憲法24条を「女だけの問題」にしてはいけない(深澤真紀)|ポリタス 参院選・都知事選 2016――何のために投票するのか https://t.co/3TxzlX6hcX「個人の尊重」よりも「家族の尊重」が重視され、「婚姻の自由」もなく、「家族が助け合わなければならない」...— 黙翁 (@TsukadaSatoshi) 2016年7月8日
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改正草案では、個人ではなく、家族が尊重されるべきとなっている。しかも「家族は、互いに助け合わなければならない」と書いている。憲法とは、居酒屋のトイレに貼ってあるカレンダーではない。
自民党は、世界人権宣言16条にも「家庭は、社会の自然かつ基礎的な集団単位」と書いてあるというのだが、人権宣言ではこのあとに「(家族は)社会及び国の保護を受ける権利を有する」と続いている。
ところが改憲草案には肝心のそれが書かれていない。「家族の問題は家族だけで解決しろ、国は保護しない」ということなのだ。
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自民党が24条に目をつけた背景には、男女平等阻止と、ジェンダーフリーバッシングと、夫婦別姓反対という「女の問題」に対する成功体験があったからだと言われる。同じように家族と婚姻の基本原則である24条も、「女の問題」と扱われがちだからだ。
まず日本では国連からの外圧により、1986年に男女雇用機会均等法、1999年の男女共同参画社会基本法が制定された。
ここで「男女雇用平等法」、「男女平等社会基本法」とすればよいものを、わざわざ「雇用機会均等」だの、「共同参画社会」だのという用語をひねり出したのは、どうしても「男女平等」という言葉を使いたくなかったからだ。
男女平等を女性が輝くに言い換えるあたり、「女の問題」として処理しようとしていることがよくわかる
それが現在の安倍政権の「女性が輝く社会」「一億総活躍社会」という用語につながっている。これだって「男女平等社会」と言えばすむのだ。ことに、男女平等を女性が輝くに言い換えるあたり、「女の問題」として処理しようとしていることがよくわかる。
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「個人の尊重」よりも「家族の尊重」が重視され、「婚姻の自由」もなく、「家族が助け合わなければならない」という社会は、女性だけではなく男性にとっても生きやすくはない
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