2014年12月15日月曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(6) 「3 九段坂・青春前期」 (その2終) 「そもわが文士としての生涯は明治三十一年わが二十歳の秋、簾の月と題せし未定の草稿一篇を携へ、牛込矢来町なる広津柳浪先生の門を叩きし日より始まりしものと云ふべし。」

代官町通り千鳥ヶ淵堤上 2014-12-15
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明治31年、20歳の秋、広津柳浪の門を叩く
 《そもわが文士としての生涯は明治三十一年わが二十歳の秋、簾(スダレ)の月と題せし未定の草稿一篇を携へ、牛込矢来町なる広津柳浪先生の門を叩きし日より始まりしものと云ふべし。われその頃外国語学校支那語科の第二年生たりしが一ツ橋なる校舎に赴く日とては罕(マレ)にして毎日飽かず諸処方々の芝居寄席を見歩きたまさか家に在れば小説俳句漢詩狂歌の戯に耽り両親の嘆きも物の数とはせざりけり。かくて作る所の小説四五篇にも及ぶほどに専門の小説家につきて教を乞ひたき念漸く押へがたくなりければ遂に何人の紹介をも俟たず一日突然広津先生の寓居を尋ねその門生たらん事を請ひぬ。先生が矢来町にありし事を知りしは予め電話にて春陽堂に問合せたるによってなり。
 余は其頃最も熱心なる柳浪先生の崇拝者なりき。今戸心中、黒蜥蜴、河内屋、亀さん等の諸作は余の愛読して措く能はざりしものにして余は当時紅葉眉山露伴諸家の雅俗文よりも遙に柳浪先生が対話体の小説を好みしなり。》(『書かでもの記』)

明治34年ころまでは習作期(数え23歳、満で21歳数ヶ月) 
 「・・・これ以後、柳浪との合作の名義、あるいは柳浪の名で作品が掲載され、三十三年ごろからは「新小説」、「文芸倶楽部」、「括文壇」、「小天地」等々に自作を発表するという経過がたどられることになるのだが、三十四年ごろまでは習作期とみるべきで、まだ自己の作風を確立するまでには至らず、広津柳浪、泉鏡花、小杉天外などの模倣ないし亜流の域を出ていない。」

明治32年3月、「落語家朝寝坊むらくの門人となり、夢之助を名のつて、夜々席亭に出入」
 「・・・明治三十四年には、数え年で二十三歳に達しているが、満では二十一歳と何ヵ月かでしかない。あちらこちらに気を取られて視線が一点に集中しなくても、ある程度までやむを得まい。    が、・・・、荷風のばあいはその限度を越えている。《一ツ橋なる校舎に赴く日とては罕にして毎日飽かず諸処方々の芝居寄席を見歩》いていた彼は、《牛込矢来町なる広津柳浪先生の門を叩》いた翌三十二年の三月、まず手はじめに《落語家朝寝坊むらくの門人となり、夢之助を名のつて、夜々席亭に出入》する身となる。・・・《講釈と落語に新しき演劇風の朗読を交へ人情咄に一新機軸を出さんとの野心を抱》いていた・・・」

『雪の日』(昭和19年2月)
 「そのころの思い出を書きとめたものには昭和十九年二月の『雪の日』と、大正十二年十月の『梅雨晴』がある。前者にえがかれている情事が生じたのは《その年正月》とあるから、むらくに入門したのが三十二年三月とすれば、翌三十三年の一月という・・・。《深川高橋の近くにあった、常磐町の常磐亭》に出ていたとき、《名は忘れてしまったが、立花家橘之助の弟子で、家は佐竹ツ原だといふ》下座の三味線をひく十六、七の娘がいた。麹町へ戻る荷風とは方向がおなじなので毎夜つれだって家路についたが、ある雪の夜、蕎麦屋で酒をのんだあと路傍の材木の蔭で情をかわすに至ったといういきさつをたんたんとのべた小品文で、夢之助としての荷風の楽屋における働きぶりを知るためには読み落すことがゆるされぬ一篇である。」

『梅雨晴』(大正12年10月) : 井上唖々(本名は精一)
 《わたしが昼間は外国語学校で支那語を学び、夜はないしよで寄席へ通ふ頃、唖々子は第一高等学校の第一部第二年生で、既に初の一箇年を校内の寄宿舎に送った後、飯田町三丁目黐の木坂下向側の先考如苞翁の家から毎日のやうに一番町なるわたしの家へ遊びに来た。ある晩、寄席が休みであつたことから考へると、月の晦日であつたに相違ない。わたしは夕飯をすましてから唖々子を訪はうと九段の坂を燈明台の下あたりまで降りて行くと、下から大きなものを背負って息を切らして上つて来る一人の男がある。電車の通らない頃の九段坂は今よりも峻しく、晴かつたが、片側の人家の灯で、大きなものを背負つてゐる男の唖々子であることは、頤の突出たのと肩の聳えたのと、眼鏡をかけてゐるのとで、すぐに見定められた。》

 「・・・大きな荷物の中身は『通鑑綱目』五十余巻で、家から持ち出してきた父の蔵書であったが、坂上の荷風がかよいつけにしていた篠田という質屋へもちこんで十円とふっかけても二円五十銭にしかならなかった。それでは新宿で遊ぶのにも不足なので、二人はさらに一計を案じて、富士見町花街の入口にあって永井家のことも知っていた煙草屋へ行くと、友達が吉原から馬(=借金取り)をひいてきたので、なんとか急場の都合をつけてくれとそこの親爺をだまして金を借りる。そして、《二人は意気揚々として九段坂を下り車を北廓に飛した。》というのである。」

 「ここに《唖々子》とあるのは、俳号を深川夜烏と称した井上唖々、本名は精一で、荷風とは附属中学入学当時から親交をもって、のちに荷風主宰の文芸雑誌「文明」、「花月」の編集に協力するなど、狷介でめったに胸襟をひらくことのなかった荷風にとっては唯一といって恐らくまちがいのな莫逆の友であった。・・・、秋庭太郎の『考証永井荷風』によると、唖々は金沢藩士如苞=井上順之助の長男として明治十一年一月三十日名古屋に生まれて一高から東大独法科に進んで、病いのために中途退学したのち、籾山書店や毎夕新聞社などにもつとめたことがあるが、隠士的な生涯をおくって大正十二年七月十一日歿した。『深川の散歩』はその回想記で、『梅雨晴』は追悼記である。」

「涼風立初めし頃」、禁足を命じられる
 邦枝完二作製『年譜』の《明治三十二年(二十一歳)》の項と小門勝二『永井荷風の生涯』巻末所掲の『荷風年譜』明治三十二年の項を「つなぎ合わせると、夢之助こと永井荷風は《三月》に朝寝坊むらくの門に入って《涼風立初めし頃》には家庭内に禁足を命じられてしまっている。」
但し、『雪の日』には《その年正月》とあり《三月》とは矛盾する。そもそも『雪の日』にある「下座の女との濡れ場は荷風の創作のように思われてならないのである。」

禁足をくらった経緯は、邦枝完二作製の『年譜』によると・・・
《偶(たまたま)九段坂の席亭藤本に出演中家僕夫妻の来るに会し、忽ち事発覚に及びて、即夜邸内の一室に逼塞を命ぜらる。涼風立初めし頃の出来事なり。》とある。
但し、この「藤本」は「富士本」というらしい。

明治32年12月、外国語学校2年を除籍
 「そんなことに憂き身をやつしていた結果は学業もおろそかになって、荷風は期末試験に欠席したため三十二年十二月には外国語学校を第二学年で除籍される始末で、いよいよハンパ者になってしまった。」

明治34年1月、福地桜痴の門人として歌舞伎座の作者見習
 「そんな彼が榎本破笠の請書を得て、正式に福地桜痴の門人として歌舞伎座の作者見習になったのは、三十三年六月のことである。げんに、歌舞伎座三十四年一月興行の番附には《永井壮吉》の名が登載されている。・・・中村光夫は《一年たらずの間の「作者見習」の生活は、氏の江戸芸術に対する心酔期の頂点をなすと同時に、おそらく氏自身にとっても思ひがけなかつた新しい転回の機縁をなすものでした。》といって、さらに次のようにのペている。

 《封建的な家庭の空気を嫌悪した氏が何故見方によっては、さらに古い因襲の世界である歌舞伎のなかにとびこんだかといふことは、ちょっと考へると理解しがたいやうですが、明治の文明を「封建制度の美点を除いて、その悪弊のみ残した」と見る氏は、他に行き場所もないままに、せめてその「悪弊」が甚だしくともその「美点」の比較的保たれてゐる世界に「流宜の楽土」を求めようとしたので、このおそらく外部から見れば遊蕩児の気紛れとしか見えない行為が、氏の心の内面では純一な思考の論理に徹する道であったので、このやうないはば逆説的倫理家の面貌は、氏の生涯を貫く大きな特色と云へませう。

 当時の狂言作者の位置は対社会的にも、また劇場の内部でもはなはだ低いもので、ことにその見習となれば「一日の興行済むまでは厳冬も羽織を着ず部屋にても巻茛を遠慮し作者部屋へ座元もしくは来客の方々見ゆれば叮寧に茶を汲みて出し其の草履を揃へ」といふ風にまるで給仕代りに使はれたのですが、荷風は最初桜痴から与へられた客分の待遇を辞退して、「旦那芸は却て甚しき耻辱なれば何卒楽屋古来の慣習に従ひ寸毫の遠慮なく使役せられん事を請」ひ、来客の草履を直したり、立作者の羽織を畳み食事の給仕をするといふやうな労役に進んで服したので、これは氏の芸道への熱意の現はれといふより一種の変装趣味に近いもめがあつたやうです。昔風に云へば「やつし」の嗜好です。

 おそらく当時の氏の理想は道楽で身を過り、その堕ちて行った境遇に、道楽気を失はずに安住することであつたので、漢学者の血をひく良家のお坊ちやんが、かういふ辛い屈辱に堪へたばかりでなく、それに或る愛着さへ覚えたのは、ともかく「好きな道」のために苦労するのだといふ一種の英雄心とともに、自分を自分の手で不当に虐むといふ意識から来る自卑の満足感とも言ふべきものに支へられたためでせう。

 「つまり最初に己れと云ふものを出来るだけ卑しくして、然る後、一種超越した態度に立つて局外者を眺めて見ると、何につけ自然と巧まずして冷な笑ひが口の端に浮んで来るものである。」と「冷笑」の中谷は云つてゐますが、この「一種超越した態度」の眼は単に他人ばかりでなく氏自身をも眺めてゐたので、自分の正体を知らぬ来客などに丁寧に茶を勧める自分の姿を、わきから傍観する氏の精神はそこに何か隠れんぼ遊びに似た興味をさへ覚えたことでせう。》

永井荷風を知る上でのさまざまな示唆
 「ここには、永井荷風を知る上でのさまざまな示唆がばらまかれている。《一種の変装趣味》には『濹東綺譚』における大江匡の態度に通じるものがあるし、《一種の英雄心とともに、自分を自分の手で不当に虐むといふ意識》には索居独棲を堅持した問題を解く端緒があり、《隠れんぼ遊び》という指摘によって晩年の浅草における踊子たち・・・との交流のよって来るところも理解されるのである。」

明治34年4月、桜痴にしたがって「日出国新聞」入社、同年9月、解雇
 「・・・明治三十三年六月にはじまったその時代(*作者見習時代)も翌年四月にはあわただしく閉じられる。落語家時代は半歳余、作者見習時代も一年に充たぬ短時日のうちに終る。初代社長の採菊=粂野伝平から松下軍治が「日出国新聞」を買い取って福地桜痴を主筆としてむかえたのを機に、荷風も歌舞伎座を去って桜痴にしたがうことになったからである。しかも、同年九月には早くも社月淘汰に際して新聞社も解雇されることになるのだから、表面だけをみればいかにも腰がすわっていなかったようだが、落語家時代をもふくめて、彼は外部からそれぞれの世界を追い立てられたとみるべきだろう。が、文学一途に専心していたわけではなかったこともまた明白である。」

ゾラを知り、自己の文学的進路を見い出す
 「もともと荷風は「文芸倶楽部」に作品を発表していた関係から、博文館へ出入りして同誌の編集長である三宅青軒の知遇を得ていた。福地桜痴に紹介の労をとったのもその青軒で、きっそく訪問をしたものの容易に桜痴の面会が得られず、《せめてわが芝居道熱心の微衷をだに開陳し置かば又何かの折宿望を達するよすがにもなるべしと長々しき論文一篇を草しそつと玄関の敷台》に置いて帰宅したところ、半月ほどたってから福地家の執事であった破笠=榎本虎彦から《予て先生への御用談一応小生より承り置可しとの事に就き御乗車ありたし》という手紙を受け取った。そして、その上で桜痴にひきあわされた結果、破笠が請人となって荷風は歌舞伎庭へも入り、「日出国新聞」へ転じたときにも彼等と行動をともにしたのであったが、この動きのなかで見落すわけにいかないのは、荷風にゾラの作品をはじめて教えたのが榎本破笠だったことである。

明治34年9月、暁星学校夜学に通いフランス語を学ぶ
 習作期を脱した荷風が、ゾラによって自己の文学的進路をみいだしたことは周知の事実だが、学殖ゆたかな荷風は単なる書斎人ではない。一面において、非常な行動人である。また、徹底した意志の人である。晩年の『葛飾土産』にみられる真間川水流の探尋行のように、ひとたび興味をいだけばどこまででも歩く。つけはじめた日記は、最後の日まで書きぬく。「日出国新聞」を解雇されてゾラに憑かれた彼は、早速その月 - 明治三十四年九月のうちに暁星学校の夜学へかよってフランス語をまなびはじめている。その暁星学校の所在地もまた、黐の木坂をのぼってすぐ右手 - 九段坂上といってもまちかいではない地点である。」
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