永井荷風年譜(11) 明治41年(1908)満29歳
1月
ユイスマンス、プールジエーなどを読む。
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2月1日
銀行(横浜正金銀行リヨン支店)辞職を決意し父と永井松三に手紙を送り、3日、支配人に辞職の意志を伝える。
「フランスに来てフランスの生活を見ると今更のやうにモオバツサンのいゝ処が分るので此頃は又々それを読返してゐる。
小説以外に全力を傾注してゐるのは音楽だ。外観的のオペラから進んで純音楽に入つた。自分はピアノもヰオロンも楽器は手にしないが毎夜必ずコンセールに出掛けて一時間位は音楽をきく事にして居る音楽の哲理に関する書物も一通は読んでしまつた」
(明治四十一年二月二日付、西村恵次郎宛)
フランスに居る荷風の喜び、そして放蕩の香りと
「ニューヨークで、高架鉄道や荷馬車の響で、気が狂ふかと思ふほど頭痛のしたのが、このバリーぢや、何処へ行っても女の笑ふ声にビオロンの優しい音色だ。
ニューヨークの絶望時代と今日の境遇とを比較して見給へ。僕は無限の感に打れるよ。
米国ぢや、ロングフェローの百年忌が来たと云っても、新聞紙は余白うづめに、誰でも知つて居る、珍しくもない肖像画を出す位が関の山だし、折角、革命の文豪ゴルギーの来遊があつても、くだらない道義的僻見で排斥して了ふしさ、欧洲の音楽史に一新期限を作つた『ザロメ』の如きオペラの演奏は、狭い宗教上の見地から禁止すると云ふ始末だ。
それが、どうだらう! 大西洋一ツ越した此のフランスでは、唯だ一人、若手の劇詩人が、新にアカデミーの会員に選ばれると云へば、全都、全国の新聞紙が全紙面を埋めて是れを是非する位ぢやないか。
ニューヨークの市街だと、古い大統領の銅像がたまさか、高架鉄道の架橋の下なぞに、塵だらけになって居るのが、このバリーに来ると、市中到る処に詩人画家学者の石像が道行く人を見下して居る」(「再会」)
「そもそも、私がフランス語を学ぼうと云ふ心掛けを起しましたのは、あゝ、モーパツサン先生よ。先生の文章を英語によらずして、原文のまゝに味ひたいと思つたからです。一字一句でも、先生が手づからお書きになった文字を、わが舌自らで、発音したいと思つたからです」
(「モーパツサンの石像を拝す」)
「巴里の、殊に斯うした化粧の上手な女の年ほど不可知なものは有るまい。
帽子の下から雲のやうに渦巻き出で、豊かに両の耳を蔽ふ髪の毛の黒いだけ、白粉した細面は抜けるやうに白いばかりか、近く見詰めると、その皮膚の滑かさは驚くほどで、眼の縁、口尻を験(しら)べても、まだ目につく様な小皺も線(すじ)もない。
とは云ふものゝ、やゝ落ちこけた其の頬の淋しさと、深い目の色には、久しくかうした浮浪の生活に、さまざまな苦労をしたらしいやつれが現はれて居た。
巴里の女は、決して年を取らないと云ふが、実際であると自分は思った。年のない女とはかゝるものを云ふのであらう」
(「羅典街(カルチエーラタン)の一夜」)
「フランスの女は外国で想像する程美人と云ふのぢやない、が、云ふに云はれぬ処に魔力があって鳥渡、料理屋か公園なんかで、何の気なしに話をする - 散歩する - 手を掘る ー 身体を摺寄せる - 凭(モタ)せ掛ける - 知らない中に引込まれてしまふのだ
(六行ほど省略)
だから、僕は決心した。一切、フランスに居る間は、女には手を出さぬ。何かの機合で思はれ慕はれでもしたら、僕はとても再び日本にや帰られなくなるかも知れんからね」
(「祭の夜がたり」)
「自分には、汚れがないと称される処女と云ふものは、如何に美しい容貌をして居ても、何等の感興を誘ふ力さへないが、妻、妾、情婦、もしくは其れ以上の経歴ある女と見れば、十人が十人、自分は必ず何かの妄想なしに過ぎ去る事が出来ない。」 (「祭の夜がたり」)
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3月5日
横浜正金銀行リヨン支店の解雇の命を受ける。
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3月20日
父より帰国命令が届く。「余は判断することかなわず」と言い、命に従って帰国することになる。
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3月28日
リヨン発、12時バリ着。
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3月30日
トゥーリエ街9番地オテル・スフロに移り、午後、モンソー公園にモーパッサンの像を見る。
以後、昼はリュキサンプルク美術館、ルーブル美術館、モンマルトルの墓地などを訪れ、夜はオデオン座、コンセール・ルージュ、カジノモンマルトルなどに入ってバリーとの別れを惜しむ。
この間、旧友瀧村立太郎、松本蒸治に誘われて上田敏を旅館に訪ねる。
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「巴里滞在は文学者として僕の生涯で一番幸福光栄ある時代であらう。僕もさう思つて目ざましく活動する覚悟であるが自分は折々云ふに云はれぬ寂寞を感じてやるせがない。
花の巴里の花のやうな女も美しいとは思ひながらもう馬鹿を演ずる気力の乏しくなった事には驚く」
(同四月十七日付、西村恵次郎宛)
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5月28日
パリを去り、夕方ロンドン着。
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5月30日
「讃岐丸」に乗船、帰国の途につく。
荷風の外遊経験の総括
外遊中は繁くオペラや演奏会に通い、それが『西洋音楽最近の傾向』『欧州歌劇の現状』などに実を結び、ヨーロッパのクラシック音楽の現状、知識やリヒャルト・シュトラウス、ドビュッシーなど近代音楽家を紹介した端緒とされ、我が国の音楽史に功績を残す。
荷風の確乎たる個性が確立される。
「明治以来、我国の文人で海外を旅行したものは数へ切れぬほどである。
しかし、芸術家としての生涯の決定的な時期に外国にゐた作家は恐らく永井氏一人なのではなからうか。」(中村光夫)
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7月15日
神戸に到着。、末弟威三郎と酒井晴次の出迎えを受け共に汽車で帰京。
井上精一(唖々)宛て手紙
「まだ下駄がよくはけないので浴衣でぶらぶら出かける事が出来ないので因ってゐる」
「当分親爺の手前をごまかす為めに役所か会社へ出やうかと思ってゐる」
(明治41年7月24日付)
「日中は書いて居るので其れ程でもないが夜が実にいやだよ。何だか年寄りになった様な気がしてならぬ。何を見ても淋しい気ばかりして狂熱が起つて来ない。
日本の空気ほど人を清浄ならしむる処はあるまい御釈迦様の国だよ」
(八月四日付け)
「僕も金の工面さへつけば一日も早く長屋でも借りたい下宿でもいゝ。場所は千束町か深川本所にしたいね。家にゐても大久保だと居候見たやうで居辛くていけない。少しは食ふに困つてもいゝからもつと堕落した生活がしたい」
(八月八日付け)
*8月
『あめりか物語』を博文館より刊行。
8月以後のちの『ふらんす物語』所収の短篇を「読売新聞」「新潮」「早稲田文学」「新小説」等に発表。
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8月30日
「欧米に於ける音楽会及びオペラ劇場(上)紐育につきて」(「読売新聞」。
以降、
9月13日「同(中)巴里につきて(一)」、
9月20日「同(下)巴里につきて(二)」掲載。のち、「ふらんす物語」に所収。
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9月
井上唖々と花柳界に足をふみ入れ、柳橋芸者・小勝(鈴木かつ)と馴染む。
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10月1日
「ADIEU(わかれ)(上)巴里に於ける最後の一日、(下)わが見しイギリス」(「新潮」)。のち「ふらんす物語」所収。
同日、「西洋音楽最近の傾向」(「早稲田文学」)
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11月1日
「蛇つかひ」(「早稲田文学)、
同日、「黄昏の地中海」「帰郷雑感」(「新潮」)掲載。
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11月20日夜
森鴎外を初めて訪問。
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12月22、23日
「仏蘭西観劇談(上)(下)」(「国民新聞」)。
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「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい。
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