2009年4月2日木曜日

1871年4月3日 フルーランス虐殺 パリ・コミューン(13)

■1871年4月3日
・仏、ベルジュレ、ウード、デュヴァル指揮の連盟兵3~4万、ヴェルサイユへ出撃。
最初は、コミューン軍が部分的に成功(リュエイユ、シャトゥー、ヴェルサイユから5マイルのプージヴァルを占領)。ブーランジェがブージヴァル占領。
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・ベルジュレ縦隊が、ビュトーからビュザンヴアルに向かっている時、モン・ヴァレリアン堡塁が砲弾や霰弾を浴びせかける。「裏切りだ!裏切りだ!」と叫び声。
しかし、フルーランス指揮部隊(右翼担当)はルイユまで前進し、ランヴィエはムードンに達する。
デュヴァル第3縦隊(左翼担当)は森の中を前進しないという過ちを犯して、直接ヴィラクープレーに向い、そこで強力な敵陣に衝突。弾薬は少なく、砲はない、それ以上の前進は不能。
10時頃、ヴェルサイユ軍(デロジャ旅団、ペレ師団)が逆襲。連盟兵は潰走。フルーランスは憲兵に虐殺され、翌日、デュヴァルと指揮官2人はヴィノワの命令により銃殺。
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[経過]
午前6時30分、連盟軍はベルジェールの交差路に達する。砦の砲8門が砲撃。連盟軍は混乱。負傷者30名出るが、攻撃は続行。この第1軍右翼の第2軍はナンテールへ進攻中。モン・ヴァレリアン砦からの砲撃は続くが、連盟軍は野や溝を越えて接近。
10時5分、ロシュネルはヴィノワ将軍に避難を報告。
11時以降、砦の砲撃は不活発になる。
ヴィノワの命によりガリフェが騎馬隊2連隊と新政府側サン・ジェルマン国民軍をマルリー及びシャトゥーに向かって移動させる。
連盟軍は既にセーヌ対岸沿いに進んでおり、モン・ヴァレリアンの砲撃はそこまでは届かない。
ガリフェは、シャトゥーから増援を求め、現在対岸の連盟軍は3千で、攻撃を急いでいないようだと報告。
連盟軍から武装兵士3名が渡河、捕虜となるや、彼らの扇動による軍の謀反を恐れガリフェはこの3名を処刑。
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連盟軍本隊はなお南下し、ヴェルサイユまで5マイルのプージヴァルまで進むが、ヴィノワ将軍が補強部隊を率いて移動してきた為、ここで進軍が止まる。
ヴィノワが率いる予備軍団の第114連隊はプーランジェ大佐が指揮し、兵1400で兵7~8千のフルーランス軍と戦う。第113連隊が来援し、元プロシア軍基地であったラ・ジョンシェールの丘の上の砲台から砲撃が開始。連盟軍は後退し、午後の早い時間にプーランジェはプージヴァルを占領。兵士は家々を探索し、隠れていた連盟軍兵士を射殺。
デュ・プルイユ将軍の騎兵師団はジェンヌヴィリエ半島を退却する連盟軍を追跡し、第2軽騎兵連隊隊長ドゥマレがフルーランスを捕え殺害。副官アミカル・シプリアノによると、フルーランスは力尽きてある居酒屋で眠りこんでいたところを捕えられ、隊長によって斬首。
この戦闘では、モン・ヴァレリアンの指揮官ははコミューン側に寝返っており、攻撃を妨害しない事になっていたが、実際にはモン・ヴァレリアンは激しい砲撃を行う。
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コミューン軍左翼のデュヴァルの軍は、シャティオンから進んでヴェルサイユに近づきヴィラクープレに達する。慌てて迎撃体制をとるデロージャ軍をペショ旅団が支援。デュヴァルは大砲を持たず、敵の砲撃を避けてシャティオンまで後退。連盟軍捕虜50、ヴェルサイユ軍死傷者13。
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ウード指揮する中央軍はムードンまで快調に前進。ムードン守備の憲兵隊は、旧プロシア軍砲台からの砲撃援護を受けながら、弾薬追加を要請するほど射ちまくる。
ウードは辛うじてムードンの城館から彼らを追い出すが、憲兵隊は砲台からの援護で何とか村を持ちこたえる。
この時、ラ・マリューズ旅団海兵隊、陸戦隊、歩兵部隊併せて約9千の援軍が到着、城館は奪回され、連盟軍はパニック状態に陥り、イシーに後退。
午後4時10、ヴィノワは戦いの終わりを報告。
連盟軍は、デュヴァルの軍数千がシャティオンの保塁に、ベルジュレは1万人と共にアスニエールに、大多数の兵はウードのいるイシーの村に集結。
9時、ティエールは電報を各地に打って勝利を告げる。
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○[コミューン群像:ギュスターヴ・フルーランス]
アカデミー会員・生理学者ピエール・フルーランスの家庭に生まれる。
コレージュ・ド・フランス教授。人類学と生理学について「人間の歴史」(1863年)「人間の科学」(1865年)出版。無神論的、唯物論的見解の為に教育から追放。
1866~67年、クレテ島のトルコ支配からの解放する闘争に参加、クレテ国民議会代議士に選ばれる。
68年、パリに戻り、共和主義運動の中でプランキ主義者と接近、新聞「ラ・マルセイエーズ」に一連の論文を発表。
ピエール・ボナパルト公爵に暗殺された共和主義的ジャーナリスト、ヴィクトル・ノアールの葬式での反政府デモ(70年1月12日)に参加。
2月7~8日のデモで共和制宣言を呼び掛け逮捕、流刑判決。イギリスに亡命し、マルクスとその家族を知り、第1インタナショナル加入を認められる。
9月、パリに戻る。10月31日、71年1月22日の蜂起に参加。逮捕されるが釈放。2月出版の著書「パリは売られた」で、支配層の売国的行動を暴露。
3月18日の革命に参加、26日、2区(第19、20区)から当選。29日からコミューン軍事委員会委員、大佐、その後国民軍将軍になる。4月3~4日ヴェルサイユ進撃の際、憲兵に逮捕され虐殺。
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・コミューン、軍事行動のためにコミューンの補欠選挙延期。
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・コミューン、クリュズレ将軍を陸軍省代表委員に任命、執行委員会の構成を変更。信教の自由宣言。
クリュズレは軍事委員会代表として執行委員会委員であるが、執行委員会で、出撃したデュヴァル、ベルジュレ、ウードに代わってドゥレクリューズ、クールネ、ヴェルモレルが委員に就任した際、陸軍省に派遣される軍事代表委員となり、ロセルと交替するまでその任にある。
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・保安委員会、ティエールの財産没収、ティエールの家の取り壊しを布告。
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・中央委員会、社会主義的宣言を発表。コミューン乗り越えの試み。
「労働者諸君、間違ってはならない。これは偉大な闘争である。寄生と労働、搾取と生産が戦っているのだ。
もし諸君が、無知のなかにむなしい日々をすごし、貧困のなかに身を埋めることを耐えがたく思うならば、もし諸君が、諸君の子供たちが工場や戦闘のために仕込まれた動物のごときものでなく、人間であることを望むならば、もし諸君が、諸君の娘たちを思うように養育し監督することができず、彼女たちが金持ちの貴族の腕のなかで快楽の道具となることをもはや望まないのならば、最後に、もし諸君が正義の支配を望むならば、労働者諸君、起ち上がれ!」
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・マルセイユ。夜遅く、政府軍、市内へ進撃。
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・マルクス、「タイムズ」・「デイリー・ニューズ」紙に手紙、「パリの反乱はロンドンからマルクスがあやつっている」という報道に反駁。
to be continued

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