2011年7月2日土曜日

昭和16年(1941)5月1日~10日 「人と人とが知らない間柄ではずいぶん冷淡薄情になった」(室生犀星)

昭和16年(1941)5月
この月
・中国共産党、「精兵簡政」、「三風整頓」(整風)運動開始。高級幹部の間に始まる。
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・広津和郎・間宮茂輔、満州旅行。途中、平壌で金史良を訪問。
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・東條陸相、軍事調査部を大臣直属に改め、正規の組織図から外し実態を不明にし、陸軍以外の政策集団の動きを把握する機関に変える。
部長には三国直福(一夕会系、武藤と同期、陸軍省新聞班の経歴)。松岡の悪評が多い。
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・横須賀、海軍航空技術廠の工員便所内に、「天皇機関説賛成、共産党万才、軍部横暴」などの落書。
少年工員(19)は、海軍軍法会議において少年法により不定期刑短期3ヶ月乃至10ヶ月の懲役。
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・この月発行の司法省刑事局「最近に於ける左翼学生運動」思想研究資料特集第85号。
37(昭和12)~39年(昭和14)の学校教員の思想犯による処罰、大学21名(うち起訴9名)、高校1名(1名)専門学校5名(2名)、中学校16名(5名)。
37年~40年の左翼学生検挙者は525名、起訴者67名。
1925年以来の合計数は検挙5,377名、起訴454名。
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・室生犀星の描く世相(「中央公論」)。
「自動車に乗ろうとして交渉すると運転手は頭を振るだけで物を言わない。
商店で物を買おうとしても要らなければ止せという。そしてすぐ商品を片づけて了う。
・・・駅員は苦り切って切符をひきたくる。
・・・気をつけていると日常語が凡てを通じて粗暴になった。
人と人とが知らない間柄ではずいぶん冷淡薄情になった」。
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・金史良「泥棒」(「文芸」)
・広津和郎「歴史と歴史との間」(「改造」)  
・志賀直哉「馬と木賊」  
・アラン「芸術論集」(桑原武夫訳)
・稲垣達郎「作家の肖像」(「大観堂」)
・小林秀雄(39)、「第一回文芸推薦評論審査後記」(「文芸」)。林房雄と対談「道徳を論ず」(「文学界」)。
・太宰治(32)、「東京八景」短編集(実業之日本社刊)
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・日本移動演劇連盟、結成。
当初松竹・東宝など7団体、42年「瑞穂劇団」などが加盟。
後に、「文学座」「文化座」「前進座」「井上演劇道場」なども参加。
43年3月社団法人に組織化。
観客動員数:42年222万、43年298万、44年458万。
苦楽座は「桜隊」、俳優座は「芙蓉隊」として移動演劇隊に編成替えされ、文化座、文学座、芸文座なども移動演劇に移っていく。

「桜隊」は広島で被爆、丸山定夫ら全員が爆死、
「上海事変」の呉淞クリークで友田恭助戦死。

「移動演劇」運動は、戦力増強のために内務省の「演劇の浄化と統制」方針にそい、大政翼賛会文化部の提唱を受け、情報局の指導・援助の下に行われたが、全国の農村・漁村・鉱山・工場・学校など広範囲にわたり尨大な観客層を集めて展開、戦争後期には演劇界の主流になる。
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・社団法人日本映画社が発足、文化映画協会、日本ニュース社を吸収。
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・農地開発営団、設立
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・パリ、外国系ユダヤ人の逮捕始る。
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・アメリカ、ニューギニアに航空基地建設準備を進める。
アメリカ・イギリスと、中国・蘭印・オーストラリア・フィリピソなどとの軍事協力関係が着々と進展。
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・イギリス軍、クレタ島奪回作戦。~6月
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5月1日
・海事審議会、設置。
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・トヨタ自動車、独立。
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・放送技術研究所、週1回のテレビ実験放送を開始。
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・ドイツ、国内ユダヤ人の公的交通機関利用禁止。
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・ドイツ軍、トブルク攻撃。撃退される。
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・ドイツ軍、リヴァプールを空襲。~9日
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・オーソン・ウェルズ監督「市民ケーン」公開。
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5月2日
リヒャルト・ゾルゲ報告、ドイツのソビエト攻撃可能性極めて高い。19、30日にも。
ある時、DNB(ドイツ通信社)総裁・ナチ党機関誌編集長ウィルヘルム・フォン・リトゲンが、ナチのある筋よりゾルゲの前歴に疑問ありとの情報を伝えられ、ドイツ中央保安部海外情報部長シェーレンベルクに調査を依頼。
調査結果は、異常はないが、保安警察長官ラインハルト・ハイトリッヒの意見に従いゾルゲを監視下におくこととする。
丁度この頃、ハイトリッヒ配下のゲシュタポ大佐ヨゼフ・マイジンガーがワルシャワにおける残忍な行動が原因で東京に左遷されることになり、このマイジンガーにゾルゲの監視の任務を与える。
この月、マイジンガー来日。
ゾルゲが怪しいと警視庁外事課に通報、外事課警部補大橋秀雄(逮捕後の取調べを担当)らが1~2ヶ月内偵。
クラウゼン、ヴーケリッチ、尾崎との関係もつかめず、おかしいところが見つからず。
マイジンガーもゾルゲを安心と評価するようになる。
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5月2日
・イラク、ラシュッド・ガイラニの反英反乱。英軍の撤退を要求。
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5月3日
この年の重慶空襲、始まる

「第二十二航空戦隊は、五月三日の重慶攻撃を皮切りに七月中旬まで二二次にわたり重慶攻撃を実施した。
しかるところ、中央部及び支那方面艦隊は更に大航空兵力を投入して重慶方面の抗戦力を徹底的にたたく作戦を開始した。
これが『一〇二号作戦』と呼称されるもので、日米間の国交が険悪化しつつある折から、兵力に余裕のあるうちに後顧の憂いを絶っておこうとするのが目的であった。
このため第十一航空艦隊の兵力の大部(陸攻約一八〇機)が漢口及び孝感の基地に進出して支那方面艦隊の指揮下に入り、七月二十七日から八月三十一日まで重慶及び成都を中心とする四川省要衝の徹底的航空攻撃を実施した。
この作戦には陸軍の爆撃隊も協同した。
航空攻撃はほとんど連日実施され、九六式陸攻に替わる新鋭陸上攻撃機『一式陸攻』も初登場した。日本海軍の陸上攻撃機がほとんど全機この作戦のために動員されたため、その効果は極めて大きく、第三国情報は盛んに重慶の被害の大きいことを報じた」
(公刊戦史(防衛庁戦史室刊)戦史叢書「中国方面海軍作戦(2)」「第四重 昭和一六年の海軍作戦」)。
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5月3日
・大本営政府連絡会議、松岡外相、「日米諒解案」を大幅に修正させ、松岡修正案ができる。
三国同盟第3条による軍事援助義務(米の対独参戦は自動的に日本の対米戦争となる)を確認し、日華和平条件も全部削り、南方資源獲得のため武力に訴えないという条項も削除。
そして松岡は、この修正秦をアメリカに提出する前に、まず日米中立条約提案を主張、外相一任ということになって、この旨の訓令が発せられ、松岡外相の口上書も打電。
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5月3日
・重要機械製造事業法公布
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5月3日
・日本天主公教教団設立認可
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5月3日
・大塚令三「支那共産党史」、湯浅正一「中国の各種記念日の沿革概説」、ともに共産主義の宣伝となるとして発禁  
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5月3日
・ユーゴスラビア領スロベニア地方、イタリアに併合。
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5月5日
・日本出版配給株式会社(日配)、発足。雑誌・書籍取次の包括的な一元機関。企画~配給までの国家統制。          
 政府が役員任免を押さえる所謂「国策機関」。
「日配」成立は、出版物配給ルートを再編成し、その中枢を国家権力が握ったということを意味する。
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5月5日
・拓南塾開塾(現東京・小平市)。塾長宍戸好信海軍中将。南方資源開発人材育成。
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5月5日
・イギリス軍、北アフリカ部隊への護送船団による補給作戦)。
護送船団、アレクサンドリアに戦車を輸送。~9日
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5月5日
・イギリス軍、イタリア軍占領下のエチオピアを解放。
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5月6日
・仏領インドシナの日仏居住航海条約、日本・インドシナ関税制度日仏協定、貿易と貿易決裁様式に関する日仏協定に調印
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5月6日
・大日本産業報国会、日本労働科学研究所の統合を決定
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5月6日
・米、ルーズベルト大統領、武器貸与法の規定に従い、中国防衛が米国防衛にとって緊要である旨を声明。

中国に対する武器貸与援助は1941年に開始され、特に中国非占領地域への唯一の物資輸送路であったビルマ公路からの輸送改善に重点が置かれた。
・・・蒋介石の要請により、ビルマ公路を調査し、その輸送量拡充の為の勧告を行う目的で、米国の輸送専門家が1941年6月中国へ派遣された。
・・・1941年初め米国政府は米国人の義勇飛行士によって操縦され、米国人の地上勤務員によって整備される米国戦闘機が、中国軍に加わって対日戦に参加することを許可した。
・・・さらに米国は強力かつ優秀な装備をもつ中国空軍を編成する計画を実施することに着手した。
1941年5月、クラゲット将軍を団長とする航空使節団が、実情調査のため中国に派遣された(「一世紀間の米華関係」)。
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5月6日
・仏、アンドレ・ジッド、ヴィシーよりもパリで「ドイツに服従している方が損害も少なく堕落の度も少なく…」(日記)
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5月6日
・スターリン書記長、ソ連人民委員会議議長(首相)就任。モロトフ副首相(兼外相)は留任。
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5月6日
・イギリス軍部隊、イラク軍を撃破し、バグダードに前進 7 ・第1軍、中原会戦(「百号作戦」)(5月7日~6月15日)。
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5月7日
・医療品及衛生材料生産配給統制規則公布
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5月7日
・イギリス、捕獲されたドイツ艦船より、機密「エニグマ」暗号書を入手
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5月7日
・野村大使、松岡外相指示に従いハル国務長官に中立条約を持ち出すが、ハルは問題とせず。
口上書は手交せず。

松岡外相からハル国務長官宛て口上書には、独伊の指導者は勝利を確信している、米国の参戦は戦争を長びかせ文明破壊をもたらすだけ、日本は同盟国の立場を危くするようなことは出来ない、というもの。
野村が、ハルに「松岡から電報が来ているが、これらはいろいろよくないことも書いてある。おわたししますか」と聞く。
ハルは、よくない事が書いてあるのだったら、そちらにとっておいてもらって結構だと答える(ハル「回想録」)。
米は暗号解読技術「マジック」により日本からの通信は全て解読済み。    
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5月8日
・大本営政府連絡会議、松岡外相、米国参戦阻止のためには英国を降伏させること、その為にはシンガポール攻略が緊要であると主張。
同日、参内、奏上。

「米国参戦の場合は、日本は当然独伊側に立って、シンガポールを撃たねはならぬ。
又米国が参戦すれば長期戦となって、独ソ衝突の危険があるやも知れず、その場合は(日本は)、中立条約を棄てドイツ側に立ち、イルクーツク辺りまで行かねはならぬ。
そういう事態になれば、日米国交調整も総て画餅に帰する。
何れにせよ米国問題に専念するの余り、独伊に対し信義に悖る様なことがあっては、骸骨を乞うほかない」(矢部貞治「近衛文麿」)。
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5月8日
・夕刻、東條陸相・武藤軍務局長、米国参戦の場合の日本の態度についての検討を軍務課高級課員石井秋穂に命じる。
2日後の石井の報告は、日本の軍事力から見て三国同盟第3条に拘泥することなく情勢を傍観するのが良いとの内容。
東條・武藤共にこれに同感。
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5月8日
・初の肉なし日。食堂・肉屋の肉不売。
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5月9日
・仏印・タイ間平和条約調印(東京)。
仏、バッタンバン地域の一部を割譲。保障及政治的了解に関する日仏間および日・タイ間議定書調印(東京)。
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5月9日
・ロバート・スミス「アメリカより見た日米の衝突」、日本経済崩壊の危機に瀕するが如き叙述により発禁  
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5月9日
・イギリス軍、捕獲されたUボートより「ヒュードラ」海軍暗号入手
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5月10日
・ヒトラーの片腕・副総統ルドルフ・ヘス、メッサー・シュミット110Dでアウグスブルクを飛び立ち、スコットランドにパラシュート降下。
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5月10日
・ドイツ軍、ロンドンに最大の空襲。  
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5月10日
・ミハイロヴィチ・ユーゴ前参謀総長が率いるチェトニク・パルチザン、対ドイツ抵抗開始。
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5月10日
・パックボの第8回党中央委員会、ベトナム独立同盟会(ベトミン)結成を決議。
19日 結成。指導者はホー・チ・ミン。
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