北の丸公園 2014-12-19
*昭和18年(1943)
6月22日
・イギリス・コマンド部隊のクレタ島襲撃(~7月12日)
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6月22日
・「一昨日、小汀利得に招かれて歌舞伎を見た。小汀は芝居を見ると泣けて仕方がないそうだ。かれほどのファイターはないのに、この一面あり。ファイターとは情熱漢のことである。
伊藤正徳が、いつか不愉快なのは徳富蘇峰、武藤貞一、斎藤忠といった如き鼠輩(そはい)が威張り廻していることだといった。
今朝の『読売』で武藤は会沢正志〔斎〕(水戸藩)を論じて徳川のキリスタン禁宗を讃美し、またキリスト教排撃をやっている。これは軍に対する便乗のためか、それともかれの本心か。とにかく、今度の戦争が、思想に出発し、思想を中心に動いて来たことは明らかだ。
今朝の発表で元帥に永野〔修身〕海軍大将、寺内寿一、杉山元がなった旨発表された。海一、陸二だ。永野を先に発表したのも、東条の遠慮からではあるまいか。戦争も終らない内に、こうした昇進は、果して民心にどう影響するだろうか。(順序は永野大将九年三ケ月、寺内七年八ケ月、杉山は六年八ケ月のためだ)〔( )内は後日の追記か〕
今日で独ソ戦がちょうど二ケ年になった。第二次大戦は三ケ年十ケ月である。
大阪の「京阪」と「急行」と合併。両者の競争があれだけの発達をなさしめたのであるが今後は果してどうなるか。」(清沢『暗黒日記』)
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6月23日
・~27日、インパール侵攻作戦兵棋演習、ラングーンののビルマ方面軍司令部。第15軍参謀長久野村桃代少将説明。大本営第2課(作戦)竹田宮少佐・南方主任参謀近藤少佐、南方軍総参謀副長稲田正純少将、中永太郎方面軍参謀長、第3航空軍(シンガポール)高級参謀佐藤直大佐ら。
26日夜、第15軍司令官牟田口中将、竹田宮少佐にインパール作戦認可懇請、不完全な後方補給では不可と明確に回答。
27日、兵棋演習終了。ビルマ方面軍中参謀長・南方軍稲田参謀副長共に研究修正要と講評。
第15軍の計画は、インド東北部のインパールを攻略し、その付近にビルマ防衛線を進める目的で、3個師団を3方面から分進させる。弓第33師団は南から突進、祭第15師団は東北から策応し、包囲の形で攻撃。烈第31師団は北のコヒマを占拠して、アッサムへの道を遮断し、インパールを孤立させる。
最大の問題とされる後方補給についての研究はなく、輸送機関・渡河作業部隊・弾薬その他軍需品の集積についての基本事項を示すだけ。
講評では、ビルマ方面軍中参謀長は、大きな難点として、軍主力をインパール以北に向け、特に北のコヒマに烈の1個師団全部を使うのは適当でない、烈は、一部をコヒマにまわすだけにして主力は軍予備隊として残しておくべきと指摘。稲田副長は、インパール攻撃の主力は南から持って行くべきという事と、補給面で計画を根本から否定し、研究修正しなければ許可をしがたいと結論。
兵棋演習の結論として、牟田口計画は不備不確実で、方面軍や総軍の意図に反するとされるが、作戦そのものが否定された訳でなく、計画は拙速として否定され、実行可能の改革を要求される。
インパール作戦の必要は認められ、総軍は、この事情を大本営に伝え、準備を促す事になる。
この為、稲田副長が東京に派遣される(7月12日~1週間)。
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6月23日
・イギリス、ユーゴのティトー派パルチザン支持決定。
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6月24日
・「地中海方面危機。ドイツ兵イタリーに向う旨『朝日』報ず。
石川達三、中川龍二両氏とゴルフをなす。
信州南安曇郡辺では今春、犬を全部殺しその皮を軍に献納した。
医者は皆保険医で、その代価は村役場からとる由。すなわち患者が病気になれば、医者はかれに投薬ないしは注射す。その代価は村役場に請求するが、そこで値段を鑑定し、適当な値段を交附す。したがって医者の請求するだけを払うのではない。そして誰もその保健会員であり、支払いは租税に応じて出すのだ。
これらの中心は翼賛壮年団だ。高田甚市氏〔長野県人〕のところへ壮年団が来て、レコードや本で米英的なものは全部出せといった。さすがに「どれがいけないのか」といって一部を保留した由。鋼鉄は、仏壇の灯明まで出した由。土橋〔荘三、松本市の衣料問屋、冽の親戚〕のところでは五百貫も出したとか。
いずれも実話である。老人連中は「行きすぎだ」と批難するが、どうにも仕方がない。青年団の勢力かくの如し。特に信州の青年は、かつて「赤」化しただけに、その行動は徹底的である。智慧がないだけだ。ここから革命までは一歩のみ。
『中央公論』本月不発刊の旨広告す。先頃の陸軍省への出入差止めと関係あらん。
読売の高橋〔雄豺〕君と日本クラブに逢う。武藤貞一のことをいうと人気がなかなかあり、新聞政策としてはよいといっていた。「インテリには人気が悪いがね」と。彼の文章だけは全部検閲する由。しからばすなわち官許である。」(清沢『暗黒日記』)
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6月25日
・閣議、「学徒戦時動員体制確立要綱」決定、勤労動員命令により学徒は学業を中止して軍需生産に従事することを規定、戦争末期~敗戦迄、約300万人動員
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6月25日
・元帝大教授河合栄治郎、大審院で罰金300円確定
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6月25日
・「土洲病院で脚気の注射をなし、浅草オペラ館にゆく。新舞踊「土橋の雨」上演禁止となる。「近年軍人政府のなす所を見るに、ことの大小を問わず愚劣野卑にして国家的品位を保つもの殆どなし」(永井荷風『断腸亭日乗』)
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6月25日
・ドイツ『ザイトリッツ』作戦(ドロゴジブ周辺のソ連パルチザン掃討作戦)
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6月26日
・石油専売戦時特例、企業整備資金措置法公布
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6月26日
・大本営政府連合会議、「フィリピン島独立指導要綱」決定。
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6月26日
・アメリカ、スミス・コナリー法、議会で可決。ストライキの事前通告義務を定め、実質的にストライキを制限。
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6月27日
・チャンドラ・ボース、ビハリ・ボース、シンガポール入り。
7月4日インド独立連盟大会。
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6月27日
・「翼政会より中野正剛、鳩山一郎、白鳥敏夫等脱会。一時、好まなかった中野、鳩山等も参加せざるを得なかった空気だったのに、今はそれも不思議でなくなった。
不思議なのは「空気」であり、「勢い」である。米国にもそうした「勢」があるが、日本のものは特に統一的である。この勢が危険である。あらゆる誤謬がこのために侵されるおそれがある。
国際関係研究会で石橋君が広域圏の問題を講演した。高橋亀吉、芦田均、有田八郎その他発言。僕も議論した一人。
晩は二六会に出席。
中央公論社は(嶋中君の話しではないが)編輯者が休職になったそうだ。軍報道部のいい分というものを聞くと、『中央公論』は十の力を持っているのに五分の力しかいれていない、これはなお、自由主義の残滓があるからである。あくまで顧みる必要があるというのである。そこで全部できていた雑誌を止して、自粛の意を示し、八月再出版にしたのだそうだ。鹿子木〔員信〕とか、その一派が書かされないので、それが怪しからぬとされ憤慨、三木清とか、谷崎なんかを養って置くではないかと突かかる由。要するに御馳走をしないからだと勝本〔清一郎〕君はいった。そして乗取ってしまいたい底意であるという。
内務省や、情報局はむしろ好意を有しているが、陸軍報道部一つの所存であるそうだ。少佐か中佐かが、言論の自由、文筆人の生活を左右できるのだ。」(清沢『暗黒日記』)
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6月29日
・朝鮮石炭配給統制令公布
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6月29日
・侍従武官城英一郎大佐、航空本部総務部長大西瀧治郎中将に体当たり攻撃進言、大西中将、拒否
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6月30日
・「租界還付及び治外法権撤廃等に関する日華協定」を王精衛政権と調印。日本優位の不平等条約を改正し、上海・鼓浪嶼・専管租界の還付を実施
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6月30日
・独立混成第4、第6旅団主力を基幹として第62師団編成、第1軍に編入
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6月30日
・カートホイール作戦開始。ソロモン(ハルゼー)/ニューギニア(マッカーサー)正面北上。
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6月30日
・ニューギニア、アメリカ第158歩兵連隊、キリウィナ島上陸。第112騎兵連隊、ウッドラーク島上陸。第162連隊第1大隊(3個中隊770人)、ニューギニア南東ナッソウ湾上陸。
キリウィナ、ウッドラーク両島(計1万6800上陸)には日本軍がいないことはわかっており、北部ソロモソ、ラバウル攻撃の為の飛行場建設が目的。ウッドラークで7月14日、キリウィナで7月末、飛行場完成。結局殆ど利用されず、マッカーサー軍の反攻第1作戦はセメントの浪費に終る。
ナッソウへは、7月4日迄に後続部隊、連隊長アーチポルド・マケニー大佐も上陸し、第15、17オーストラリア旅団と協力して、サラモアに進む体制を整える。
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6月30日
・アメリカ太平洋方面最高司令官ウィリアム・ハルゼー大将麾下の部隊(ジョン・へスター少将の第43歩兵師団の第172、103連隊、第9海兵防禦大隊)、ニュージョージア島沖ニュージョージア・ムンダ飛行場対岸レンドバ島上陸。レンドバ守備は陸海軍計130足らずのみ。
第11航空艦隊司令長官草鹿中将は、ブーゲンビル島ブインに司令部を進め、その日の内に3回、戦闘機72、陸攻26、艦爆8で攻撃するが、31機を失う。
古賀連合艦隊司令長官は、トラックの第2航空戦隊(酒巻宗孝少将)の全兵力、戦闘機48、艦燥36、艦攻18をプインに派遣。
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6月30日
・ムンダの「八連特」(太田實少将)、陸戦に関し陸軍南東支隊(佐々木登少将)の指揮下に入る。太田少将は、海上輸送・海岸防備のみ指揮に限定される。
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6月30日
・ドイツ連絡飛行のキ77、福生飛行場を飛び立つ
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6月30日
・東條英機首相、タイ・シンガポール・ジャカルタ・フィリピン歴訪。~7月12日。大東亜会議の根回しと占領地行政にある司令官・参謀慰労の為。
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6月30日
・「昨日、妻と軽井沢に来る。一日中、例によって家の中を取り片づく。一ケ月以前に来た時は、まだ若葉なりき、いま満目深緑に満つ。
本日は午前は『東洋経済』に社論を書き、午后ゴルフを遊ぶ。このゴルフ場を提供せしむる運動、長野県壮年団にあり。労力不足が悩みならずや。この草原をとりて、彼らはいかにして生産せんとするや。売名か、赤化か。
国民学術協会の哲学講演会を取り止む。右は広告に中央公論社へ申込むべき旨を書いてあり、それが陸軍報道部へ投書したるものあるやにて烈火の如く怒っている由。右計画は一週間続けて、哲学の講義をなすはずにて、すでに百余名の申込みありし由なり。その講師の中に京都大学の某講師(西田哲学の一人〕あり、また三木晴もその一人なり。それが不埒だというのである。
嶋中君の話しによると、結局鹿子木、野村重臣等に書かせないのが悪いというにあり。八月からは内容を全く一変する由。今まで売れ過ぎたから、売れない雑誌をつくる。海軍は同情するが、いま陸と衝突すれば雑誌そのものの運命にもかかわるから、海軍には遠慮せず、陸の気に入るように雑誌を作れといっている由。七月の雑誌を休刊した影響がなかなか大きく、それがかえって彼らを硬化せしめたらしい。社長を変えるのもその一つの目的らしいが、もしそういう場合にならば、自爆すると、嶋中君は決意を語っている。」(清沢『暗黒日記』)
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6月30日
・ポーランド、国内軍司令官グロト・ロヴェツキ、ゲシュタポに逮捕。のち、ワルシャワ蜂起中に銃殺
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