永禄6年(1563)
信長30歳、光秀36歳、秀吉28歳、家康22歳
この年
・明智光秀(36)、朝倉義景より鉄砲寄子100人を預かる。
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・越前、この年、惣代が村の代表者となる。
南条郡の「赤萩村之惣代、本番頭之左衛門」とあるのが初見。
この左衛門は、番頭として村を代表しているのではなく、村人によって承認された惣代として村の代表者となっている。
番頭は公事負担の為に幾つかの名を纏めた番の差配者として番頭給や番頭袴摺料(番頭への手当料)を荘園領主から認められている下級荘官。
番頭から惣代への変化は、下級荘官の主導する村落から惣百姓が主体となり惣代が代表する村落へと変化したことを示す。
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・朝倉氏の第2次の街道普請事業。
永禄年間(1558~70)
永禄6年、西街道普請に関し、幅員を1間半、そのうち傾斜面を除いた人馬通行の道路部分は1間を確保するよう厳命、測量のための「定尺」が下付。
永禄11年、北庄橋修理が計画され、用材確保に本保・立田両氏が奔走。
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・甲斐武田氏の「恵林寺領検地帳」。
国人領内部に立入り「百姓指出」方式の検地を実施。
名主加地子得分の把握により増分=踏出分が打出される。
検地を契機に、踏出分全額年貢諸役免除の条件で軍役衆が村落中に創出され、残る百姓には名請高の4割又は踏出高の2割が免除される。
このような増分=加地子得分の恩給による軍役衆の設定は、今川では天文、北条では永禄に行われる。
天文~永禄の戦国盛期において、戦国大名の国人=在地領主統制は、名主加地子得分の掌握という形の農民把握によって領国統治として確定。
「公事検地」の方式にもとづき、農民相互の競合に委ねながら農民収奪と給人=地頭統制を強化した今川氏と、積極的に自ら検地を強行した武田氏との差違はあるが、ともに名主百姓は存立条件を上から解体させられる。
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・小領主層への特権付与による惣型闘争組織解体
荒川沿いの武蔵井草郷を水損から守る為、領主側は現地土豪牛村助十郎を「政所」に任じ「政所免」「つつみ免」を与える。
大名の農民闘争への対応は、
①土地緊縛、
②小領主層の被官化、
③それへの特権付与による惣型闘争組織解体
という形で進められる。
小領主層の特定人物を選び、開発・用水・治水等、本来村落共同体に属する諸機能の管理権を、大名がこれに保障するという方式を磯極的に推進している。
本例の他に、永禄2年(1559)、武蔵足立郡宮内村の開発に際し「郷中百姓等、無莵角可為入籠」しと小領主級の大嶋大炊助に命じている。
荘園制段階の「勧農」が荘官層によって遂行されたのに対し、ここではそれが、村落共同体の共同機能として展開されつつある現実を踏まえ、大名がその機能を被官化した特定の小領主的階層に掌握させることによって、村落=農民支配体制を編成しようとしている。
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・フランス、新教徒・陶工アンリ・ベルナール、「確実な道…」、恩人モンモランシー将軍とカトリーヌ・ド・メディチに捧ぐ。
国民全体が豊かな生活ができるように根本的な「確実な道」。
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・スペイン、エル・エスコリアル宮が着工。
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1月
・信長、小牧山に新城築き移住決定。2月着工、90日で落成。
美濃の斎藤氏と、これと結ぶ犬山城の織田信清を攻略するた。
小牧山は清洲より北東に位置し、犬山はじめ尾張平野を一望できる軍事的要衝。
信長の清洲城から小牧山への移城時期は不詳。
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・毛利元就、安芸佐東銀山を二分し朝廷・幕府に寄進。
大友義鎮、豊前松山城を攻める。毛利軍これを撃退。
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・三河一向一揆起こる
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・上杉輝虎(34)、厩橋城で関東諸将に号令をかけ、松山城救援に向かう
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1月1日
・松永久秀、多聞山城で茶会。客は興福寺成福院・曲直瀬道三・松屋久政・堺宗可・竹内秀勝。
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1月7日
・武田信玄、北条氏康・氏政父子へ武蔵松山城攻略出兵依頼。
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1月19日
・今川氏に寄食していた武田信虎、京都に行く。
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1月19日
・カルヴァン諸侯派、「ハイデルベルク教理問答」公表。ルター派諸侯との対立激化
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1月22日
・松永久秀、大和多武峯(とうのみね)衆徒が挙兵したため、久通と共に出陣。
23日、釜口に本陣を敷く。
27日、多武峰東口で多武峰衆徒と戦うが敗れ、壺阪まで退く。
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1月24日
・和泉で三好勢と根来衆徒、衝突。
10月14日、和睦。対抗意識消えず。
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1月27日
・将軍足利義輝、戸次鑑連に対し、豊藝和談に付、大友義鎮に意見を加ふべきを命ず。
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1月27日
・毛利元就、石見国大森銀山を御料所として献上。
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2月
・大友宗麟、豊前松山城に派兵、毛利隆元と激突。
前年、石見一国を完全制覇し大森銀山を支配化におく毛利元就、この年、尼子氏の本拠地・出雲に本格侵攻を始めようとする。
尼子氏と大友氏、連携して南北より毛利氏を挟み込む作戦。
松山城攻めは大友氏の連携作戦の一環。松山城攻め指揮は戸次道雪。
大友氏の目的は将軍家の和平説得を拒否し続けている毛利氏に決断を迫るためのもの。
出雲攻めをきりあげて長門に急行した毛利隆元は、南北に敵をもつ事の難しさを痛感、和平へと傾く。
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・摂津池田城(三好長慶の傘下)当主池田長正、病没。後継は勝正。
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2月2日
・フランス、ジャンヌ・ダルブレ、信仰の自由を宣言。
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2月3日
・丹波の土豪、宇津・柳本・薬師寺・長塩ら、200で京都乱入、放火。以後もゲリラ活動続く。
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2月4日
・北条氏康・武田信玄、上杉憲勝の武蔵松山城を攻略(武田勢、金山衆を使って城を掘り崩す策で攻める)。
上杉謙信の越後勢の反撃が始まる。
騎西城(埼玉県北埼玉郡騎西町)を攻略(騎西城攻め)。
信玄は、帰路碓氷郡に侵攻、安中城を攻撃、城主安中景繁は降伏し本領安堵される。
その父の松井田城主重繁は抵抗し成敗される。
信玄、碓氷郡域を制圧。
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2月15日
・リトワの商業都市ボロツク、ロシア・イヴァン4世(雷帝)の攻撃に降伏。
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2月17日
・フランス、コリニーに命令されたポルトロ・ド・メレ(20)、翌日のオルレアン攻撃を控えて巡察中のギーズ公フランソワを火縄銃で後ろから狙撃。
24日、ギーズ公フランソワ(44、1519~1563)、没。
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2月28日
・武田信玄嫡男義信1万余、甲府進発。
北条・武田連合軍4万6千、松山城(上杉憲勝)攻撃。和睦、開城。
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3月
・毛利・大友講和
毛利元就、将軍義輝の命で大友宗鎮との和議を承諾。
門司城は毛利に、松山城を大友氏に還付。
幸鶴丸(輝元)に義鎮の娘を嫁すことを約す。
大友氏の主張する香春岳城破却に対して、毛利氏傘下の宝満城主高橋鑑種、古処山城主秋月種実、香春岳城主杉連緒、宗像大宮司宗像氏貞らは、反対して毛利父子に講和撤回を申し入れる。
毛利氏は九州の一城よりも、背後の尼子征伐を優先させる方を選択。
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・上杉謙信、北条方の属城・武蔵鐘撞城を攻略。続いて、武蔵騎西城を攻略。
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・武田信玄、本格的な伝馬定書を信濃塩尻宿中に宛てて下す。
この頃までには、伝馬制度は占領地を含め整備され、定書・手形により広範に展開。
主要道の宿駅整備、伝馬を負担する伝馬役衆の創出、問屋の新設承認。
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3月1日
・摂津富田普門寺幽門の細川晴元(50)、没。
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3月2日
・織田信長の娘五徳(徳姫、5)、松平元康(家康)の嫡子竹千代(信康、5)と婚約。
五徳が岡崎城に嫁ぐのは永禄10年5月27日。
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3月3日
・松永久秀、春日祭の費用として15貫を、清原枝賢から山科言継を通して献上。
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3月18日
・幕府、浄福寺寮舎の破却を命令(「浄福寺文書」)。
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3月18日
・パリ、クレーヴ広場、ギーズ公フランソワの殺人犯ポルトロ・ド・メレ、処刑(四つ裂き刑)。
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3月19日
・フランス、アンボワーズの和解王令、第1次ユグノー戦争(宗教戦争)終結
両派とも不満。
カトリック側捕虜コンデ公とユグノー側捕虜モンモランシー公の交渉。
ユグノーの既得権承認。
貴族の宗教的権利守る(信仰の一元化に社会的階級的差別持込む)。
王令(ユグノーの礼拝の自由を原則として承認)。
裁判権を持つ「位の高い貴族」は家族と家臣達に限って家の中で礼拝式が許される(家臣達が自分の家で「集会」を持つことは許されない)。
一般庶民は大法官裁判管轄区に設置された「教会」でのみ説教を聞くことができる。
「パリ」及び「パリ子爵領の全域」ではユグノーの「礼拝」を全面的に禁止。
ルイ・ド・コンデ(33、1530~1569)、「王令」を承諾して釈放(カルヴァンとコリニーはコンデを非難)。
数多くの教会が閉鎖、布教と集会が国中で妨害、盛んだった一般庶民の改宗が下火に。
・カトリーヌ・ド・メディシス、ルイ・ド・コンデを「国王総代理官」に任命(1ヶ月前まで反乱軍最高司令官で逮捕されていた)。
カトリーヌはマドモワゼル・ド・リムーユをコンデにあてがう(兄アントワーヌと同じ戦術)。
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3月22日
・細川藤賢、三好軍を率いて京都杉坂に放火(「言継卿記」)。
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3月22日
・荒木村重、(摂津)池田二十一人衆の池田勘右衛門正村を宴席で討ち取り、家中からの信頼を勝ち得る。
池田長正を継ぐ家督相続争いと重臣格池田四人衆と有力武将池田二十一人衆の対立。
池田四人衆(池田勘右衛門尉正村・池田山城守基好・池田十郎次郎正朝・池田紀伊守正秀)のうち正村・基好が二十一人衆に誅される。
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3月25日
・益田藤兼(35)、伝家の宝刀「舞草・房女」を毛利元就に献上、毛利家への忠誠を示す。
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「★織田信長インデックス」 をご参照下さい。
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