2011年7月16日土曜日

明治7年(1874)12月1日~12月31日 福地源一郎(桜痴、34)、「東京日日新聞」社長となる [一葉2歳]

明治7年(1874)12月
・三島通庸、酒田県知事就任。
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・官金出納担当の島田組が破産。
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・馬場辰猪、イギリスより帰国。    
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12月1日
福地源一郎(桜痴、34)、条野伝平・西田伝助等に誘われ「東京日日新聞」社長となる

福地源一郎(桜痴):
長崎の医師の子として誕生。
幼時に漢学を学び、15歳から長崎で最も著名な蘭学者、和蘭陀大通辞、名村八右衛門について蘭学を修める。
福地は、極めて優秀な門弟で、名村は彼をその娘婿とするが、彼は才を誇って、同僚と衝突し、それがもとで離縁される。

その後、福地は上京し、父の知人の外国奉行水野筑後守の食客となり、幕府の英語通訳の頭取森山多吉郎について英語を学ぶ。
安政6年(19歳)、横浜が開港場となった際、通弁御用雇となり、後幕府通訳として横浜・江戸間を往来して次第に認められる。

文久元年(23歳)、京極能登守・松平石見守等が開港場問題の交渉にヨーロッパへ出かけた際には、通訳として福沢諭吉と共にこの使節の一行に同行。
文久3年帰国。
翌年、外国奉行柴田日向守についてフランス・イギリスに渡る。
その後、幕府の通弁をしながら、下谷二長町で塾を開いて英仏語を教える。

維新の上野戦争の際、薄い雑誌風の「江湖新聞」という木版新聞を発行。
大いに売れるが、官軍攻撃の文を書いたとして1ヶ月間投獄される。
新聞は潰れ、福地は、日新舎という名の塾を湯島に開く。
この時、福地を助けてフランス語を教え、塾頭となるのが中江兆民(篤介)。
福地の名声をしたい、多くの書生が集るが、福地が毎日のように吉原に入りぴたって、禄に授業をしないので、生徒たちは憤慨し、塾の仇や書物を売りはらって解散。

その後、福地は渋沢栄一の紹介で伊藤博文を知り、明治4年月給250円の大蔵省御雇となり、岩倉具視についてアメリカに渡り、銀行や公債や貨幣制度を研究して帰国。
次に、伊藤についてアメリカ~ヨーロッパ各地を廻り、6年7月に帰国(成島柳北と同じ頃)。
国立銀行設立等で大きな働きをするが、政府と意見を異にすることがあり、明治7年3月辞職。

条野伝平、西田伝助等は、以前に福地と共に「江湖新聞」を経営し、明治4年に「東京日日新聞」を発行。
条野は魯文の旧友の戯作家で、戯作の傍ら出版に携り、幾つかの新聞にも携わるが、いずれも成功している。

この年、「東京日日」は「民選議院設立建白書」を掲載して注目されている。
また、新聞記者は、貧乏書生や落塊士族や、しがない戯作者共の世を忍ぶ仕事と見られていたが、成島柳北(「朝野」)栗本鋤雲(「報知」)福地桜痴(「日日」)が新聞に入ったことで、新聞の重要さや企業としての収益の多さを世間に認めさせた。

この日から、「日日」は紙面を拡張し、「社説」欄を設け福地の意見を発表。
記者には、イギリス帰りの新知識人の末松謙澄がおり、自由党の若手の論客で「日新真事誌」記者大井憲太郎、「民選議院設立建自書」起草者で「報知」主筆古沢滋なども、匿名でこの新聞に寄稿。

しかし12月2日、紙上で「太政官記事印刷御用被申付候条此旨無相違候事東京府」という公達文を掲載。
福地は「日日」を官報にしたいと考え、公達文の掲載し御用新聞だと思われる。

「東京日日新聞」編輯長は岸田吟香
この頃、銀座の名物男と言われ、洋学者、新聞記者、薬屋主人であった。銀座2丁目の東側に住み、精綺水本舗という眼薬の店を営んでいた。
岡山県出身、蘭学の心得があり、安政6年(1859)25歳の頃、伝道のために来日したアメリカ人医師兼牧師ジェイムズ・カアティス・ヘボンの助手になり、和英辞典作成にも携る。
慶応3年、和英英和辞典「和英語林集成」が完成するが、日本には印刷技術がなく、上海でこの辞典を印刷。
この年、政府の調査要請を受け、法律顧問ボアソナードはこの和英辞典が立派なものであると保証したため、政府はこの辞書を2千部買い上げ、開成学校にこれを備えて学生や教授の用に供した。

辞書の完成は岸田の努力と学識によるところが大きく、ヘボンは礼の意味で、岸田に目薬の処方を与え、岸田はそれを精綺水と名づけて売り出す。
文士と売薬はつきもので、精綺水本舗の近くでは、その70年ほど前には、山東京伝が読書丸を売る店を営んでいる。

「台湾征討」では、岸田は、新聞記者の同行は許されず、御用商人大倉組の手代の名目で、軍用船に乗り、「台湾通信」と自筆の写生画を「日日」に発表、「日日新聞」は東京市民の評判となる。
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12月5日
・「東京曙新聞」、三島県知事の遊蕩ぶりや沼間権大書記官の取調べに対する酒田県旧県官・戸長の狼狽を伝える大森宗右衛門の記事を掲載。
28日、日新堂編輯長代理長谷川義孝は、この日付け「東京曙新聞」652号の記事について、人の栄誉を傷つけたとして讒謗律第1、4条により禁獄1ヶ月・罰金200円の刑を受ける。
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12月6日
・清国、同治帝、李鴻章に鉄甲船の購入を命ず  
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12月9日
・大久保ら清国談判への派遣員一同、天皇より慰労される。
また、この日、鹿児島から大久保の家族一同が上京。

「十二月九日、今朝伊地知子入来林子入来、

九字ヨリ皇居へ参昇、属国随行官員一同於学問所謁見被仰付、清国談判ニ付一同太儀之段勅語有之、難有御礼奉申上候、終而内侍所参拝神酒幣物ヲ賜ル、控所ニ退ク、錦三巻紅白縮緬四匹、宮内省山岡ヨリ拝領被仰付、随員へモ夫々賜り候、十一字比退出、税所、吉原同車川村氏へ参、金星経過一覧イタシ候、

今日彦之進、伸熊始母子一同着ノ由参、早々帰宅久々振面会安心イタシ侯、


今晩吉井子税所子大山子寺田子川村子等入来、祝盃ヲ傾候。」(大久保利通日記)

明治6年の政変を経て、清国との談判を終えたこの時期、鹿児島の家族を東京に呼び寄せたことは、大久保の郷里鹿児島(旧藩)との訣別、明治政府の官僚として生きる決意を示すものと推測できる。
新政府の官僚として働くうえでは、薩摩の利益代表ではいけないというその薩摩との絆を断ち切る意味合いを含んでいる。

大久保は、明治2年5月20日、それまで島義勇が住んでいた霞ヶ関の家に入居している。
当日の大久保の日記には「今日島五位旅宿移り替いたし候」(「大久保利通日記」)とある。

そして6月26日には、京都から妾ゆうとその家族が上京している。
「二十六日、無休日十字参朝、条公依召参殿、人撰等之コト御下問云々申上ル、

今日京師より家族着、吉井内田等入来」(「大久保利通日記」)
     
鹿児島の家族の上京を期に、妾ゆうとその子は別邸に、本妻と家族は本邸に住むことになる。

本邸は、明治2年以来、東京麹町三年町(現、霞ケ関、首相官邸附近)にあった。
明治8年初めから1年かけて、同じ場所に木造洋館を新築。
明治9年1月に入居する。また、同年4月19日には天皇がここを訪問している。

「親臨御達以来、一日モ天気雨ナク、実ニ天幸殊ニ今日万事御都合宜シク、大安心イタシ候、

鳴呼人生終世不可思議、我輩ノ家ニ親臨卜申ス事、夢タニモ見サルコトナリ、終身ノ面目ハ無申迄、子々孫々ニ至り天恩忘却ス可カラサルナリ」(「大久保利通日記」)

別邸は純和風の家で、明治8年を通して休日である「1と6の日」には機械的な正確さで大久保はこの別邸に赴いている。
また、この別邸にも五代友厚、黒田清隆、松方正義、税所篤等々はじめ、多くの友人達を招いての囲碁や接待を行い、かつての京都の隠宅と同じように、なかば内外に公然と公開していた。
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12月13日
・宮内省式部寮雅楽課伶人、海軍軍楽隊から洋楽を習う。
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12月15日
・参議内務卿大久保、清国談判で琉球が「幾分か我版図たる実跡」を得た、「清国との関係を一掃」する措置をとるべきとの伺書を正院に提出。  
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12月18日
・京橋・銀座・芝金杉橋間にガス灯がともされる
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12月19日
・伊藤博文、木戸孝允に手紙。大久保が大阪あたりで木戸と会談したい意向を伝える。
25日、木戸、これを承知。  
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12月19日
・植木枝盛(18)、民選議院設立建白を巡り起きる民選議院尚早非尚早論争を集め、馬城台二郎(大井憲太郎)の急進民権主義の立場から書かれた論説をふくむ「民選議院集説」を読む。
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12月24日
・大久保、木戸との会談を行うため横浜発。
26日、大阪入り。  
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12月24日
・中江兆民、文部省報告課御雇となる。明治政府仕官の第一歩。
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12月24日
・モスクワ音楽院長ニコライ・ルビンシティン、チャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番変ロ短調」を酷評。
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12月25日
・築地東京第一長老教会、クリスマス祝会。同日中村正直受洗。
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12月27日
・西郷従道、東京に帰着、復命。
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12月27日
・東京英語学校、東京外国語学校から独立。
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年末
・岩倉具視、維新以降の大勢を天皇に上陳。  
「未だ当初の聖意を対揚すること能わず」(政府の業績があがっていない)と自省し、
「なかんずく征蕃の挙、臣の首唱に係る、一旦功を奏すといえども、得るところ失うところを償うに足らず、臣の罪万々逃がるるところなきを知る、まさに別に罪を乞うものあらんとす」
(台湾出兵は大失敗であった、自分が「首唱」し「罪万々」であると謝罪)。

しかし、台湾出兵の真の「首唱」者は、大久保利通である。
この上陳は大久保が「罪万々」と名指していることと同じ。
大久保・岩倉間の亀裂はますます広がる。
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「明治年表インデックス」 をご参照下さい。
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