2014年12月27日土曜日

中国で拘束後に帰国、父の半生 本に 戦後スパイも 戦争の犠牲者 (東京新聞) : 深谷敏雄 『日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族』(集英社)

東京新聞
中国で拘束後に帰国、父の半生 本に 戦後スパイも 戦争の犠牲者    
2014年12月27日 夕刊

戦時中、日本軍のスパイとして中国で暗躍し、戦後も十三年間任務を続けた男性がいる。深谷(ふかたに)義治さん(99)。一九五八年、中国当局に逮捕され、拘束は二十年に及んだ。今月、その半生をまとめた本が出版された。執筆したのは次男の敏雄さん(66)。それは家族にとっても重く長い日々だった。 (森本智之)

『日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族』(集英社)。陸軍憲兵だった義治さんは四〇年、極秘任務を命じられ中国人商人に成り済ました。現地女性と結婚して上海を拠点に活動。ニセ札を大量に製造して敵に打撃を与え、二十七歳の若さで叙勲を受けた。

人生を変えたのは「戦後も任務を続行せよ」との命令だった。戦後スパイは国際法違反。逮捕後、戦時中のスパイは認めたが、戦後のことは「国に汚名を着せてしまう」と否認した。獄中の苛酷な生活で背骨が折れ、身長は十センチ縮んだ。左目も失明したが、罪は認めなかった。情報をやりとりした相手が誰なのか、いまだに不明だ。逮捕当時、次男の敏雄さんは十歳。父が日本人であることすら知らなかった。妻と四人の子は、国を裏切ったスパイの家族として徹底的な差別と貧困を味わった。

七八年、日中平和友好条約締結を機にようやく釈放され、一家は父の故郷・島根県大田市へ。だが、満足な恩給もなく、父は体が不自由なまま。帰国の一週間後には子どもたちは働き始めた。三十歳になっていた敏雄さんは勉強のため作業着の袖に日本語を書き込み、工場に通った。

島根、京都、広島で、タクシーの運転手や自動車工場の作業員として働いてきた敏雄さんが執筆を思い立ったのは十年前。父が倒れたことがきっかけだった。

帰国の十カ月前に亡くなった母と再会できなかったことを義治さんは悔い、「岸壁の母」をよく口ずさんでいた。いま、故郷を離れて広島市内で入院し、家族の呼び掛けにもほとんど反応はない。日本のために命を懸けながら報われない父の人生を形に残してあげたい、と思った。

郊外の市営アパートで、拘束中の日記などを基に書き始めた。だが、言葉の壁は厚い。市内の公民館の日本語教室を順に訪ねボランティアの先生に添削を頼みこんだ。作業の途中で断られることも多く「広島じゅうの公民館に行った」。

一文字ずつ刻み付けるような作業は六年続いた。広島生まれの一人娘の富美子さん(24)は「最初は文法や単語に間違いがあって、ほとんど理解できなかった。こんな日が来るとは思わなかった」と涙ぐんだ。

開高健ノンフィクション賞の事務局に規定の三倍もの分量の作品が届いたのは今年二月だった。原稿用紙約九百枚。選考に漏れたが、担当者は「世に出すべき内容」と直感した。それが、この作品だった。

敏雄さんは「父を恨んだことはない。だって父は戦争の犠牲者だから」と、たどたどしい日本語で話した。来年は戦後七十年。そのことを問うと「父は日本に戻ってから、お母さんに会えないと泣いた。そんなお母さんがいっぱい出るのが戦争。父のような悲惨な運命をつくり出す戦争は、二度といけない」と言った。
日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族
日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族


1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

驚きの話、是非読んでみたい。