永禄5年(1562)4月
この月
・北条勢、下総葛西城を攻略。
北条家の江戸衆のひとり太田康資、下総葛西城(葛飾区)に兵を寄せ攻略。
北条氏はこの攻略で房総出陣の際の前線基地を再び確保。
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・フランス、ルイ・ド・コンデ、オルレアンを占領、ユグノー派の暫定的な首都とする。
コンデ兵力8千。コリニー提督(ガスパール・ド・コリニー、43、1519~1572)。テオドール・ド・ベーズ(ユグノーの外交・宣伝工作)。
テオドール・ド・ベーズの宣言文が大方の支持を得る。
「コンデこそ王の忠臣、ギーズ公は王と王母を囚われのみにした逆臣」。
多くの田舎貴族、コンデの許に馳せ参じる。
神学上の問題ではなく冒険と儲けとなる略奪行為が目的 。
4月末迄にアンジェ、トゥール、ブロア占領、リヨン入城。
ギーズ公兄弟、国王軍の建て直し。
兵力:歩兵2万8千・騎兵6千・優秀な砲兵隊。
教皇その他の外国諸侯より30万エキュ調達。スペイン王フェリペ2世、兵2万をカトリーヌに提供。サヴォイア公、歩兵集団と騎兵の1分隊を派遣。カトリーヌ、スイス兵とドイツ兵傭兵を雇用。
カトリーヌ・ド・メディシス、密使ヴァランス司教モンリュックをルイ・ド・コンデの許に派遣、和平工作。
コンデは和解に応じたが、コリニーや彼の部下が反対、失敗。
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4月5日
・六角義賢に呼応した畠山高政(紀州に亡命中、浪人身分)ら3万、三好長慶の居城飯盛城、攻撃。
畠山高政、包囲中の高屋城・飯盛城の中間にある教興寺(八尾市)に布陣。
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4月12日
・フランス、サンス(ヨンヌ県県都、パリ東南100 Km)、ユグノー殺傷。
ユグノー報復、サン・ジャン大修道院修道士の喉を切り裂いてヨンヌ川に投げ込む。
トゥール(パリ南南西 200Km)でユグノー200人がロワール川で溺死させられる。
アンジェー(パリ南西260Km)でユグノーが縛り首にあう。
ドーフィネ地方ユグノー派アンドレ男爵が先頭に立ちカトリック教徒を虐殺・拷問。
ユグノー、次の都市を占領(ラ・ロシェル、ポワチエ、ル・アーヴル、ディエップ、カーン(ノルマンディ地方))。
都市の占領には常に破壊とカトリックへの虐殺が伴う
モンゴメリー伯爵(ガブリエル・ド・モンゴメリー)、フランスの内戦を利用して美味しい「領土」を掠め取るため再登場。
ブールジュ(パリ南200Km)を占領、大聖堂を荒らし聖像を破壊。オルレアン(パリ南南西110 Km)では墓所を暴く。
クレリィ・サン・タンドレ(フランス中部、アルドゥ河畔)ではルイ11世の墓を破壊。
ヴァンドーム(フランス中部、ロワール河畔)ではナヴァール諸王の墓を破壊(ナヴァール女王ジャンヌ・ダルブレが破壊に立ち会い破壊を承認)。
1574年(12年後)「反逆罪」でパリ・クレーヴ広場で斬首。
コリニー、テオドール・ド・ベーズとダンドロをハイデルベルクに派遣、ドイツの大公にドイツ騎兵と歩兵の派遣を依頼。「傭兵料」が莫大なためドイツの大公は代金後払いを認める。
但し、現地で勝手に自分たちの取り分を取得(掠奪)するとの条件付き、コリニーは「パリでの掠奪」までも承認。
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4月15日
・フランス、ルイ・ド・コンデ(ユグノー派、32、1530~1569)、カトリーヌの「譲歩」をカトリックが認めないと考え、イングランド王エリザベス1世に支援を求める。
エリザベス1世、義援金を送金。
コンデ、カレー譲渡を約束。
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4月16日
・北條氏政、本田氏の葛西城攻略を賞し知行を宛行う。
30日、興津右近の葛西城攻略を賞する。
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4月17日
・神保家臣水越勝重、本覚寺に寺領寄進(「本覚字文書」)。
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5月
・武田晴信、再び西上野に 侵攻
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・丹羽長秀、1万貫を加増される。
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5月上旬
・信長6千余、州俣出撃。
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5月1日
・フランス、第1次フロリダ遠征。
ジャン・リボー率いる船団、ユグノーの後援を受けフランス人30名をフロリダに上陸させる。植民地建設は失敗。
1564年ルネ・ロドニエールがフロリダでフォール・カロリーヌ建設。
1565年スペインにより全滅。
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5月5日
・長野藤定、没。養子の具藤(伊勢国司北畠具教の次男)が長野家を継ぐ。
北畠氏はこのようにして長野氏を配下に治め、北伊勢の関氏とこれに味方する神戸氏との戦いを始める。
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5月14日
・三好の反撃。松永久秀、三好残軍・阿波・淡路軍・自軍2万で八尾教興寺に進出。
19日、河内教興寺の戦い。
久秀・安宅冬康ら三好勢と畠山高政・根来衆・湯川衆らが河内教興寺で激突。畠山軍の先鋒湯川直光は戦死。高政は紀伊へ逃れる。畠山壊滅。京都の六角義賢も近江へ退却。
夜、三好勢は筒井衆の陣する菩提山寺を焼く。
21日、三好勢、筒井郷・十市郷・片岡郷を焼き払う。
22日、多聞山から兵を出し宿井・藤坊を焼く。
24日、菩提山寺の筒井陣を攻め、坊舎を残らず焼き蔵物を奪う。
25日、矢田寺の諸坊を悉く焼き払う。東明寺・松尾・平群谷・生駒谷を焼く。
28日、秋山氏に加勢して釜口へ陣取る。井戸氏は久秀に同心し、人質を渡す。
6月2日、三好氏・六角氏が講和。三好長慶の政治的優位回復。松永久秀の武名広がる。
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5月23日
・織田・斎藤両軍激突。信長甥信盛戦死。犬山(信清)勢、下津乱入のため信長退却。
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6月
・毛利軍攻撃、須佐高矢倉城(飯石郡)主本城常光降服。
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・真田幸隆(50)・信綱連名で四阿山白山神社奥宮に戸張を寄進。
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・武田晴信、和田城(高崎市)城主和田業繁宛て書状で、当家に忠義を尽くせば「永代御身上異議なし」と送る。
12月中旬には和田氏は甲府に出仕。
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・武田四郎勝頼(17)、諏訪氏を継承し、伊那高遠城主となる。跡部右衛門ほか8名が、勝頼衆として付属。
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6月1日
・犬山城信清勢、信長方丹羽五郎左衛門の於久地域急襲、威嚇のみで退却。
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6月2日
・六角義賢、三好長慶と和睦して京都占領を中止。
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6月9日
・フランス、カトリーヌ・ド・メディシスとルイ・ド・コンデ、野原で馬に乗ったまま会談。
最初から双方喧嘩腰、コンデはカトリーヌの提案を全面拒否。双方、騎兵100名の護衛。
コンデ側「白」(「白」がユグノー陣営のシンボルカラー。ナンリ・ド・ナヴァールの有名な「白い羽根飾り」はこれに由来)。
カトリーヌ 側「赤」。
数日後、コリニー(ガスパール・ド・コリニー)、カトリーヌを夜襲、失敗。
コリニーがカトリーヌに「ギーズ兄弟、モンモランシー、サン・タンドレ元帥を退去させれば自分も退去」と提案。
カトリーヌ了承、国王軍の3首脳がいなくなり、頭を失う。
コリニー、カトリーヌを裏切り夜襲、森で軍が分散し失敗。
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6月10日
・イルマン・ジョアン・フェルナンデス、豊後府内より博多に到り布教。
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6月15日
・ポルトガル船、新たに開港した貿易港の肥前彼杵半島北端の横瀬浦に入港。
肥前領主のバルトロメオ大村純忠(30)、宣教師アルメイダらの求めに応じ、横瀬浦を教会領とし、港の周辺の土地・農民を提供して教会・商館建設を認め、異教徒の居住を禁ずる契約を結ぶ。
平戸の松浦氏との闘いでの支援を期待。
元亀元(1570)年には新たに長崎を教会領とする。この時は竜造寺氏との闘いでの支援期待。
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6月22日
・将軍義輝、京都を奪回し帰京。
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6月22日
・伊勢の国山田の神人ら、宇治を攻めて内宮を焼く。
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6月23日
・松永久秀、春日社に参り、神楽12貫文を奉納。
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6月23日
・熊野本宮が焼ける。
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6月26日
・朝廷、教興寺の戦いの戦勝を賀し、松永久秀・三好義興に太刀を贈る。
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「★信長インデックス」をご参照下さい。
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