2014年12月31日水曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(7) 「4 深川と深川の間」 (その1) 「四谷見付から築地両国行の電車に乗った。別に何処へ行くと云ふ当もない。船でも車でも、動いて居るものに乗って、身体を揺られるのが、自分には一種の快感を起させるからで。」(『深川の唄』)

江戸城(皇居)二の丸庭園 2014-12-24
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4 深川と深川の間

深川、洲崎、『夢の女』
 「荷風の好きな土地といえば、晩年の彼から浅草を想いうかべる人がすくなくあるまい。・・・が、その生涯を通じて彼がパリの次に最も愛したのは、深川といっていけなければ隅田川以東 - げんざいの墨田区から江東区の一円にかけてではなかったろうか。」

 「『日和下駄』に《市中の散歩は子供の時から好きであった。》とのべられている一節があるように、荷風の散策には趣味の域を越えて、生来彼の嗜好にかなったものがあったことを看(み)のがしてはなるまい。」

 「ついに人間を愛することのできなかった彼も、市中の景況 ー 人間が住むことによって成立する陋巷のたたずまいは愛してやまなかった。町々もたえず変貌して、彼を裏切りつづけたことでは女性とえらぶところがなかったのにもかかわらず、次々と女性を棄てたのに反して、好きな町々はけっして見棄てなかった。それが、パリであり、浅草であり、吉原や玉の井であった。」

 「文末に、《甲戊》すなわち昭和九年《十二月記》と書きとめられてある散策記『元八まん』には、《三十幾年のむかし、洲崎の遊里に留連したころ》後年の東陽公園のあたりまであるいたことを記した一節がある。」

 「・・・まだ部屋住みの身であった彼が《遊里に留連》できるほどの金を所持していた時といえば、金港堂から創刊された直後の「文芸界」の懸賞に応募した『地獄の花』が入選とはならなかったものの、三十五年九月に同社から出版されて七十五円の稿料を入手した折と考えるのが妥当だろう。白米一升が十五銭弱の時代の七十五円である。翌三十六年五月に新声社(のちの新潮社)から書きおろし出版された『夢の女』の主要部分は、その《留連》の間に獲た見聞の所産にちがいない。」

洲崎の暴風雨や海嘯
 「荷風は前掲の引用につづいて『濹東綺譚』のなかで、『夢の女』に言及している。
《曾て、(明治三十五六年の頃)わたくしは深川洲崎遊廓の娼妓を主題にして小説をつくつた事があるが、その時これを読んだ友人から、「洲崎遊廓の生活を描写するのに、八九月頃の暴風雨や海嘯(つなみ)のことを写さないのは杜撰(づさん)の甚しいものだ。作者先生のお通ひなすつた甲子(きのえね)楼の時計台が吹倒されたのも一度や二度のことではなからう。」と言はれた。背景の描写を精細にするには季節と天候とにも注意しなければならない。例へばラフカヂオ、ハーン先生の名著チタ或はユーマの如くに。》」

 「広津柳浪に接近し、さらに清国人羅臥雲の紹介で巌谷小波の木曜会員となったのは明治三十二年初冬のことである。そして、木曜会月のなかでは押川春浪、生田葵山(きざん)、西村渚山(しよざん)と親交をもったから、『夢の女』に評言をくわえた《友人》というのは、荷風のかよった青楼の屋号まで知っていたところから考えて、井上唖々でなければ、右の三人のうちの誰かだったろう。」

 「洲崎遊廓は、本郷根津にあった遊廓が深川区弁天町 - げんざいの東陽一丁目の埋立地へ明治二十一年に移転したものだから、『夢の女』が書かれたころまでにはまだ十五年しか経過していない。その間に《甲子楼の時計台が吹倒されたのも一度や二度のことではなか》ったとすれば、どんな立地条件であったか、およその見当はつくはずである。『夢の女』執筆の時期と時間的な至近距離にある明治三十七年版の『深川区全図』をみると、弁天町の南は海、東は弁天町より若干せまい洲崎養魚所、西は埋立地という荒涼たる環境だから、その埋立地をげんざいの夢の島の小規模なものだと想像しても、《暴風雨や海嘯》のすさまじさがしのばれる。」

 「売春防止法が実施されて、中央通りをバスが走るようになったげんざいの東陽一丁目という一廓と、明治三十七年 - 荷風が 『夢の女』を書いたのとほぼ同時期の洲崎遊廓とは、その面積、地形、ならびに道路区割に関するかぎり、正確に符合するといっても決して過言とはならぬほど一敦している。」

渡米以前の作品は習作期の延長にすぎない
 「明治三十五年四月の『野心』、六月の『闇の叫び』、九月の『地獄の花』、十月の『新任知事』、翌三十六年五月の『夢の女』、七月の翻案『恋と刃』、九月の『女優ナゝ』などがゾラの影響下に書かれた系列の作品だが、私は一応という但し書きをつけた上で、この時期をまだ荷風の習作期の延長、すくなくとも後年の荷風がなかったら、全集に収録されたり、後世の論者に取り上げられたりするほどのものであるかを疑う。」

 「それが一転して、確乎たる個性が確立されるのは、『あめりか物語』、『ふらんす物語』の年代 - すなわち明治三十六年九月の渡米以後である。

《明治以来、我国の文人で海外を旅行したものは数へ切れぬほどである。しかし、芸術家としての生涯の決定的な時期に外国にゐた作家は恐らく永井氏一人なのではなからうか。》

昭和初年代に書かれた中村光夫のことばだが、たしかにこの外遊は荷風の文人としての性格を決定づけている。」

 「こんど眼をとおした小門勝二の『永井荷風の生涯』には在米時代の荷風の恋人であったイデス Edyth Girard の実在を否定するかのような文辞が四五、六七、八三ページの三ヵ所にみられる。」

 「『ふらんす物語』におさめられている『雲』(『放蕩』の改題)・・・。イデスが実在の人物であれば、『雲』のなかでイデスに擬せられているアアマがあれほど理想化されることはあるまいというのが、私の考え方の第一の薄弱な根拠である。・・・荷風は愛に燃え、恋におぼれるといったタイプの人間だとは考えられないので、イデスとの交情にはどこか彼らしからぬものが感じられる。ひょっとすると、渡米に八ヵ月先立って辱知を得た森鴎外の『舞姫』を読んだはての妄想ではなかったのか。それが、第一の場合よりさらに薄弱な私の第二の根拠である。」

 「イデスの実在を肯定している太田三郎も『永井荷風』(『近代日本の文豪2』所収)のなかで、《東洋の男は娼婦の世界でも低くみられる。白人の女の愛をうることは、たとえ相手が娼婦であろうと、当時日本人としては到底考えられないものである。》といっている。荷風は巨漢といっていい身長の持ち主であったにしろ、ジャップとさげすまれた日本人が、まして日露戦争前後という時代背景を考慮に入れるとき、『西遊日誌抄』に書かれているほどモテたのだろうかというゲスな考え方も私にはあって、・・・」

アメリカ、フランスでの海外生活をはさんだ二つの深川の間には、どれほど大きな相違があったろうか
 「明治四十一年七月に帰国した荷風は、その年から翌年はじめにかけて『ふらんす物語』におさめられた諸篇を書きついで、その間に『狐』を発表しているが、当時の性急で浅薄な西洋模倣にあけくれていた日本文化を痛烈に批判した一連の諸作をかりに「新帰朝者もの」と呼ぶとすれば、その第一作が二月号の「趣味」に掲載された『深川の唄』にほかならない。すなわち、《深川遊廓の娼妓を主題にし》たとみずからいう『夢の女』をのこして外遊の途についた彼は、帰朝後の新生面を『深川の唄』によってきりひらいたのである。深川と深川の間 - アメリカ、フランスでの海外生活をはさんだ二つの深川の間には、どれほど大きな相違があったろうか。そこに、永井壮吉としてではなく、永井荷風としての外遊のほんとうの意味があった。ここでは、その意味を追ってみたい。」

 「『深川の唄』発表までには、帰国後すでに半歳のときが経過していたのにもかかわらず、荷風はまだ外遊中の生理状態から完全には離脱しきっていなかった模様である。

《四谷見付から築地両国行の電車に乗った。別に何処へ行くと云ふ当もない。船でも車でも、動いて居るものに乗って、身体を揺られるのが、自分には一種の快感を起させるからで。これは紐育の高架鉄道、巴里の乗合馬車の屋根裏、セエヌの河船なぞで、何時とはなしに妙な習慣になってしまった。》

『深川の唄』は、こんなふうに書き出されている。海外生活の延長であることが、あきらかに意識されている文章である。同時に読者に対しても、当時としては自身がかなり特異な体験をもつ人物だという注意を喚起している。・・・」
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