2011年7月16日土曜日

永井荷風年譜(12) 明治42年(1909)満30歳 新帰朝者として 「深川の唄」発表 「ふらんす物語」発禁

永井荷風年譜(12) 明治42年(1909)満30歳
1月
月初、「ふらんす物語」編集終了。
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父母と共に有楽座に行って上田敏、黒田清輝に出会う。
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巌谷小波に小山内薫を紹介される。
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「狐」を「中学世界」に、「祭の夜がたり」を「新潮」に、「カルチヱー、ラタンの一夜」を「太陽」に、「晩餐の後」を「趣味」に掲載。
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浜町不動新道の私娼・蔵田よしと親しむ(11月頃まで)。
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「今年から原稿料全額を貯蓄し五年間に千円ためて伊大利亜へ行ってヱスビヤスの火山へはいつて死にたい。兎に角今年からはつゞくだけ書く」
明治42年1日3日、井上唖々宛て手紙

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2月
「深川の唄」を「趣味」に掲載。
前年7月に帰国した荷風は、この年初めにかけて「ふらんす物語」に収める諸篇を書き、その間の1月には「狐」を発表。
「深川の唄」は、性急で浅薄な西洋模倣にすぎない日本文化を批判する一連の作品(「新帰朝者もの」)の第1作。

「四谷見付から築地両国行の電車に乗った。
別に何処へ行くと云ふ当もない。
船でも車でも、動いて居るものに乗って、身体を揺られるのが、自分には一種の快感を起させるからで。
これは紐育の高架鉄道、巴里の乗合馬車の屋根裏、セエヌの河船なぞで、何時とはなしに妙な習慣になってしまった。」

電車も茅場町あたりで停車し、やむなく歩き始める。

「自分は憤然として昔の深川を思返した。
幸ひ乗換の切符は手の中にある。
自分は浅間しい此の都会の中心から一飛びに深川へ行かう ---
深川へ逃げて行かうと云ふ押へられぬ欲望に迫(セ)められた。」

「数年前まで、自分が日本を去るまで、水の深川は久しい間、あらゆる自分の趣味、恍惚、悲しみ、悦びの感激を満足させてくれた処であった。
電車はまだ布設されてゐなかつたが既に其の頃から、東京市街の美観は散々に破壊されてゐた中で、河を越した彼の場末の一劃ばかりがわづに淋しく悲しい裏町の眺望の中に、衰残と零落との云尽し得ぬ純粋一致調和の美を味はして呉れたのである。」

「それ等の景色をば云ひ知れず美しく悲しく感じて、満腔の詩情を托した其頃の自分は若いものであった。
煩悶を知らなかった。
江戸趣味の恍惚のみに満足して、心は実に平和であった。
硯友社の芸術を立派なもの、新しいものだと思ってゐた。
近松や西鶴が残した文章で、如何なる感情の激動をも云尽し得るものと安心してゐた。
音波の動揺、色彩の濃淡、空気の軽重、そんな事は少しも自分の神経を刺戟しなかつた。
そんな事は芸術の範囲に入るべきものとは少しも予想しなかった。
日本は永久自分の住む処、日本語は永久自分の感情を自由に云ひ現して呉れるものだと信じて疑はなかつた。
自分は今、髯をはやし、洋服を着てゐる。
電気鉄道に乗って、鉄で出来た永代橋を渡るのだ。
時代の激変をどうして感ぜずにゐられやう。」

それから、深川不動尊の境内へ入っていく。
その境内で盲目の三味線ひきの歌沢節に耳をかたむける。

その三味線ひきは、
「江戸伝来の趣味性は九州の足軽風情が経営した俗悪蕉雑な「明治」と一致する事が出来ず、家産を失ふと共に盲目になった。
そして栄華の昔には酒落半分の理想であった芸に身を助けられる哀れな境遇に落ちたのであらう。」
と想像する。

そして、結び。
「自分はいつまでも、いつまでも、暮行くこの深川の夕日を浴び、迷信の霊境なる本堂の石垣の下に佇んで、歌沢の端唄を聴いてゐたいと思った。
永代橋を渡って帰って行くのが堪へられぬほど辛く思はれた。
いっそ、明治が生んだ江戸追慕の詩人斎藤緑雨の如く滅びてしまひたい様な気がした。
あゝ、然し、自分は遂に帰らねばなるまい
それが自分の運命だ、河を隔て堀割を越え坂を上つて遠く行く、大久保の森のかげ、自分の書斎の机にはワグナアの画像の下にニイチエの詩ザラツストラの一巻が開かれたまゝに自分を待ってゐる……」

この頃の作品
「曇天」「監獄署の裏」「祝盃」「歓楽」「新帰朝者日記」「冷笑」などは、「深川の唄」の延長線上にある。
「深川の唄」を軸として、荷風の江戸趣味-江戸文化への傾斜は強められ、深められて、それがやがて花柳小説へと移行していく。
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3月
「曇天」を「帝国文学」に、「監獄署の裏」を「早稲田文学」に発表。
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「ふらんす物語」を博文館より刊行。
届出と同時に27日付けで発売禁止処分

印刷が終わって製本に取りかかったところで発売禁止となる。
出来上がりかけていた「ふらんす物語」初版はすべて断裁されたが、ごく少部数が密かに持ち出されたという。
「幻の奇書」として闇で取引され、ごくたまに古書市場に出てきたときには、家一軒分ぐらいの値がついたそうだ。

どこが官憲に忌避されたのか。
おそらく、冒頭の小説「放蕩」ではないかといわれている。
それは、「欲情をそそる」ほどのものではないが、相当に「不道徳」「反国家」的である。
現在流通している「ふらんす物語」には「放蕩」はないが、「雲」と改題されて、巻頭でなく後ろの方に紛れ込んでいる。

「華盛頓に来ると、其の翌年に日露戦争が起つた。
けれども貞吉は自分で勇立ちたいと思ふほど、どうしても勇み立つ事が出来ない。

国家存亡ノ秋、不肖ノ身、任ヲ帯ビテ海外ニ在り……なぞと自分から其の境遇に、支那歴史的慷慨悲憤の色調を帯びさせやうとしても、事実は、差当り、国家の安危とは、直接の関係から甚だ遠かつた政府の一雇人に過ぎない。

毎日、朱摺の十三行卦紙へ、上役の人の作つた草稿と外務省公報を後生大事に清書する、暗号電報翻訳の手伝ひをするだけだ。
上役、先輩の人の口から聞かれる四辺の談話は、日清戦争講和当時の恩賃金や、旅費手当の事ばかり。
人が用をして居る最中に、古い官報や職員録を引張り出させて、身寄でも友達でもない人の過去つた十年昔の叙爵や叙勲の事ばかり議論して居る」

「貞吉は実際、自分ながら訳の分らぬ程、日本人を毛嫌ひしてゐる。

西洋に来たのを鬼の首でも取つたやうに得意がつて居る漫遊実業家、何の役にも立たぬ政府の視察員、天から虫の好かぬ陸軍の留学生。
彼等は、秘密を曝かれる懼れがないと見て、夜半酒場に出入し、醜業婦に戯れて居ながら、浅薄な観察で欧洲社会の腐敗を罵り、其の上句には狭い道徳観から古い武士道なぞを今更の如くゆかし気に云ひ囃す」
(以上、「放蕩」)

「酒に酔ひ女に戯るゝ事の愚なるは人巳に知れり。
されど其の愚なる事も極みに達すれば、又解すべからざる神秘を生ず。
われは実に、人の血には何故かゝる放蕩の念の宿れるかを、極むるに苦しむ」
(「橡の落葉・夜半の舞踏」)
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5月
「祝盃」を「中央公論」に、「春のおとづれ」を「新潮」に発表。
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7月
「歓楽」を「新小説」に、「牡丹の客」を「中央公論」に発表。
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8月
「花より雨に」を「秀才文壇」に掲載。
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「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい。
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