2014年12月27日土曜日

明治38年(1905)2月 平出修「詩歌の骨髄とは何ぞや」「昨年の文芸界」(「明星」2月号) 夏目漱石「吾輩は猫である」(続編)(「ホトトギス」):漱石は日露戦争をどう見ていたか? トロツキー(25歳)密かにキエフに滞在

半蔵濠 2014-12-26
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明治38年(1905)
2月
・谷中村民、自費で破堤所の復旧工事開始。遊水池化を阻止した利島・川辺両村は義捐人夫を送る。完成まもなく、8月の出水で決壊。
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・平出修「詩歌の骨髄とは何ぞや」(「明星」2月号)
与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」を巡り大町桂月との論争になり、鉄幹と共に新詩社を代表して桂月を訪れ、1時間半にわたる論談の結果、桂月の論理の矛盾を指摘し論破。(「1月」の項に既述)
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・平出修「昨年の文芸界」(「明星」2月号)
尚、平出修は、「明星」3月号から「明星」への寄稿で平出露花から本名の平出修に変える。

平出は昨年の文芸界を、
「国家侵略史上より観察すれば、明治三十七年は実に光彩ある一年なりき。而して之を文芸発達史上より観察すれば果して如何」(『定本平出修集』一巻)
と書き出し、劇界における小維新、小活動、小希望を認めたほか、「三十七年の文壇は実に萎靡沈衰を極めしと云ふに就いて誰しも異論なき所ならむ」と観察し、その理由として日露戦争をあげ、
「一国の気勢悉く戦争に趁(はし)り、戦争より云へば閑事業たる文芸の如きは漸く度外視され、加ふるに財界の緊縮論は心霊上の作物を冷遇するの状況を呈し、陸に海に、戦は連勝連勝の好果を収めたれども、文芸上の産物は絶無とも云ふべき姿にて又一年を終りぬ。」
と、総論的、また結論的に述べている。

そして「三十七年の文壇は悪傾向を以て充たされぬ」の内容として次のように分析する。
「第一は戦争文学の鼓吹(際物文学の鼓吹)
第二は国民文学鼓吹の声
第三は家庭小説と名づけるものの流行
第四は脚本化した小説の流行(唯一の主観小説『水彩画家』(島崎藤村作)を抱き得るのみ)
第五は評論の蕪雑なる事
第六は翻訳文学の堕落」
などを分類して論証し、その最後に、
「若し夫れ昨年の文界に於て喜ぶべき現象を求めば、僅に一部泣菫(薄田)、有明(蒲原)二氏等少数者の新体詩と、新詩社一派の短歌及新体詩との益々好発展を為し来れるにあり。而して是等は今の評論家と多数の韻文作家との知らざる所、吾人は別に稿を改めて論ずるの機会あるべし。」
と結ぶ。
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・夏目漱石「吾輩は猫である」(続編、実質的には(二))(「ホトトギス」)
漱石は日露戦争をどう見ていたか?

〇主人の中学校教師狆野苦沙弥(ちんのくしやみ)を訪れた教え子の水島寒月が「御閑なら御一所に散歩でもしませう。旅順が落ちたので市中は大変な景気ですよ」と誘うが、主人は旅順陥落よりも、寒月の話の中に出て来た「女連(おんなづれ)の身元を聞きたいと云ふ顔で」ためらっている。
その後、ようやく決心して立ち上がるが、あまり乗り気ではない。

〇翌日の日記でも、

「寒月と、根津、上野、池の端、神田辺を散歩。池の端の待合の前で芸者が裾模様の春着をきて羽根をついて居た。衣装は美しいが顔は頗(すこぶ)るまづい。何となくうちの猫に似てた。」

と書くだけで、日露戦争には触れていない。

〇主人に宛てた迷亭の年始状
古代のローマ人は日に二度も三度も宴会を開いたが、食後には必ず入浴し、そのあと食べたものをすべて嘔吐して「贅沢と衛生とを両立」させる秘法を案出していたと述べ、次のように主張する。

廿世紀(にじつせいき)の今日交通の頻繁、宴会の増加は申す迄もなく。軍国多事征露の第二年とも相成候折柄、吾人戦勝国の国民は、是非羅馬人に倣って此入浴嘔吐の術を研究せざるべからざる機会に到着致し候事と自信致候。左もなくば切角の大国民も近き将来に於て悉く大兄の如く胃病患者と相成る事と窃かに心痛罷りあり候

日本人が戦勝に浮かれ、「贅沢」な宴会を重ねていることを諷刺している。

〇迷亭の母からの手紙
主人の家を訪れた迷亭が、静岡から来た母の手紙のことを話す。

御前なんぞは実に仕合せ者だ。露西亜と戦争が始まって若い人達が大変な辛苦をして御国の為に働らいて居るのに節季師走でもお正月の様に気楽に遊んで居ると書いてある。
- 僕はこれでも母の思ってる様に遊んぢや居ないやね - 其あとへ以て来て、僕の小学校時代の朋友で今度の戦争に出て死んだり負傷したものゝ名前が列挙してあるのさ。其名前を一々読んだ時には何だか世の中が味気なくなって人間もつまらないと云ふ気が起ったよ。

〇迷亭は、その手紙を読んで人間の無常をしみじみと感じ、散歩に出たとき「首懸の松」を見て死のうと決心しするが、用事を思い出していったん帰宅し、再びやってくると、すでに首をくくっている人がいて、自分はくくりそこなったと語る。
日露戦争の死傷者の増加を知る漱石の暗い感慨がにじんでいる。
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・延岡為子、平民社賄方として入社。
彼女の常太郎が堺利彦のファンで、『萬朝報』の頃から彼の文章を愛読していたという。
その後、常太郎が購読する『平民新聞』を読み始めた為子は、平民社の温かい雰囲気に惹かれて、裏方募集の広告を見ると居でも立ってもいられず、2月上旬に上京(『中央公論』1933年3月号)。以後、文子と為子は平民社に住みこんで社員の世話をすることになった。当時、為子は最初の夫とは離婚していて、文子より10歳年上だった。
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・田岡嶺雲ら「天鼓」創刊。
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・法隆寺再建論争開始。
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・トロツキー(25)、ウィーンから密かにロシアに戻りキエフに滞在。
3,4月、ペテルブルク滞在。
5月、フィンランドに身を隠し、その地で永続革命論を仕上げる。

ウィーン、ロシア人亡命者の波がロシア帰国へと逆流し、オーストリア社会民主党ヴィクトル・アドラーは金・パスポート・隠れ家手配で多忙。トロツキーの妻は先に帰国し、キエフでアパートを探す。
キエフ、トロツキー、ボルシェヴィキ中央委員クラーシンの協力で一連のビラを印刷。クラーシンよりペテルブルクの隠れ家を教わり、ペテルブルクに向う。
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・ドイツ領東アフリカ(現タンザニア本土部)、中央鉄道建設開始(1914完成)。
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