(『朝日新聞』2014-12-20言語空間を考える 拡散する排外主義)
77年生まれ。文化学園大学助教。専門は社会思想・政治学。著書に「永続敗戦論」「『物質』の蜂起をめざして」、共著に「日本劣化論」
「日本人は12歳の少年のようなものだ」。占領軍の総司令官だったマッカーサーは米国へ帰国後、こう言いました。では戦後69年を迎えたいまの日本人は、いったい何歳なのでしょうか。
このところの「日本人の名誉」「日本の誇り」を声高に言い立てるヒステリックな言論状況をみていると、成長するどころか退行し、「イヤイヤ期」と呼ばれる第1次反抗期を生きているのではないかという感じを覚えます。
中国や韓国は文句ばかりで生意気だからイヤ。米国も最近は冷たいからイヤ。批判する人はみんなイヤ。自分はなんにも悪くない---。どうしてこんなに「子ども」になってしまったのか。戦後日本が、敗戦を「なかったこと」にし続けてきたことが根本的な要因だと思います。
■欠けた敗戦感覚
日本の戦後は、敵国から一転、庇護者となった米国に付き従うことによって、平和と繁栄を享受する一方、アジア諸国との和解をなおざりにしてきました。多くの日本人の主観において、日本は戦争に「敗けた」のではなく、戦争は「終わった」ことになった。ただし、そうした感覚を持てたのは、冷戦構造と、近隣諸国の経済発展が遅れていたからです。
冷戦が崩壊し、日本の戦争責任を問う声が高まると、日本は被害者意識をこじらせていきます。悪いのは日本だけじゃないのに、なぜ何度も謝らなければならないのかと。対外的な戦争責任に向き合えない根源には、対内的な責任、つまり、でたらめな国策を遂行した指導層の責任を、自分たちの手で裁かなかった事実があります。
責任問題の「一丁目一番地」でごまかしをやったのだから、他の責任に向き合えるわけがありません。ドイツはいまも謝り続けることによって、欧州のリーダーとして認められるようになりました。それのみが失地回復の途であることを、彼らはよくわかっているのです。
1990年代には、河野談話や村山談話のように、過去と向き合う動きもありました。ところがいまの自民党の中には、来年、戦後70年の首相談話を出すことで、河野談話を骨抜きにしようという向きもあるようです。
河野談話の核心は、慰安婦制度が国家・軍の組織的な関与によって女性の尊厳を踏みにじる行為であったことを認め、反省と謝罪を表明した点にあります。この核心を否定するのか。ここまで来たら、やってみたらいかがですか。「内輪の論理」がどこまで通用するのか、試してみたらいい。
国際社会は保育園ではありません。敗戦の意味を引き受けられず、自己正当化ばかりしていると、軽蔑されるだけです。
■「内輪」脱すべき
「子ども」を成熟に導くには本来、メディアの役割が重要です。しかし残念ながらいま大方が「子ども」相手の商売に精を出している。「嫌中・嫌韓」本が多く出版され、テレビは「日本人はすごい」をアピールする番組を山ほどつくっています。
メディアの非力さは、権力との関係でも露呈しています。新聞社やテレビ局の幹部が、首相とたびたび会食しているのはおかしい。民主制にとって決定的に重要なのは公開性です。そのような常識を、日本の政治家は欠いているのではないか。だから記者は政治家と個人的関係を築いて情報を得ようとし、「内輪」のサークルが出来あがる。
衆院選投開票日の報道番組で、安倍首相がキャスターの質問に色をなして反論し、イヤホンを外すという一幕がありました。一国の最高権力者が、これほど批判への耐性が弱いことに驚きますが、裏を返せば、それだけメディアが首相を甘やかしてきたということでしょう。日本の政治にとってもジャーナリズムにとっても善悪でしかない、いびつな「内輪」文化を変えるべきです。
日本は、戦後を通して「大人」になり損ねてしまった。先進近代国家になったつもりだったけれど、社会の内実はゆがんでいたという苦い事実をまずは正視するしかありません。それができないのなら、もう一度「敗戦」するしかないでしょう。
(聞き手 論説委員・高橋純子)
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