2011年7月30日土曜日

永禄6年(1563)8月4日~閏12月18日 家康、三河一向一揆と和議  [信長30歳]

永禄6年(1563)
8月4日
・毛利隆元(41)、佐々部(高田郡高宮町)に構えた自軍の陣所で急没。
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8月6日
・武田晴信、西上野在陣
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8月13日
・毛利元就、出雲白鹿城を攻め、小白鹿城を奪取。大森銀山の工夫を徴発し坑道を掘らせる。
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8月17日
・フランス、シャルル9世(13、1550~1574、位1560~1574)、「成人」に達したと宣言。統治は母カトリーヌに委任。
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8月23日
・朝倉義景、「秋十五番歌合」。判者老法師(三条西公条か柳原資定)、作者左右各5名の10名、会場は一乗谷朝倉館。
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8月25日
・三好長慶の嫡男義興(20)、病没(松永久秀による毒殺説あり)。
 家督は十河一存の子重存熊王丸(13)、義存のち義継と名乗る。
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9月
・上野国長野原の戦いで、大戸氏、真田幸隆(51)に降伏。  
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9月5日
三河一向一揆
家康家臣の菅沼定顕による上宮寺からの糧米強制徴発が発端(「守護不入の権利」侵害)。
上宮寺は一向宗寺にも檄を飛ばし農民門徒を蜂起させる。
これに、家康家臣で一向宗に帰依する一部武士門徒や反松平勢力が加わる。
三河統一目指す家康(23)には脅威。
10月末、家康、佐崎で三河一向一揆勢を撃破。
11月25日、家康、小豆坂で針崎の三河一向一揆勢を破る。
翌永禄7年2月和議成立。
条件は一揆加担者の本領没収しない、首謀者を殺さない、寺道場や信者・僧侶はもとのまま、というものだが、家康は寺道場を破却し、有力な僧侶を追放。

三河の矢作川デルタ地帯では、領国確立を目ざす松平(徳川)家康に対し、酒井・吉良・荒川などの国人領主と上宮寺・本宗寺・勝鬘寺・本証寺などの三河門徒の土豪・島民が惣国一揆的な連合のもとに蜂起。
蜂起の直接契機は、寺内町特権の侵害、夫役の徴発の問題。
家康家臣団は、家康と一揆側に分裂
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9月15日
・真田幸隆、岩櫃衆より起請文をとる。  
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9月18日
・井伊直平、家臣の飯尾則重により毒殺される。  
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9月23日
・尼子倫久、1万余を率い白鹿表に殺到。元就これを撃破。  
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10月
・武田信玄、西上野の盟主的存在である長野氏の箕輪城攻略開始。
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・信長、美濃稲葉山井口城攻撃に際し尾張国曼陀羅寺へ全5ヶ条の「禁制」を下す。
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10月13日
・真田幸隆(幸綱)、岩櫃城(群馬県東吾妻町)攻略。
6月、吾妻郡の鎌原氏と隣の三原荘の羽尾氏とが争う。
岩櫃城の斉藤憲広が羽尾氏を、真田幸綱が鎌原氏を支援。
幸綱は岩櫃城を調略開始、城主の甥弥三郎や海野兄弟の内応に成功、この日、城を急襲。
真田幸隆(幸綱)、岩櫃城城代として吾妻領支配に深く関与。
この後も幸綱の上野出陣は頻繁で、翌永禄7年5月には信玄の上野出陣に参陣。
その後、真田氏では、信綱が信濃先方衆として幸綱を継承、3男昌幸は信玄膝下の奥近習衆から侍大将となる。
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10月13日
・毛利軍、小高丸を急襲攻略。
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10月24日
・幕府、京都清水寺と本国寺との山木相論を裁許し、本国寺に安堵。
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10月29日
・毛利軍攻撃、尼子義久の白鹿(しらが、松江市法吉町)城開城。城将松田誠保、隠岐に逃れる。
富田城内に武器・兵糧搬入を図る尼子軍と弓ノ浜に戦い潰走させる。鉄砲隊200・水軍約100隻も参戦。  
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11月
・信長、美濃斎藤氏との戦闘中に織田側に内応する者が出たため長田弥右衛門尉へ「当知行」を安堵。
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・ヴェネツィア、ビアンカ・カッペロ(ヴェネツィア名家当主バルトロンメオ・カッペロ娘、後のトスカナ大公フランチェスコ・デ・メディチ側室)、ピエトロ・デ・ブオナヴェンチュリと駆け落ち。
ピアッツァ・サン・マルコのピエトロの実家に落ち延び、12月12日結婚。      
後、街でビアンカを見初めたフランチェスコはビアンカを愛人にして宮廷に住まわせる(公然たる側室)。
夫ピエトロも宮廷に住まわせ歳費と地位を与える。
また、1571年9月、ピエトロ父ゼノビオも貴族にする。
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11月6日
・トスカナ(フィレンツェ)大公コジモ・デ・メディチ長男フランチェスコと結婚するジョヴァンナ(皇帝マクシミリアン2世妹)、フィレンツェ入り。
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11月11日
・トリエント公会議、独身制堅持を宣言。
独身は結婚より高次の状態(司祭・修道士・修道女が有効な結婚ができるということは信仰に反する)。
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11月13日
・細川忠興、誕生(異説1564年1月13日)。  
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下旬
・武田信玄2万、高崎鳥川北岸倉賀野城攻撃。    
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12月
・信長、池田恒興へ、「扶助」分・「持分」・「家来者買得持分」を安堵。
尾張瀬戸へ「瀬戸物売買を保護する全3ヶ条の「制札」を下す(「加藤新右衛門氏所蔵文書」)。
尾張亀井山円福寺の熱田亀井覚阿弥へ、「買得田畠・屋敷」以下を末代まで安堵、「引得」分のうちで弟子に譲った分は「新儀諸役」・「理不尽使」を入れないと安堵(「張州雑志抄」)。
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・武田信玄、陣頭指揮をして上野倉賀野城・箕輪城を攻める  
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・江戸衆太田康資(北条氏重臣)、北条家を離反。    
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・トスカナ(フィレンツェ)大公コジモ・デ・メディチ長男フランチェスコ、ジョヴァンナ・ドオストリア(皇帝マクシミリアン2世妹)と結婚。
フィレンツェ宮廷の3勢力:
①ジョヴァンナ大公妃(フランチェスコ夫人):ハプスブルク皇帝派。エレオノーラ元大公妃側近が合流。
②カーミラ・デ・マルテッリ大皇后(コジモの再婚相手):フェルディナンド枢機卿(フランチェスコ弟)。
③フランチェスコ側室ビアンカとイザベッラ(フランチェスコ妹、ブラッチアーノ公妃。
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・フィレンツェ、アルビッツィ家の中で唯一メディチ家に荷担しているルイジ・ディ・メッセル・マーゾ・デッリ・アルビッツィ娘エレオノーラ、大公コジモの子を出産。
フランチェスコ大公妃ジョヴァンナは、義父コジモとエレオノーラ、夫フランチェスコとビアンカの不倫を兄マクシミリアン2世に訴える。
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12月2日
・三条西公条(右大臣)、没。
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12月3日
・毛利氏、石見銀山を朝廷・幕府に献上。
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12月4日
・トリエント公会議、閉会。
カトリック教会の改革を具体化した教令が採択。
秘跡(サクラメント)堅持。司教・司祭に担当地域での居住を強制。司教は2ヶ月以上司教区から離れることができない。司教の聖職の掛け持ち禁止。司教区毎に神学校を設立(聖職者の教育と育成を義務づけ)。司祭に毎週説教壇よりの説教を強制。
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12月16日
・上杉謙信、越後・府中を出て関東進発、沼田城に着く。
閏12月5日、厩橋着。  
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12月20日
・細川氏綱(室町幕府最後の管領)、山城淀城で没。  
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12月29日
・カルヴァンによりジュネーヴを追放(1544/7/22)されたセバスチャン・カステリョン、バーゼルで没。
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閏12月  
・武田晴信(信玄)、北条氏康と共に金山城を攻め、越年。
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閏12月1日
・松永久秀嫡男久通、従五位下・右衛門佐、叙任。
14日、久秀、久通に家督を譲る。
21日、久通、将軍家に対し家督相続を許された御礼言上のため上洛。
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閏12月9日
・丹羽長秀、笠覆寺に観音堂修理田を安堵。
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閏12月19日
・上杉謙信(34)、5度目の関東越山。
27日、上野和田城(群馬県高崎市高松町)を攻めようとしたところ、常陸の小田城(茨城県筑波郡筑波町小田)城主小田氏治が北条氏康と通じ謙信に背く。
この年も関東(上野厩橋)で年を越す。    
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「★織田信長インデックス」 をご参照下さい。
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