラス・メイトンを抗議運動のリーダーに立てデモ行進、大法官クロムウェルの命令書を破り捨て、代官を拘束。
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10月2日、近隣の村から応援来援。その場に居合わせたカトリック信者サー・ロバート・ディモーク父子と友人も群衆に加わり、そこにヘンリー8世庶子リッチモンド公の祖母と親しい聖職者が、武装グループに囲まれて到着、南からもリッチモンド公と親しいトーマス・パーシー卿率いる部隊500人が合流。
同日、サー・クリントンはパーシー卿に反乱リーダになるよう頼むが拒否され、シュルズベリー伯の許へ向かう。パーシーの妻(キャサリン王妃の娘メアリー(後のメアリー1世)の養育係)は、メアリーを王女と呼んだ罪で投獄されている。
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一方その頃、ヨーク州でも弁護士ロバート・アスクをリーダとする反乱、蜂起。
ヨーク大僧正ヘンリー・リーに指示され勢いを増し、ヨーク州都ヨークやドンカスターを占拠。かれらは信仰の自由、貧困層に科せられた高い地代・税金の撤廃を求め、アスクの指示の許に4千人が集結。そしてアスクとリンカシャーの反乱指導者メイトンは手を結ぶ。
法王は、前王朝プランタジュネットの血を引くソールズベリー伯爵夫人に特使を送り、その子息を反乱軍支援のためにフランドルへと派遣。
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ヘンリー8世は、反乱討伐の為ノーフォーク公、サフォーク公、エセクター侯らを派遣。
戦いの直前で、ノーフォーク公は反乱軍の国王に対する請願書を受け入れ、反乱軍リーダらの恩赦を約束。
請願内容、①例外なしの恩赦、②ヨーク又はノッティンガムでの議会開催、③略奪した修道院財産の返還、④法王への帰依の復活、⑤王女メアリーの正当性。
12月9日、反乱軍は武装を解き帰宅。
ヘンリー8世の卑劣な裏切り。ロバート・アスク、ニコラス・メイトン、処刑。反乱軍が復興させた修道院の僧侶達、反乱参加のジェントリー、皆殺し。処刑者216。他に、修道院長12・修道僧38・司祭16が殺害。中央貴族の反乱参加者パーシー卿、ソールズベリー伯夫人、処刑。
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11月
・武田信虎、信濃佐久郡に出陣。晴信(16)、初陣。12月26日、海口城の平賀源心を攻略。
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11月10日
・スイス、ギョーム・ファレル、ジュネーブ市参事会に「諸箇条」提出。
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11月15日
・フランシスコ・ザビエル(30)、パリを発ち、ドイツ、スイスを経て、ベネチアに向かう。
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12月6日
・皇帝カール5世、ジェノヴァよりバルセロナに1年半ぶりで帰国(1525年5月チュニス遠征にスペイン発)。カール5世、1537年の1年間スペイン滞在。
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12月11日
・足利義晴、南禅寺より伊勢貞孝邸宅へ移徙(「鹿苑日録」)。
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12月11日
・フィレンツェ大公アレッサンドロ・デ・メディチ、オーストリア公女マルガレーテ(カール5世庶出娘)と結婚。
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12月12日
・フィレンツェ、ロレンザッチオ作喜劇「アリドーシオ」上演。
ロレンザッチオ:
ピオンピーノ領主ロレンツォ・ディ・ピエル・フランチェスコ・デ・メディチ。メディチ家弟脈、コジモ弟ロレンツォの曽々孫。フィレンツェに移りアレッサンドロの厚遇を受けフィレンツェの情報機関を動かす役割を果たす。
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12月24日
・越後守護代長尾為景(66)、没。
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12月31日
・リヨン、エチエンヌ・ドレ、青年画家を刺殺。殺人犯として告訴、パリへ逃亡。
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to be continued 

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