2009年4月22日水曜日

昭和13(1938)年1月(6) 近衛声明後の南京は・・・

昭和13(1938)年1月17日
・南京、第16師団の華北転出が決まり送別宴。上海派遣軍司令官朝香宮が、第16師団佐々木少将の酒乱気味の言動に怒り、これを一喝。
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17日
・この日付けジョン・ラーベの日記(「南京の真実」)。
「昨日の午後、ローゼンといっしょにかなり長い間市内をまわった。すっかり気が滅入ってしまった。
日本軍はなんというひどい破壊のしかたをしたのだろう。あまりのことに言葉もない。近いうちにこの街が息を吹き返す見込みはあるまい。かつての目抜き通り、イルミネーションなら上海の南京路にひけをとらないと、南京っ子の自慢の種だった太平路は、あとかたもなく壊され、焼き払われてしまった。無傷の家など一軒もない。見わたすかぎり廃墟が広がるだけ。
大きな市が立ち、茶店が建ち並んでいた繁華街夫子廟もめちゃめちゃで見るかげもない。瓦礫、また瓦礫だ!いったいだれが元通りにするというんだ!帰り道、国立劇場と市場の焼け跡によってみた。ここもなにもかもすっかり焼け落ちていた。
南京の三分の一が焼き払われたと書いたが、あれはひどい思い違いだったのではないだろうか。まだ十分調べていない東部も同じような状態だとすると、三分の一どころか半分が廃墟と化したと言ってよいだろう。」(黙翁の判断で改行を施した)
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17日
・軍需工業動員法発動。陸海軍、一部軍需工場に軍需工業動員法による管理を開始。
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17日
・この日の高嶋辰彦(参謀本部戦争指導班)の日記。「中国側の追加情報」の中味は不明。
「午前九時、第二部長(本間雅晴)室に至れば、果して中国側の追加情報到着しあり。
和平の名を中国側にとられ、日本は好戦のための持久戦となれり。千秋の恨事なり。早速その対策につき次長に意見具申をなす。
帰室後、秩父宮殿下にも報告、殿下を始め奉り、今田、掘場、武居など一室一座悲憤の涙粧咽ぶ」。
堀場も、「期限に応ずるの支那側回答は十六日到着せるものの如し。その内容は未だに之を知るに由なし」と書く。これは高嶋と同じものを指すと考えられる。
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17日
・スペイン、テルエルの戦い。
天候の回復を待ち独・伊の飛行機数百・フランコ軍8万の兵士、テルエルに投入、反撃。共和国軍後退。
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17日
・パリ美術学校展示室、第1回シュルレアリズム国際展覧会。日本から岡本太郎が出展。
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18日
・中国国民政府、近衞声明(1.16)に対して抗日自衛を強調。20日、駐日大使を召還、日中国交断絶。
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18日
・この日付けジョン・ラーベの日記(「南京の真実」)。
「ほうぽうで煙が立ち昇っている。あいかわらず景気良く放火が続いているのだ。・・・
午後、スマイスとフィッチがきた。米だけでなく、ほかの食料品も運んでもいけないし倉庫から取ってきてもいけないことになったというではないか。上海からとりよせることも禁じるという。どうやら日本軍は難民を飢え死にさせるつもりらしい。・・・」
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18日
・政府、16日の近衛声明の補足説明。
「相手とせずというのは同政府の否認よりも強いのである。・・・国際法上の新例を開いて国民政府を否認すると共に之を抹殺せんとするものである。・・・」。
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18日
・秩父宮(参謀本部戦争指導班、不拡大派)、参内。伏見宮軍令部総長、参内。
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18日
・川越大使に帰朝命令。28日、上海発。
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18日
・午前0時38分、函館駅、駅の湯呑所から失火し全焼。大正3年12月竣工の木造建築。
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18日
・フランス、第4次ショータン内閣成立。
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18日
・米ルーズベルトの回答。チェンバレンの意見に従い諸国会議提案は延期、しかし、英が伊のエチオピアにおける現状を承認するかもしれぬとのチェンバレン回答には十分注意を払うと回答。
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19日
・この日付けジョン・ラーベの日記(「南京の真実」)。
「今日、解雇通知を書いた。中国本社の指示で、事務所(ジーメンス社南京支店)を閉鎖しなければならないからだ。」
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19日
・近衛首相、華北・華中の傀儡政権樹立に関して、「新興政権成立の過程は満州国の場合と同じようになるかもしれぬ・・・」(近衛首相記者会見談。38年1月19日「東京朝日新聞」)という。軍部の独断と政府の無力さを語る。
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19日
・北日本農民組合(人民戦線事件で玉井委員長ら幹部を失う)、各支部代表者会議で、「我が国体観念を基調とし国情に即した上下共和の日本伝統の精神を以て其の公道とする」と決議、「国策順応」の新方針を決定。
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20日
・中華民国臨時政府、成立直後に天津・泰皇島の海関を接収するが、この日、税率を約半分にする新関税を発表。日本からの華北への輸出は激増。
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20日
・許駐日大使、離日。日中国交断絶
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21日
・仏、下院、第4次ショータン内閣信任。501対1(棄権105)
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21日
・ソ連の文献学者リャザノフ、獄死。
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22日
・第16師団(中島今朝吾中将)、南京を去り華北へ移駐。
第11師団(善通寺)歩10旅団(天谷直次郎少将)、南京警備司令官就任。残虐行為は続く。
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第16師団の「申継書」には、
「二、軍内の軍紀風紀を厳正にせんがためには、警備司令官の区処権を厳格に行使し、方面軍、各軍直轄部隊の優越感を打破すると共に、通過軍隊の行動を監視すること必要」、
「南京市内は漸く兵・民を分離し、概して民のみとなれり。将来更らに戸口調査を完了し、武器の捜索、押収と共に、出入者の監視を厳格ならしむれば、心配なきに至るべし」、
「・・・敗残兵を捕獲しつつあり。示威、徴発、行軍等の目的を兼ねて、不断実行せらるるを可とす」などが示される。しかし、兵士の非行は続く。
アリソン書記官は、2月12日、上海派遣軍へ、1月28日~2月1日に89件の略奪・強姦があったと抗議。飯沼参謀長が憲兵隊に調べさせると、該当の事実は数件しか見つからず、憲兵隊の把握する非行は、氷山の一角に過ぎない事がわかる。それでも、国際委員会が認めるように、犯行は大通りから姿を消し、奥まった裏通りに移る。
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22日
・この日付けジョン・ラーベの日記(「南京の真実」)。
「今日、トラックが数台、南の方からやってきて、下関へ向かっていった。どれも中国兵で満員だ。おそらく捕虜だろう。ここと蕪湖の間でつかまって揚子江のほとりで処刑されることになっているのだ。」
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22日
・第73議会、近衛首相、「戦捷相つぎ、たちまち首都南京を政略し、戦局は極めて有利に展開しつつある」と称する一方、「惟うに事変の前途は遼遠であります。これが解決は長期にわたることを覚悟せねばな」らぬと説き、「物心両様にわたり国家総動員態勢の完成を図」ると唱える。
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22日
・嵐寛寿郎、大谷松竹社長を説き落し、日活入社。3ヶ年、15万円(内5万円は前渡し)。昭和15年までの3年間で25本を撮影。入社第1作「鞍馬天狗」(マキノ正博・松田定次共同監督)、「忠臣蔵」(マキノ正博・池田富保共同監督)、「右門捕物帖・血染の手形」(荒井良平監督)と、アラカソは更生日活のドル箱となる。続いて「出世太閤記」「髑髏銭」と好評続く。
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いわゆる「四剣豪時代」(パンツマ・アラカン・千恵蔵・月形)、嵐寛寿郎主演映画は天狗8本・右門4本を含む36本(昭和17年度まで)。興行成績は、常に他の3剣豪を圧倒。
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この頃、日活は内紛。
3月23日、多摩川撮影所長根岸寛一、「松竹の走狗となって日活乗っ取りを図った」との理由で取締役を罷免、撮影所従業員はストライキの気勢を示す。
社長以下、多摩川に暴力団を引き連れ、「根岸寛一という男は無政府主義者崩れで、抗日支那人の同類である」と、所員に演説。
5月3日、大谷竹次郎・横田永之助(日活創立者)が会談。紛争は一段落と見えるが、突如、根岸が辞表提出、マキノ光雄・江守清樹郎らと共に、「満映」に去る。
7月13日、森田佐吉社長は合名会社弥生商会を設立、大谷竹次郎所有の債権を譲り受ける。この時、大蔵貢(のち新東宝社長)が弥生商会の黒幕的主宰者・日活常務として登場。後年の新東宝社長・大蔵貢。
そこへ10月17日、堀久作が出獄してくる。「十一月、私は千葉銀行が所有していた日活株式の三千五百株を譲り受けることとした。私は日活株を一万株ほど買いたいと思い、これを皮切りに株式市場からボツボツ買い集めた。この話を聞いた大谷氏は、にわかに日活株を買い出した」(「日活四十年史」昭和27年発行)。
昭和14年6月、株価は16円から120円に高騰。堀の資金は東宝の小林一三から出る。次に、堀は、千葉銀行の弥生商会に対する債権(担保物件)2万5千株仮処分で、小林一三は147万円を用立て、堀久作はこれを供託して日活全株式16万株過半を制す。これに対し、大谷竹次郎は仮処分に対する仮処分を申立て、弥生商会内部も東宝派の森田と松竹派の大蔵とが争い、互いに訴訟を起こす泥試合に発展していく。
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23日
・第16師団師団長中島今朝吾中将、上海新市街の音楽学校にある中支那方面軍司令部に松井石根大将を訪問。異様な空気となる。
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松井の声がよく聞きとれず、「モウ声量ガナクナッタノカ、或ハ小生ノ前ナレバ消極的声音ニナリタノカ、モットモ少シ顔ガ振レル様デアル」(中島日記)と毒づく。
松井は軍紀問題を持ち出すが、中島は頭からはねつける。
「此男案外ツマラヌ杓子定規ノコトヲ気ニスル人物卜見エタリ。次ニ国民政府(中島師団司令部所在地)ノ中ノカッパライノ主人ハ方面軍ノ幕僚ナリト突込ミタルニ是ハサスガニシラバクレテ居リタリ。家具ノ問題モ何ダカケチケチシタコトヲ愚須々々言イ居リタレバ、国ヲ取り人命ヲ取ルイニ家具位ヲ師団ガ持チ帰ル位ガ何カアラン。之ヲ残シテ置キタリトテ何人カ喜プモノアラント突パネテ置キタリ」(中島日記)。
松井も返す言葉が無かった様だが、「其云ふ所、例に依り言動面白からず。殊に奪掠等の事に関し甚だ平気の意見あるは、遺憾とする所、由て厳に命じて転送荷物を再検査せしめ、鹵獲奪掠品の輸送を禁ずる事に取計ふ」(松井日記、24日)とある。
掠奪家具・骨董品持ち出し阻止の意志が見えるが、翌年、この家具問題が兵務局や憲兵隊で摘発された事情を考えると、松井の阻止手配は実行されなかった可能性が高い。
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23日
・政府「国家総動員法案要綱」33項目発表。
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to be continued 

2 件のコメント:

ayahikari さんのコメント...

My Garden
可憐に春を告げてますネ!

黙翁 さんのコメント...

有難うございます。
しかし、実は、今年はかなり不調です。チューリップは昨年の1/3以下しか咲きませんでした。5~6月には3種類ほど期待しているものがあるんですが、これもどうでしょうか?
昨年は全部見事に咲いたのですがね。