この年
・ポーランド王国、ズビフニェフが台頭し、ヤギェヴォ後継問題に介入、ポーランド・リトワニアのフス派支援姿勢を抑える。
カトリックにとどまるチェコ貴族とフス穏健派(カリックス派)とが同盟を締結、共同でフス派の実権を急進派から奪おうと、急進派中核オレープ派を攻撃。
ヤン・ジシュカは逆にこの攻撃を粉砕、オレープ派とターボル派の連合軍を指揮して一路カリックス派の巣窟であるプラハを攻撃。
敗北しプラハ市に追い込まれたカリックス派はここで和平を提案。
ヤン・ジシュカの指導力はカリックス派にまで及び、「フス派全軍指揮官」・執政官としての彼の権力は絶頂に達する。
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・フィレンツェとミラノ、戦争開始。ツァゴナーラ(ザゴナラ)の戦い。
フィレンツェ、ミラノに大敗。ジョヴァンニ・デ・メディチ、大使としてヴェネツィアに赴き、フィレンツェとヴェネツィアの同盟成立。
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・ミラノのスフォルツァ家始祖ムティオ・アッテンドロ(55)、没。息子フランチェスコ(23)、後継。
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・東ローマ、オスマン・トルコに年貢金と軍務の受入を再開。
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1月29日
・ヴェネツィア、1年間、グィード・アントーニオ・ディ・モンテフェルトロ、軍司令官に就任
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2月2日
・スコットランド王ジェームズ1世(イングランド抑留中)、サマーセット伯ジョン・ボーフォート娘ジョアン(ヘンリ5世従姉妹)と結婚。
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2月5日
・鎌倉公方足利持氏が謝罪し、前将軍義持が持氏と和睦。
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3月3日
・京都から鎌倉公方足利持氏に使者照西堂が派遣。前年8月の小栗満重らの誅伐に関する咎め。
持氏は弁明書を差出し、使者は5月10日上洛。
9月、再び使者が下向し和睦。
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3月11日
・狂言。
《公家人疲労の事》を風刺する狂言があった・・・
「猿楽昨日の如し。・・・抑猿楽狂言に公家人疲労の事種々狂言せしむと云々。この事然るべからざるの間、・・・楽頭を召して突鼻し了ぬ。当所は皇居なり。公家居住の在所に公家疲労の事種々狂言するは故実を存ぜざるの条、尾篭の至なり、向後のために突鼻し了ぬ。且つ山門において傍例あり、猿楽猿の事狂言せしめ、よって山法師猿楽を刃傷せしむと云々。また仁和寺において猿楽狂言に聖道法師比興の事共を狂言せしめ、御室より罪科せらると云々。かくの如きは皆、在所について斟酌あり、故実を存ぜざるの条奇怪なり、楽頭を召し放つべきの由勘発し了ぬ。よって楽頭更に存知せざるの由、種々陳じ謝し申す。比興也」(「看聞御記」同日条)。
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3月28日
・スコットランド王ジェームズ1世、イングランドでの捕囚を解かれ帰国。両国間の7年間の和平協定締結。
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4月5日
・ヴェネツィア、フリウリで塩の売却のため、ジョヴァンニ・デ・ウーディネと契約
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4月12日
・第99代(南朝4代)天皇後亀山上皇(75か78)、没。
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4月26日
・ヴェネツィア、ベッルーノの法規改革を承認
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5月21日
・スコットランド、イングランド抑留から帰国のジェームズ1世、スクーンで戴冠式。
直ちに初議会召集。条例第1号上程。法の下に国民が平和を得る。土地所有権の乱れを正す。叔父オルバニー公の処罰。
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6月
・マレショフの戦闘(クトナー・ホラ近く)。
ジシュカのフス派、プラハ領主軍に徹底的打撃を与え、プラハ軍に講和と、モラヴァ遠征同行を強いる。
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6月14日
・石清水八幡宮の神人ら、新座の停止を強訴。
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8月5日
・仏、イヴリー降伏。
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8月12日
・[明・永楽22年7月18日]永楽帝、北征中に没。仁宗洪煕帝、即位。
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8月17日
・ヴェルヌイユの戦い。
イングランド・ブルゴーニュ軍、仏王太子シャルル(後の7世)軍に大勝利。北フランス大半を制覇。
シャンパーニュのセザンヌの町の周辺の村が制圧される。
この年、ヴィトリーの町が降伏。隊長ラ・イールは町を脱出。
ボーヴェー司教ピエール・コーションがイギリス側で降伏に立合う。
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9月28日
・仏、シャンベリー休戦協定。王太子派(シャルル)とブルゴーニュ派(フィリップ善良公)。
1425年3月、ブルゴーニュ派リッシュモン伯アルトゥール、フランス王軍長に就任。
ブルゴーニュ侯の中立表明、王太子側からのブルゴーニュ侯領への不可侵が取り決め。
ブルゴーニュ侯、この協定において王太子を「王」と呼ぶことを許容、ヘンリー6世を戴くイングランド・ブルゴーニュの協調路線は崩れてゆく。
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10月
・ネーデルランド、ヤコバ(ジャックリーヌ・ド・エノー)、夫のグロスタ候ハンフリーと共にイギリスより帰国。エノー・ホランド・ゼーランドに侵攻、エノーを占領(1424~1425)。
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10月1日
・地震あり。幕府、諸社をして祈らしむ。
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10月11日
・ボヘミア、フス派の指導者ジシュカ、ペストで没。
プラハの司祭アンドレアス・プロコプ(44)、急進フス派指導者となる。
オーストリア公アルブレヒト5世(ハプスブルク家出身:ジギスムント皇帝の女婿でもある)が皇帝の要請をうけてモラヴィアに侵攻、これを迎え撃つために出陣のの途中ペストにかかる。
1420年代後半、ターボル派・オレープ派は急進派(ターボルとフラデツを夫々盟主とする都市同盟)、プラハの旧市街とベロウン市、リトムニェジツェ市、ムニェルニーク市、コリーン市、フルジム市、ポリチカ市が穏健派に留まる。
プラハ市では旧市街と新市街の対立激しく、政争が相次ぐ。そんな中、ロキツァナのヤンという非常に若い聖職者が登場、穏健派の要求に賛成すると同時に急進派にも理解を示し、多くの支持を集める。
プラハのロキツァナのヤン、ターボルとオレープ派の代表プロコプ。この2人が、この戦争とフス派の行く末を決めることになる(プロコプはドイツ国内に兵を進め、バルト海岸まで進軍)。
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11月1日
・ゴリツィア伯、ヴェネツィア共和国に封土を受ける
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11月7日
・ヴェネツィア、水不足の上大寒冷。
11月7日から翌4日まで旱魃。4月から8月まで疫病続く
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11月20日
・鎌倉公方足利持氏弟の満貞、京都との和談を心配して、奥州には目代を残し鎌倉に上る。
24日、持氏は永安寺で満貞と対面。27日にも。
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