2011年7月3日日曜日

明治7年(1874)11月1日~11月31日 「読売新聞」創刊 大久保利通、日清談判を終えて帰国 [一葉2歳]

明治7年(1874)11月
この月
・朝鮮、「勢道宰相」閔升鎬(閔妃の義兄)、自宅に送られた小箱により爆殺。
翌年末には領議政李最応(大院君の兄)邸に放火事件。
犯人は大院君腹心申哲均とされ処刑。
閔升鎬没後、従兄弟の閔奎鎬(閔升鎬殺害の黒幕とも言われる)が一族を代表する実力者となる。
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・官金出納担当の小野組が破産。政府、官金委託を第一国立銀行へ移す。
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11月1日
・大久保利通、北京発。
16日、台湾立寄り、高雄港で西郷従道に撤兵約束させる。
27日、東京帰着。

大久保の日記
「是迄焦思苦心、言語ノ尽ス所アラズ、生涯又如此ノコトアラザルベシ、・・・此日終世不可志ナリ」(10月31日)
「九月十日北京江戸着、滞在凡五十日余、実ニ重難ノ任ヲ受、困苦不可言。幸ニ事成局ニ至リ、北京ヲ発シ自ラ心中覚快。鳴呼如此大事ニ際ス、古今稀有ノ事ニシテ生涯亦無キ所ナリ・・・往事ヲ思、将来ヲ考、潜ニ心事ノ期スルアリ」(11月1日)
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11月1日
・伊藤博文、木戸孝允の参議復帰説得に山口訪問。
2日、「勅言の御書付」と三条からの書状を渡す。
4、5日、会談。
7日、御書付への「御受書」が渡される。実際は木戸・伊藤間で、木戸が保養目的で京阪地方に出向き、ここで政府側と話し合うという調整となる。
7日夜、伊藤、帰京。
9日、伊藤より木戸へ、日清間の武力衝突回避に報告(木戸復帰の環境が整う)。
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11月2日
・福地桜痴の「東京日々新聞」、社説欄を創設。
この頃、成島柳北の「朝野」、「郵便報知」「横浜毎日」「東京曙」も社説欄を常説。
政府施策を批判・評論する政論新聞の誕生であり、政府と新聞の蜜月も終わりに近づく。
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11月2日
「読売新聞」、創刊。発行部数200部。隔日発行。部数は急激に増加する。
翌明治8年4月19日から毎日刊行となり、6月1日には1万88枚を印刷するようになる。

所謂小新聞(こ新聞)。市井の出来事を書く雑報記事が売りもの。
創刊の辞(「稟告」)では、
「此の新ぶん紙は女童(をんなこども)のをしへにとて為になる事柄を誰にでも分るやうに書いてだす旨趣(つもり)でござりますから耳近い有益(ためびなる)ことは文を談話(はなし)のやうに認(したため)て御名まへ所がきをしるし投書(よせぶみ)を偏(ひとえ)に願ひます」。

昔から、天災地変が起ると、それを簡単な記事にし、瓦版に刷って、市中を走って叫びながら売り歩くものがあり、これを読売と言う。
この新聞は、題を読売とし、同じ売り方をしたので、市民は「朝野」「報知」「東京日日」よりも下品な新聞と見なした。
しかし、「読売新聞」は、記事が花柳界や芝居のこと、日常の市民生活の悲劇的な話、面白おかしい事件を、平易な筆で書き、忽ち人気新聞となる。

「朝野」は主に官庁の公布文や政治上の動きや政治評論をのせ、「東京日日」は市民生活の報告をのせるが、読者は知識階級が主で調子は固い。
「読売」は一般庶民の興味に訴える編集をしたので、部数は急激に増加。

この頃主な新聞は、「東京日日」「郵便報知」「日新真事誌」「朝野新聞」「横浜毎日新聞」。

「日新真事誌」は英人ブラックの経営で、政府と衝突してこの年廃刊。

「朝野新聞」は明石藩旧藩主松平侯爵が「公文通誌」を譲り受け、改題して明治6年8月刊行。社主乙部鼎は、前年洋行から帰った成島柳北を、この年社長とする。柳北は「雑録」欄に諧謔まじりの随筆を毎日発表、品格があり鋭い諷刺の利いた文章は、当代無比と称される。紙数は約2千部。

「横浜毎日新聞」には、沼間守一、島田三郎等がいた。

この年、仮名垣魯文は元弁天町から桜木町に移る。
彼は小説「安愚楽鍋」序文にも牛の煉薬「黒牡丹」製主と、自製の薬の広告をしていたが、桜木町の家にも売薬「黒牡丹」の看板を出す。
神奈川県庁の雇として、月給20円の安定した生活を送り、また好評の「西洋膝栗毛」の第二篇第三篇を書き続けている、しかし、著作からの収入は1冊10円程度であった。
神奈川県令大江卓は、下情に通じたものに県下を巡視させて教育の普及をはかるのがよい、と考えて戯作者あがりの魯文にその役をあてる。
魯文は村々を巡廻して訓示演説をした。
魯文は、前年横浜に来てから内証で「横浜毎日」に寄稿。
また、新聞が大衆のに次第に行きわたる形勢を見て、茶店風の新聞縦覧所を遊楽地の野毛山に開き、後妻のため子にそれを営ませていた。

魯文は、この年(明治7年)、神奈川県庁雇を辞し、「横浜毎日」社員となる。
彼にとって、新聞の雑報は気質に合い、また好評であった。

魯文が「横浜毎日」に寄稿する少し前、この新聞で最も重視されていた記者は栗本鋤雲(53歳)

栗本鋤雲;
安積艮斎、佐藤一斎等に学び、昌平聾に入り、漢方医となり、幕府奥詰の医師となる。
31歳の時、幕府の命により、蝦夷の開発・保安のため函館に住み、在住武士たちの頭取となる。
その間、外国関係の諸問題を研究。
10年間、函館に住み、函館奉行組頭となった後、昌平學頭取(官立大学長)の役で江戸に戻る。
その後、開国談判、償金の延期談判、外国公館建築等にあたり、軍艦奉行、外国奉行、勘定奉行に就任。
慶応3年、特使としてフランスに派遣され、翌年の帰国後は帰農して小石川大塚に隠棲。
明治5年、横浜で「毎日新聞」に入る。
魯文が横浜に来た頃、栗本鋤雲は東京に戻って小西義敬の経営する「郵便報知新聞」主幹となっていた。
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11月9日
・上海の新聞「申報」、論説「停戦を喜ぶ」掲載。
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11月16日
・島田三郎(22)、「横浜毎日新聞」主筆となる。
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11月17日
・スタンレー、ナイル川源流とコンゴ川調査。
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11月18日
・米、女性クリスチャン禁酒同盟(WCTU)、結成。酒類売買禁止運動開始。
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11月21日
・ワーグナー(61)、「神々の黄昏」完成。
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11月26日
・木戸より伊藤へ書簡。
台湾問題解決により自分(木戸)の復帰の必要はなくなったと言う。復帰への条件闘争。  
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11月26日
・新島襄、帰国。
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11月27日
・大久保利通、東京着。歓迎・安堵で出迎え。
以降、太政大臣三条・左大臣久光・右大臣岩倉以上の実質的首相の役割担う。
12月13日、天皇、大久保にお手許金1万円下賜。大隈には1500円。
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11月30日
・英、ウィンストン・チャーチル、誕生。
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「★明治年表インデックス」をご参照ください。
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