七月一日 芳太郎来訪。
しばしありて、横須賀より野々宮君参らる。かなしく、浅ましく、かつは哀れにも、はづかしくも、さまざまなる物語をかたり出る。失敗の女学生が標本ともいふべきにや。
十時頃成けん、桜木丁より使来り、幸作死去の報あり。母君驚愕、直に参らる。
からはその日寺に送りて、日ぐらしの烟とたちのばらせぬ。
浅ましき終(おはり)をちかき人にみる。我身の宿世(すくせ)もそゞろにかなし。」
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「日ぐらし」;北豊島郡日暮里村の火葬場。
「野々宮菊子」;この年2月から横須賀小学校に勤めている(一葉に桃水を紹介した女性)。
この日、下谷区上野桜木町の丸茂病院(院長は山梨出身の丸茂文良)で治療を受けていた父方の従兄弟の樋口幸作が急死し、一葉は大きな衝撃を受ける。
(丸茂病院は皮膚科の医院で、幸作はハンセン病との説もある)
一葉は、幸作の突然の死に自分の短命を予感する。
樋口くらは、幸作の妹で、入院している幸作に付き添っていた。
悲しく情けない人生の終焉を身近な人の上に見て、私の一生のことも考えられて何となく悲しい思いであった。
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7月2日
二日 早朝、母君およびおくらと共に、日ぐらしに骨ひろひにゆく。
山川程を隔てたる叔甥の、おなじ所に烟とのぼるは、こものがれぬ宿縁なるべきにや。
「おはしまさば」と、今日はなき人に成し父上嬉しとおもふ。
遠く離れていた叔父(一葉の父)と甥が同じ火葬場の煙となった。これものがれられない前世からの因縁だろうか。
父が存命であればどんなに悲しんだろうにと思うと、今日ばかりは亡くなっていることが嬉しい気さえする。
一葉の父則義は明治22年7月12日に没し、14日に同じ日暮里火葬場で茶毘に付された。
7月7日
七日 小石川稽古日也。十二日までには是非金子(きんす)の入用(いりよう)あるに、此月は別していかにともなすによしなく、「師君(しのきみ)に申てこそ」とこゝろは定めたりしを、さても猶いひおくれて、昨日までに成ぬ。
「今はいかにしても言はではあられぬ時」とて、夕べ書物(かきもの)おはりて帰るさに、文したゝめて机の上に残し置し。
されば、今日の稽古日に何とかの給ふべきは道理なり。
よきこたへならは嬉しけれど、例(いつも)の気質も知らざるにはあらぬ師君が、いか様なる事やの給(たまふ)らん。(以下五行抹消)
12日(父の命日)までにお金が必要だが、どうしようもなく、師匠にお願いしようと思っていたが、言い出せずにいた。
昨日の夕方、書き物の仕事を終えた帰りがけに、手紙を書いて机の上に残しておいた。
師匠は今日の稽古日には何かおっしゃる筈だが。
果たしてどうおっしゃるだろうか。
これに続く部分の日記が抹消されていることを考えれば、多分、一葉の望みは叶えられなかったのであろう。
どこまでも、金に困っている一葉なのである。
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「★樋口一葉インデックス」 をご参照ください。
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