2014年12月24日水曜日

寛治7年(1093) 出羽国で平師妙・師季が反乱 白河上皇、諸国の荘園乱立制止を内大臣藤原師通に諮問 源義鋼、陸奥守に就任 久我源氏の進出。 「左右大臣、左右大将、源氏同時に相並ぶ例、いまだこの事あらず。」(『中右記』)

ロウバイ 2014-12-24 江戸城(皇居)東御苑
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寛治7年(1093)
この年
・出羽国で平師妙・師季が反乱。
隣国国司源義綱に追討命令が出る。
義綱の郎党藤別当が師妙を討ち取る。
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・ウェールズ、デハイバース王リース・アプ・テウドル、没(位1078~1093)。
没後、ノルマンディ人がウェールズ侵略(従来の3辺境伯 + 南西ウェールズ)、カーディガン・ペンブルック地域が征服。1094年以降、ウェールズ人が反撃、1098年までに失地回復。
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・ノルウェー王マグヌス3世(20、裸足王)、即位(1073~1103、位1093~1103)。
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・ハインリヒ4世息子(イタリア王)コンラート(19)、謀反。
教皇ウルバヌス2世、コンラートを対立国王に擁立。
「イタリア王」戴冠式をモンツァ大聖堂で挙行。
ハインリヒ4世後妻プラセーデ(プラクセーディス、ロシア皇女)、義理の息子コンラートを追って出奔、カノッサ城に迎え入れられる。ハインリヒ4世の家族崩壊。 
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・コンラート、シチリア伯ロゲリウス(ロジェ)1世娘コンスタンツェ(12)と結婚。ハインリヒ4世後妻プラセーデ(ロシア皇女)、絶望してロシアに帰国、修道院で余生を送る。
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・ホーエンシュタウフェン家シュヴァーベン大公フリードリヒ次男コンラート、誕生(1093~1152、対立王1127~1135、ドイツ王(ホーエンシュタウフェン朝開始)1138~1152)。
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・ミラノ、ローディ、ピアチェンツァ、クレモナ、中世最初の都市同盟「ロンバルディア都市同盟」結成。
ハインリヒ4世、結成阻止に失敗。
教皇ウルバヌス2世、ミラノ大司教座確保(ドイツで多数の司教が教皇側に変節、地位が急速に改善)。
ハインリヒ4世、四方を敵に囲まれヴェローナ近傍の城に釘付け。ドイツ への道も、南ドイツ反対派に閉ざされる。
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・ビアンドゥラーテ、コンスル制成立。
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・シチリア伯ロゲリウス(ロジェ)1世(62)、長男シモン誕生。
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1月
・文章生高橋国棟を越前大掾に任じる。
春、藤井武国を越前少掾に任じる。
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2月3日
・篤子内親王、堀河天皇の皇后(中宮)となる。
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2月14日
・未刻に大地震あり。
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3月3日
・白河上皇、諸国の荘園乱立制止を内大臣藤原師通に諮問。
「頭弁来たりて云う、院宣に日く、諸国に荘園溢満す。制止せんと思し食す、如何。又延久応徳寛治元年等、停止せらるべき歟。内々に尋ね仰せらるるところなり。余申して云う、尤も候うべきの事なり。仗儀に於て定め申さるべき歟。この旨を以て奏せしむ。頭弁云う、更に相叶べからずと云々。余云う、その事如何。国司蜜々に皆実に立てらるるところなり。嘲哢極りなし」(「後二条師通記」同日条)。
白河院の荘園政策。
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3月6日
・アンセルム(60)、カンタベリ大司教就任(1033~1109、位1093~1109)。
イタリア北部アオスタの谷の貴族の家に誕生。
1059年ベネディクトゥス派修道士となり、ノルマンディのル・ベック僧院に入り、院長ランフランクに師事、後、院長として神学を講じる。
ウィリアム2世に招かれてカンタベリ大司教(1093)。グレゴリウス改革の支持者で王の教会に対する干渉に反対、王と対立し一時国内に亡命。次のヘンリー1世とも争うが、王が譲歩、後はよき補佐者となる。
思想史上の意義は、従来信仰すれば足りるとされてきたキリスト教教義の論理的な証明を試み、スコラ学成立を準備した点(「信じる以上、理解せねばならない」)。
「クール・デウス・ホモ(なぜ神は人となったか)」「プロスロギオン」「聖母の受胎について」。主な拠り所はアウグスティヌス、プラトンの影響もある。
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3月11日
・高陽院中宮御方にて蹴鞠。若狭守藤原行綱が参加。
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3月26日
・地震あり。
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4月21日
・源義家。陸奥の馬を貢進。
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4月27日
・高陽院などにて競馬。若狭守藤原行綱が仕皷を務める。
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5月2日
・地震あり。
14日、春日山震動する。
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5月9日
・賀茂下社競馬。越前守清実が鼓を務める(「中右記」)。
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8月18日
・大雨、洪水。
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8月26日
・興福寺領近江国市荘に濫妨した近江守高階為家の所従2人を越前に配流。
(もう一つの説明)
近江の春日社領を国守高階為家の郎等が荒らし、神人を禁獄。
興福寺、為家流罪要求、春日社の神輿奉じ入京、藤原氏院の勧学院に居座る。
為家、土佐国配流。子の為遠、阿波守解任。
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10月
・源義鋼、陸奥守に就任。父頼義、兄義家に続いて。前任の藤原基家が任国で没したための後任人事。
この頃、奥羽地方は再び風雲急を告げていた。
前年には藤原清衡に挙兵の動きがあるとの報があり、出羽国では豪族平師妙らが受領藤原信明を襲撃し、国衙を焼いて財宝を奪う事件が発生していた。
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・教会分離(シスマ)終了
教皇ウルバヌス2世、ローマ帰還。
対立教皇クレメンス3世、ラヴェンナの自分の教区(ラヴェンナ大司教区)に戻る(対立教皇在位1084~1100)。
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10月4日
・地震あり。
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10月9日
・ [北宋の元祐8年9月16日]哲宗(17)の親政開始。
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10月12日
・大江匡房、冷泉天皇の奇行を記す(「江記」寛治7年10月12日条)。
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10月13日
・フランドル伯ロベール1世(ル・フリゾン)、没(位1071~1093)。ロベール2世(エルサレムのロベール)、単独統治(位1093~1111)。
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11月3日
・興福寺衆徒、金峯山を襲う。
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11月13日
・スコットランド王マルカム3世(1031?~ 1093、位1058~1093、19代)、5度目のイングランド侵入。
ノーサンバーランド・アニク城の攻略。
マルカム3世戦死。マルカム3世弟ドナルド3世ベイン(60、1033頃~ 1097、位1093~1094、1094~1097、20代、22代)が後継(長男ダンカンはイングランドに人質)。
ドナルド、父ダンカン1世がマクベスに殺害された時、ヘブリディーズ諸島に避難、ケルト的慣習を身につける。
マルカム3世・王妃マーガレット(47)の急速なイングランド化に対する反動。
16日、マーガレット、エジンバラで病没。 
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11月4日
・地震あり。20日にも。
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12月
・源義綱、村上源氏の当主、源俊房の左大将就任の慶賀の参内の際に前駆を努める。
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12月4日
・カンタベリ大司教アンセルム、国王に没収された財産の返還を要求。王の任命した司教団は国王を支持。
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12月27日
・久我源氏の進出。
「左右大臣、左右大将、源氏同時に相並ぶ例、いまだこの事あらず。今年、春日御社頻に恠異、興福寺大衆乱逆す。もしくはこれこの微たるか。しかのみならず大納言五人の中三人已に源氏、六衛府督五人已に源氏、七弁の中四人なり。他門まことに希有の例あり、藤氏のため甚だ懼あるの故か」(「中右記」同日条)。
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