2014年12月4日木曜日

昭和18年(1943)5月18日~31日 泊事件(7人検挙) 潜水艦によるキスカ島撤退作戦開始 フランス全国抵抗(レジスタンス)評議会結成 アッツ島玉砕(「他に策無きにあらざるも、武人の最後を汚さんことを慮る、英魂と共に突撃せん」)   

新宿御苑 2014-12-02
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昭和18年(1943)
5月18日
・日本美術報国会創立
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5月18日
・アメリカ第12空軍、パンテレリア島への空襲開始
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5月19日
・水先法戦時特例公布
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5月20日
・参謀本部、アッツ奪回を断念、キスカを含め撤退方針。
「大陸命第七百九十三号 
命令
一、北方軍司令官ハ海軍卜協同シ現ニ西部「アリューシャン」ニ在ル部隊ヲ後方地区ニ撤収スルニ努ムベシ 
二、細項ニ関シテハ参謀総長ヲシテ指示セシム」
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5月20日
・俘虜労務規則公布
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5月20日
・デトロイトで人種紛争。34人死亡。
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5月21日
・朝、山本五十六の遺骨を載んだ戦艦武蔵、木更津沖へ。
午後、.山本長官の戦死公表
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5月21日
・日本軍、キスカ守備隊撤収決定。
29日、連合艦隊、北方部隊と第2基地航空部隊に対し、陸軍と協同して機宜キスカ島撤収(「ケ」号作戦)を下命。
骨子は、「撤収には潜水艦を主用し、適宜、監視艇、特設艦船をもって中継収容を行う、海霧の状況、敵情等により駆逐艦等で撤収を行うことあり」というもの。
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5月22日
・中国、国共対立再燃
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5月22日
・参謀本部、アッツ島奪回断念。
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5月22日
・「中央公論」攻撃。
陸軍報道部、「中央公論」6月号の岸田国士戯曲「かへらじと」を取り上げ、非難。陸軍報道部長名義で、公式絶縁状を中央公論社編集部宛に送り、同編集委員の報道部への立ち入りを禁止。
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5月23日
・「山本神社が長岡に建つ由。
「国を負いて、い向うきわみ千万の、軍なれども言挙はせじ」
言挙(ことあ)げのみしている陸軍はこれを何と見るか。山本〔五十六。四月十八日戦死、元帥追贈〕に対する人気は、また海軍に対する人気を表徴するものである。
『読売』に中井良太郎という陸軍中将が、日本は直ちに「兵力戦に指導をこめよ」といっている。「軍令は国民に通ぜぬというような自由主義的な憲法論を排し、この軍令の中から、総力戦下国民の指導をせよ」と論ずる。現在ほど軍隊的指揮をしている時代はない。それでなおいけないというならば、その内在的本質に弱点があるのではないか - しかしこの人には絶対にさような反省はない。
我らの知った人で、頭のいい米国通が政府の顧問役をつとめたものはない。いずれも結論を先に有している人である。それでは情勢の正しい見通しは出来ない。その選択が大東亜戦争最大の弱点だ。
米国陸軍予算七百十八億ドル、海軍予算二百九十四億ドルが下院通過。その内空軍費は陸二百三十六億ドル、海四十五億ドル。
米の反米活動の抑〔?〕留者 - 日本人二一九九人、ドイツ一七一五、イタリア人二四二である。日本人が在留者数の割に多きことを知るに足る。」(清沢『暗黒日記』)
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5月23日
・ボンベイ、インド共産党第1回大会が開催
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5月24日
・中学生以上の学徒の勤労動員決定
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5月24日
・「『中央公論』の小説「細雪」(谷崎潤一郎)は評判のものだったが、掲載を中止した。「決戦段階たる現下の諸要請よりみて、あるいは好ましからざる影響あるやを省み、この点遺憾にたえず」と社告にある(六月号)。
山本元帥の死は非常なショックであった。しかし近頃のラジオと新聞のように、朝夕、繰返していられると少しウンザリする。近頃の指導者たちはサイコロジーを知らぬ。もっとも一般国民にはその方がいいのか。
小汀利得のところへ本を見に行く。本道楽だけになかなかいい本がある。ステーツマンス・エアー(ママ)・ブックの如きは一九〇〇年度頃よりほとんど備わっている。個人のライブラリーとしては最も完備したものの一つだ。
統帥権に発して統帥権の解決に終る。我らは形式論者ではない。しかし形式の必要なことは時代と共に移ることを得ない国において特に然り。統帥権問題の如きはそれだ。
モラールの問題だ。日本は全く行詰ったのだ。
内務省の役人がグルグル変る。僕らは一生かかっても、一つの問題が分らぬ。この連中に分るのか?
リスボンからの電報はローゼヴェルトがスターリンに宛ててシベリアの航空基地を借りることを申し出たといっている。ベルリン電報もさようなことを臭わしたが、ドイツの宣伝であろう。日本人の無知、これに乗る恐れあり。あるいは日本人自身の宣伝かも知れぬ。大島〔浩、駐独大使〕に初めて、対ソ戦争を望む分子が多いから。」(清沢『暗黒日記』)
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5月24日
・ドイツ海軍、「大西洋の戦い」を打ち切る。この月のUボートの損失は43隻。
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5月25日
・「国際関係研究会で昨日乾精末君〔法博、外務省嘱託〕が世界新秩序案を読んだ。それは東亜共栄圏を中心にした世界新秩序案である。あまり各方面から感心されなかったようだ。というのは、事態が困難だからだ。世界の開放を求めるのはいいが、それならば東亜において各族(ママ)の独立を認めることが出来るか。例えば朝鮮人が人民投票した結果、独立を欲するといえば如何。
左翼主義はそれでも研究をした。歴史研究にしても未踏の地に足を入れた。唯物的立場から。しかるに右翼に至ては全く何らの研究もない。彼らは世界文化に一物をも加えない。」(清沢『暗黒日記』)
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5月26日
・泊事件。
細川嘉六と富山県泊町で清遊した7人、共産党再建謀議の容疑で検挙。木村亨(中公)、加藤政治(東洋経済新報/S31/7.没)、小野康人(「改造」編集者、S34/1/5.没)、相川博(改造、/S21/11.没)、西尾忠四郎(S20/7/27.没、満鉄)。横浜事件。編集者50人検挙。獄死2・出獄後死亡1・傷害32。
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5月26日
・大日本興亜同盟、興亜総本部に改称
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5月26日
・後藤文夫、国務大臣に就任。
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5月26日
・砂鉱法戦時特例公布
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5月26日
・アメリカ、スミス・コナサー反ストライキ法制定。
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5月27日
・潜水艦によるキスカ島撤退作戦開始。古宇田武郎第1潜水戦隊司令官指揮。
~6月23日、潜水艦被害続出のため中止。収容872名。
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5月27日
・「朝ゴルフの練習に行く。
事務所に行って、小林一三氏と逢う。東電史打合せのため大阪に行くことにす。三宅〔晴輝〕君と共に。多分四、五両日。
古賀〔峯一〕大将(連合艦隊司令官)に手紙を書く。激励のためである。
食堂などの配給が本年秋にはなくなるだろうと笠原清明〔甥)いう。然かあらん。
露国の革命は食物飢饉から来た。ドイツの第一次大戦も然り。もし日本に同じ運命が来たらば、暴動が起らぬという保障があろうか。どうせ革命的変動は免れぬ。
時局雑誌に野村重臣という男が僕の外交史が米英の見解を述べているといい、国内の思想闘争を展開しなくてはならぬという。かれは何故に、どこが否であるかを指摘しないのだ。かれの観方が正しいという証明はどこにあるか。僕の見方が純日本的だといえば、それは観方の相違ではないか。問題は、かれのイデオロギーを以てして日本を偉大にするか。戦争の責任者はこの輩である。しかし右翼はなお当分必ずはびこるであろう。ああ。」(清沢『暗黒日記』)
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5月27日
・米、戦時動員局が設立
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5月27日
・フランス、全国抵抗(レジスタンス)評議会結成
レジスタンス諸団体統合(南部3団体・北部5組織・6政党)。ジャン・ムーラン初代議長。
6月21日、ジャン・ムーランはドイツ軍に逮捕され、拷問・殺害。ムーランの死後、ジョルジュ・ビドーを議長に選出、ド・ゴールから独立した機関であることを明確化して行く。
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5月27日
・『ティピカル(象徴)』作戦(英のチトー援助使節団派遣作戦)
イギリス軍将校の一群がパルチザンと接触のためユーゴに降下
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5月28日
・駐蒙軍司令官に上月良夫中将(21期)就任
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5月29日
・飯島與志雄「憂憤十年」、支那事変の前途に対する悲観的記述であるとして発禁
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5月30日
・アッツ島玉砕。捕虜29人除き全滅。日本戦死2,500、米戦死550、戦傷1,140、凍傷戦闘不能1,500。

山崎大佐は残存兵力150を率い夜襲を行なうことにし、刻々と北方軍司令官あてに最後の打電。
「野戦病院収容中の傷病者はそれぞれ最後の覚悟を決め、処置するところあり 非戦闘員たる軍属は各自兵器を執り、陸海員とも一隊を編成、攻撃隊後方を前進せしむ 共に生きて捕虜の辱めを受けざるよう覚悟せしめたり」
「他に策無きにあらざるも、武人の最後を汚さんことを慮る、英魂と共に突撃せん」
「五月二十九日決行する当地区隊夜襲の効果をなるべく速かに偵察せられたし、とくに後藤平、雀ヶ丘付近」。
参謀本部は、参謀総長・陸相名で、「今や最後の関頭に立ち、毅然たる決意と堂々たる部署の報に接し、合掌して感謝す・・・必ずや諸子の仇を復し、屈敵に邁進せん」と返電。
山崎大佐は午後9時15分、「機密書類全部焼却、これにて無線機破壊処分す」のー電を最後に、連絡を絶つ。
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5月30日
・ド・ゴール、ジローの本拠地アルジェ(フランス領アルジェリア首都)を訪問。ド・ゴールの民軍指揮権の政府従属などの要求を拒否。アルジェ総督ベイルートンはド・ゴールに辞表提出。

6月3日、ド・ゴールとジロー双方を主席として創設の「国民解放委員会」は自らがフランス中央政府であることを確認(ド・ゴールの意志が通る)。ド・ゴールも妥協し、北西アフリカ旧ヴィシー派への深い追求をせず(現地旧ヴィシー派は戦後に至るまで勢力を保つ)。
軍事面ではド・ゴールの「自由フランス軍」とジロー手持ち兵力「北アフリカ・フランス軍」が統一され、新たに「フランス軍第1歩兵師団」及び「第2機甲師団」が編成。ド・ゴールの「自由フランス軍」としての募兵は7月終了。
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5月30日
・~6月11日。シチリア侵攻に先立ち、パンテレリア島の要塞が激しい艦砲射撃ののちに奪取
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5月31日
・第10回御前会議、「大東亜政略指導大綱」決定。
ビルマ・フィリピンのみ形式的独立、マレー・スマトラ・ボルネオ・セレベス・ジャワは資源供給地として日本に編入。末尾で大東亜会議開催を唱う。「本年十月下旬頃(比島独立後)大東亜各国ノ指導者ヲ東京ニ参集セシメ牢固タル戦争完遂ノ決意卜大東亜共栄圏ノ確立トヲ中外ニ宣明ス」。
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5月31日
・「今夜は森島守人君〔駐ポルトガル大使〕の令嬢の結婚式だ。
昨日、アッツ島の日本軍が玉砕した旨の放送があった。午后五時大本営発表だ。今朝の新聞でみると、最後には百数十名しか残らず、負傷者は自決し、健康者は突撃して死んだという。これが軍関係でなければ、こうした疑問が起って社会の問題となったろう。
第一、谷萩報道部長の放送によると、同部隊長山崎保代大佐は一兵の援助をも乞わなかったという。しからば何故に本部は進んでこれに援兵を送らなかったか。
第二、敵の行動は分っていたはずだ。アラスカの完備の如きは特に然り。しからば何故にこれに対する善後処置をせず、孤立無援のままにして置いたか。
第三、軍隊の勇壮無比なることが、世界に冠絶していればいるほど、その全滅は作戦上の失敗になるのではないか。
第四、作戦に対する批判が全くないことが、その反省が皆無になり、したがってあらゆる失敗が行われるわけではないか。
第五、次にくるものはキスカだ。ここに一ケ師団ぐらいのものがいるといわれる。玉砕主義は、この人々の生命をも奪うであろう。それが国家のためにいいのであるか。この点も今後必ず問題になろう。もっとも一般民衆にはそんな事は疑問にはならないかも知れぬ。ああ、暗愚なる大衆!
英労働党、共産党の加盟を十五対二葉で拒絶す。これが、自由主義は共産党の温床だという考え方といかなる関係を示すか。
軍神を多く出きしむるなかれ。山崎部隊長、山本元帥、佐久間艇長、ハワイ九軍神、いずれも悲劇ならざるはない。それは戦いの劇(はげ)しさを示す。」(清沢『暗黒日記』)
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