2011年7月10日日曜日

永禄5年(1562)7月3日~12月26日 義満以来10代余の将軍の家宰伊勢氏の終焉 ハンプトンコートの密約 [信長29歳]

永禄5年(1562)7月
この月
・北条氏照、武蔵野蔦郷(町田市)の窮乏を救うため、年貢や諸公事を免除し、郷村の復興施策を行う。
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・湯河直春・鈴木孫一ら、雑賀五荘郷の衆に起請文を呈す。        
紀伊では、真宗門徒を主体とした雑賀衆と国人領主湯川一族・根来寺勢力などの間に「惣国」が成立。
この惣国を基礎とした門徒・非門徒の連合が、ある場合には大坂石山を支え、ある場合には門徒の石山救援を規制する役割を果たす。
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7月1日
・オスマン帝国スレイマン1世と神聖ローマ帝国フェルディナント1世の間の和約成立。
ハンガリー全土がオスマン帝国領となる。  
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7月3日
・毛利軍1万5千、郡山を発ち、28日、出雲赤穴に進軍。尼子義久の諸城を攻略。
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・尾張知多郡の今川水軍、信長に属する。  
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・上杉輝虎(33、謙信)、松倉城の椎名康胤の救援の為に越中に出陣。神保長職は敗北。
9月、長職は又も再起(永禄3年と同様)。
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7月16日
・松永久秀方の箸尾為綱、伴堂・金剛寺両城を破却、箸尾城を築く。
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7月21日
・信長、尾張阿弥陀寺へ従来の如く「門家」(寺内)及び「末寺」の支配を委ねる(「阿弥陀寺文書」)。
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7月24日
・この頃より、豊前国柳浦にて大友勢と毛利勢との競り合いが始まる。
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8月
・小人頭木下藤吉郎、普請奉行の権限与えられ、壊れた清州城の城壁修理。十貫俸禄加増。  
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・安東愛季1,200、比内地方(秋田県北秋田郡)への侵略を開始。
独鈷城の浅利則祐、扇田・長岡城に籠もって反撃。
安東勢の攻撃強く、則祐は長岡城で自刃。
後、則祐弟勝頼が安東氏被官として比内の領主となる。
  この地方は、大葛・阿仁など金銀山があり、森林資源に豊富、甲斐より移住した浅利氏が支配していた。  
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・松永久秀、大和一国と南山城に徳政令を発す。  
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8月6日
・幕府、毛利隆元を備中・備後の守護に任ず。
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8月10日
・土佐一条房基の娘と伊東義益との婚姻が成立し、使者を派遣。
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8月21日
・大覚寺義俊(近衛尚通の子)、京都から越前へ下向。
この日、一乗脇坂尾(阿波賀河原)で盛大な曲水の宴が張られる。
参会者は、義俊など京都の文化人、朝倉義景やその一族・家臣。
曲水宴詩歌は、水辺に座を定め、上流から盃を流し、自分の前を過ぎるまでに詩歌を作る遊び。
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8月25日
・伊勢貞孝父子、将軍義輝の内命で六角義賢・畠山高政と連絡し北山で挙兵、杉坂より入京。
9月11日、松永久秀8千の猛攻。伊勢貞孝父子・有馬重則、討死。
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8月29日
・ハンプトン密約に先立ち、イギリス軍、ル・アーヴル入り。
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9月
・武田晴信、上野安中城を攻める。
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9月2日
・幕府(義輝・三好方)、3月の六角義賢の徳政を承認しない方針をとり、従来伊勢貞孝(政所執事、六角方に奔る)が加判した安堵状その他も無効と宣言。
また、この月、伊勢貞孝父子を幕府より追放、評定衆地方頭人の家柄の摂津晴門に頭人加判の権限を与える。
11日、貞孝父子、長慶嫡子三好義長・松永久秀らにより山城杉坂で殺害。
更に幕府は伊勢家の断絶まで考慮する。
義満以来10代余の将軍の家宰伊勢氏の終焉
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9月5日
・再挙した神保勢、この日、上杉勢を破り、神保民部大輔・土肥二郎九郎その他多数を討取る勝利。
椎名康胤は長尾景虎に支援を求め、景虎は再度越中へ出陣、神保方諸城を落とし、長職を呉羽山(五福山・白鳥城)に追い詰める。
上杉勢は城近辺を放火して退路を断つ。
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9月20日
・フランス、ハンプトンコートの密約
ロンドン西郊の旧王宮。イングランド女王エリザベス1世とユグノーのコンデ親王、「軍事同盟」締結
(ルイ・ド・コンデがシャルトル司教代理とモンゴメリーを名代としてイングランドに派遣)。
エリザベス1世、コンデ親王に「兵士6千」+「ドイツ傭兵」を雇う資金を提供。
コンデ親王、事が成就した後に次の都市をイングランドに割譲(ル・アーヴル、ディエップ、ルーアン、カレー)。
エリザベス1世、カレーを入手した場合はル・アーヴルを返還すると約束。  
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9月29日
・松平元康(家康)、今川氏真の兵を三河御油に破る
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9月29日
・鈴木孫一ら雑賀の衆、湯河宗慶に起請文を呈す。
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10月
・フランス、ユグノー・イングランド連合軍、ルーアンを占領。
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・フランス、ヴェルグトの戦い(フランス西南部、ペリゴール地方のユグノーの中心地ベルジュラック)。
モンリュック元帥とモンパンシエ、デュルフォール・デュラスに勝利。ユグノー5千戦死。
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・フランス、セバスチャン・カステリョン、「悩めるフランスに勧める」。強制によって信仰は成り立たない。
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10月5日
・神保長職、金屋村の戦い後、富山城に篭り長尾景虎を迎え撃つ。
景虎勢、富山城攻撃。
長職は能登守護畠山義綱に仲介を頼み景虎に降伏(長職の越中統一の野望は潰え去る)。
甘い処分。長職の射水・婦負2郡の知行安堵。これを機に畠山・神保・上杉氏は同盟関係を築く。
19日、長職、5日の金屋村の一戦で功のあった家臣寺嶋牛介に対し、この日付で感状と知行を与える。
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10月6日
・フランス、国王軍、ルーアン近くのサン・カトリーヌ砦陥落。カトリーヌ・ド・メディシス、ルーアン攻囲軍の先頭に立つ。
15日、国王代理人アントワーヌ・ド・ブルボン(44)、カトリーヌのすぐ傍らで狙撃され、致命的な重傷。17日、没。直前、「アウグスブルクの信仰告白」のルター派教義受入れる。息子アンリ・ド・ナヴァール、直ちにベアルヌの母ジャンヌ・ダルブレの許に戻る。
26日、ギーズ公指揮国王軍、ルーアン奪回、占領。モンゴメリーを取り逃がす。  
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10月13日
・大友勢と毛利勢、豊前国柳浦にて一戦を交え、大友方の大勝利。部将戸次道雪、 宗麟より戦功を褒せられる。
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・上杉輝虎(政虎)の家臣、小 幡景貞の守る国峰城を攻略。
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11月
・北条軍(氏康・氏政父子)5万、北武蔵の拠点・松山城に押し寄せ包囲。
要害を相手に戦況を打開できない北条氏は甲斐の武田氏に助勢を願い、関東の反北条勢力は越後の上杉氏に加勢を願い出る。
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11月5日
・吉川元春、宍道・幡屋滞陣中の本城常光と一族郎党を殺害。
これにより、先に毛利氏に服属した諸豪のうち、熊野城主熊野兵庫、白鹿城主松田誠保、牛尾城主牛尾信濃守ら再び尼子氏につく。
高矢倉・銀山城を奪取し石見を征服  
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11月16日
・大友義鎮、崇福寺并末寺を安堵。
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11月24日
・上杉輝虎8千、松山城救援のため春日山城進発。27日、越後柏崎に着陣。
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11月26日
・フィレンツェ、コジモ大公のロシニャーノ離宮とリヴォルノの中間の森、鹿狩り中に3男ガルツィアが長男ジョヴァンニを殺害。
コジモ大公はガルツィアを殺害。1ヶ月後、エレオノーラ大公妃、病死。
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12月
・北条家の最長老幻庵、花嫁の心得を記した「覚え書」を著す。  
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・駒千代や大勝院などの給人・寺庵が越前の織田神領内で本役米を無沙汰し、度々の催促にも応じず、織田寺社の訴えを受けた朝倉氏は年内中に納入しなければ、これら寺庵・給人の内徳分を没収するとする(「劒神社文書」49号)。
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12月3日
・北条氏照、下総古河城を攻略。足利藤氏、安房・里見義堯を頼る。
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12月10日
・毛利元就、出雲洗骸に移陣、尼子氏の富田月山城を包囲。  
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・フランス、ドルーの戦い(パリ西75Km、ブランヴィル(ドルー近傍))。
国王軍(司令官モンモランシー)、ユグノー軍(ルイ・ド・コンデ軍)に大勝利。
国王軍:モンモランシー(ユグノー軍の捕虜)。サン・タンドレ元帥(戦死)。
ユグノー軍:ルイ・ド・コンデ(国王軍捕虜)。ガスパール・ド・コリニー(残党をまとめてオルレアンに向う)。  
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12月13日
・松永久秀、春日社の陪従御神楽の施主を務める。願主は近衛前久。
15日、春日社神事の下行銭1500疋を朝廷に献上。  
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12月14日
・今川氏真、井伊家与力小野道好の讒言を容れ朝比奈泰能に井伊直親を殺害させる。
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12月16日
・武田晴信、北條氏康と共に武蔵松山城を攻撃し、越年(要害堅固な武州松山城を相手に、北条勢の苦戦は続く)。
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・上杉謙信4度目の関東越山。上杉輝虎、春日山城を発するが、大雪に阻まれ、12月26日、沼田城に入り年を越す。
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12月21日
・毛利隆元、厳島神社に元就の健康を祈願。
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12月24日
・大内氏を破った出雲の尼子晴久(49)、没。嫡男義久、後継。
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12月28日
・立入宗継、兄の立入修理進の代りに御倉職に補任。
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12月末
・フランス、ギョーム・ポステル、パリ最高法院命令により逮捕。
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「★織田信長インデックス」 をご参照下さい。
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