スイセンとカンツバキ 2014-12-26 清水門周辺
*『ゴヤ』(54)「宮廷画家・ゴヤ」(1)
1789年1月17日、カルロス4世及び王妃マリア・ルイーサの戴冠式
「カルロス四世及び王妃マリア・ルイーサの戴冠式は一七八九年一月一七日、トレドの大聖堂で行われた。・・・王は四一歳、王妃は三八歳である。成婚後二五年日である。彼らは生涯に一四人の子をもったが、育ったのは六人だけであった。そのなかに、生涯にわたって父母を憎み通し、一八〇八年には父に退位をせまって大混乱のうちに、後にフェルナンド七世となる皇太子がいた。
一月一七日は厳寒時にもかかわらず、朝からマドリードの町は沸きかえっていた。新王とその王妃が午後遅く、夕刻に近い時間にマドリード入りをするからである。」
「この夜は、王宮はもとより、あらゆる貴族、大ブルジョアジーの邸館は光耀まばゆいばかりに内外ともに火が入り、花火が打ち上げられた。花火師はイタリアから呼ばれた。音楽家も足りなかったのでイタリアとフランスから呼び寄せられた。
一般民衆もまた負けじとばかり、広場で街頭で踊りまくった。
人々は朝日が昇ってもまだまだ踊りつづける。
明る日は、この一大祝典の余興に、闘牛大会がひらかれ、プエルタ・デル・ソル(太陽門)の広場では絞首刑が行われた。死刑は大きな祝典にはつきものであった。」
ゴヤはかせぎにかせいだ
「ゴヤは、その名で三点ずつの王と王妃の像を描かされた・・・。合計で六点。・・・
注文は、例によってオスーナ公爵家、それからこれも大貴族の一人であるカンポマネス伯爵家、国防省の三つからうけていた。おそらくこれ以上のものは断ったものであろう。画料は・・・、この際の収入合計で、一万七〇〇〇レアール。今日の国際通貨であるドルになおして、大体のところで四五〇〇ドル。ゴヤの宮廷の仕事のための年収は一万五〇〇〇レアール。三七五〇ドル。
この頃のマドリードで中流の上くらいの生活をするとして、年収一万二〇〇〇レアールくらいあれば充分だったのであるから、かせぎにかせいだというわけである。「ぼくの金貨にカビが生えているという噂」がたつのも無理からぬ次第である。」
ゴヤ『カルロス四世像』
「ところで、これらの王と王妃の肖像画である。王は金糸銀糸で刺繍をされたまばゆいばかりのものを着て、靴のバックルにはダイヤモンドが光り、右手には王杖を握り、左の腰に剣をさげている。
四一歳の青年王としてはいささか老けすぎているかに思われるが、さすがに王者としての満々たる自信を秘めてにこやかに微笑を浮べている。少々肥りすぎているとしても、それは王の威をそこなうほどではない。」
ゴヤ『マリア・ルイーサ像』
「しかし、そういう円満な王の像と並べて掲げねばならぬ王妃マリア・ルイーサは、と言えば、これはもう、どうにも、困る。
その顔は - と書いて行くべきところなのだが、それは顔などというものではない、この王妃の内面の、譎詐、強慾、嫉妬、あくなき性慾などがまるで一枚の布を裏返したかのようにして出ていて、ちょっと正視に耐えない代物である。
このゴヤの見た地獄女と、二〇年前にメングスによって描かれた、一八歳のときの彼女とを比べてみれば、この女性の内と外とに、如何なる頽廃が起ったものであるかは一目瞭然である。彼女は一三歳のときにカルロスと結婚したものであったが、いかにメングスが宮廷人にへつらうことがうまかったにしても、まったく似ても似つかぬものを描くわけがない。
おまけに彼女のまといつけている衣裳とくれば、まず帽子であるが、これはもう高さ半メートルはあるであろう。マドリード滞在のフランス大使の主要な任務の一つは、事あるごとに王妃から法外な金をとってパリから流行のモード、香水から靴、下着・・・、要するに何から何まで全部を、外交用行李で急送することであった。そういうふうにして送られて来た豪華な衣裳を着てある舞踏会に出て来た王妃と、つねに張り合い、敵対関係にさえあったアルバ公爵夫人が、あるときの舞踏会の翌日に、同じ衣裳を二〇着もつくらせてこれをアルバ家の衣裳係や女中などに着せて町中をねり歩かせたなどという莫迦げた話まであった。」
「ところでこの王妃肖像のうち一つは、誰が見てもベラスケスの、あの極美な王女マルガリータの、横ひろがりのフープ(腰枠)に支えられた、銀とピンク、それに銀の色に下から映えているブルーのドレスの、それの首から上だけをすげかえたものである。違うところは、相も変らずマリー・アントアネット風の半メートル帽子をかぶり放しにしているだけである。この帽子は、エデンの花園を表現したものだそうで、蜜蜂籠までがくっついているという。頭の上で”蜜と乳が流れ”ているという次第。
ベラスケスの王女は、描かれたときはわずかに六歳の少女なのである。六歳の少女に似合うものが、三八歳の色気狂いの大年増に似合うわけがない。首から下はベラスケスのマルガリータで、頭の上はマリー・アントアネットである。それに、見る人の誰もが、必ずベラスケスの画面を連想しながら見るにきまっているのである。それは、ゴヤにとって、おれにもベラスケス程度のことは出来るのだぞ、ということを誇示するによい機会であったかもしれないが、描かれた王妃には、まことに災難であった、と言うべきか。王妃がもしこの肖像を見たならば、ベラスケスのドレスに突っ込まれた自分の首を見てなんと言ったものか……。
傍若無人なことをしたものである。
やり方が、この王妃と同じくらいに野卑である。」
「カルロス四世は立派な男だ」(ナポレオン)
「人としてのカルロス四世は、善良で、信心深く、かつ愚鈍な男であった。
「カルロス四世は立派な男だ。彼は率直で善良な家長の風格をもっているが、これは彼の地位のせいかそれとも状況がそうあらしめているのか、私にはわからない。」
という、何を言っているのかよくわからぬ、歯切れのわるい反応はナポレオンのものである。・・・
・・・一八〇八年五月に皇帝ナポレオンの命によって、王妃、ゴドイ、息子のフェルナンドともどもにバイヨンヌヘ呼びつけられ、スペイン王国とその王冠の運命が危殆に瀕しているのに、ナポレオンに問われるままに、王はのんびりと、しかもまことに「率直に」、いや悲劇的なまでに率直に、彼のスペイン王国統治法を次のように語ったものである。
「毎朝、天候がどうあろうが、冬でも夏でも、私は朝飯を食べてからベッドを出て、ミサを聞き、それから午後一時まで狩猟に行きます。昼食後、もう一ペん猟場に戻って日の暮れまで鉄砲打ちです。夜になると、マヌエル(ゴドイ)がやって来て、政務がうまく行っているかどうかを告げてくれます。それから床に入って、朝になれば、また狩りに行きます。何か重要な儀典でもあって王宮にとどまっていなければならぬ日は別ですが……。」
これでは ー これが王のスペイン王国統治法だとすれば、ナポレオンにしても「率直で善良な家長」とでも言わなければ他に言い様もなかったであろう。
・・・ナポレオンは、あいた口がふさがらなかったであろう。」
「またナポレオンの「カルロス王は立派な男だ(Le roi est un brave homme.)」という言い方も、これはおそらく日本語で言っての〝押し出しの立派な〞というほどの、王の身体つきのことではなかったか。
この王は、まことに押し出しの立派な男で、その膂力は万人に立ちまさっていた。体力の強いことが自慢の種で、・・・」
「一七九四年に王と王妃が正式にアカデミイを訪問したとき、この王と王妃は、自分たちが描いた絵を手土産に持って行き、
「これらの作品は余と王妃の閑暇の所産である。何等の価値もないものではあるが、余等が美術を敬愛していることを示す、一つの頒詞を意味するものである。これらのものが、(王としての)余を尊敬する者たちをはげまし、またよりすぐれたる、より完壁な作品を諸子が描くための霊感を与うるものとならんことを望む。」
と、仰せられる。
・・・
この王の底抜けの善良さと、本当に莫迦げたというところまで達した自惚をさらけ出しているものであろう。・・・」
「こういう人は、治者の側にいてはならないのである。・・・
王はしかし、少くとも、善良で、信心深かった。・・・」
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