2018年9月5日水曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月1日(その5)「多数の朝鮮人が殺傷されたことは事実ですし、トビロで脳天を割られたものがあったこともたしかな事実でした。検問所の尋問に引っかかった日本人も、靴りがひどかったり、雰囲気にけ押されてはきはき返事をしなかった者などが、みな被害を受けました。」(大河内一男『暗い谷間の自伝 - 追憶と意見』)

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月1日(その4)〈1100の証言;墨田区/旧四ツ木橋周辺〉「あくる日、土手に行くとおまわりが立っていた。殺された朝鮮人はずいぶんいた。20〜50人ほども殺されていただろうか。殺したのは一般の人だった。鉄砲のある人は鉄砲、刀のある人は刀を持ってたから。.....」
からつづく

大正12年(1923)9月1日

〈1100の証言;世田谷区〉
斉藤長次郎〔世間谷三軒茶屋の近衛砲兵連隊の兵営で被災〕
〔1日、皇居警備から帰ってくると〕そのうち、朝鮮人が暴動を起こしたという流言蜚語が伝わり始めた。「今、暴徒が井戸に毒を投げ込みながら、この連隊目ざして進撃しつつある。その先鋒は、すでに三軒茶屋に突入した」などという情報が届く。東京の空は、すでに大火災の黒煙でおあわれて、まさに地獄の様相だから、そんな流言が真実感を帯びて聞こえる。
我が連隊では、野砲を引き出し、営門のところに1門、そのほか3門を配置して、これに空砲を装填し、いっせいに発射したから、いや、その轟音は百雷が一時に落ちたよう。
飛び上がって驚いたのは、付近の住民たちだ。何しろ、皇居のあの午砲でさえ、遠く郊外まで、ドーンと聞こえて、雑司ヶ谷で草刈りをしていたおじさんが、「さて、飯にすべえか」と腰を上げるという、それほど静かで空気も澄んでいた時代のことだ。4門の野砲の一斉射撃は、市民たちを腹の底から揺すりあげ、恐慌状態にしてしまった。「戦争が始まった。兵隊屋敷に逃げ込めば兵隊さんが守ってくれる」「そうだ、兵隊屋敷がいい。みんな、逃げ込め」
兵隊屋敷というのは、兵営の俗称。ワッとばかりになだれこんだ地方人(民間人)で営内は超満員。今になって考えれば、ずいぶん馬鹿げたことのようだが、そのときは、誰もが目を血走らせていた。
(斉藤長次郎『がむしゃら人生 - 体験の仏教』仏乃世界社、1973年)

徳富施花〔作家〕
9月1日の地震に、千歳村は幸に大した損害はありませんでした。〔略〕鮮人騒ぎは如何でした? 私共の村でもやはり騒ぎました。けたたましく警鐘が鳴り、「来たぞゥ」と荘丁の呼ぶ声も胸を轟かします。隣字の烏山では到頭労働に行く途中の鮮人を3名殺してしまいました。済まぬ事羞かしい事です。(1923年12月)
(徳富盤花『みみずのたはこと・下』岩波書店、1950年)

山本八重〔山本七平の母〕
〔1日、山本七平の生家・世田谷区三軒茶屋で〕そのとき、表の道路を髪を振り乱し、子どもを抱え、裾をからげた裸足の若い女が、「大変だあ、殺される!」と叫びながら、家の前にあった野砲第一連隊の正門へと走りこむのが見えた。なにごとか、と近所の人たちはみな道路へ出た。と、だれ言うとなく、玉川の河原にあった朝鮮人の集落から朝鮮人が大挙して押し寄せてきたとの噂が流れ、それは間もなく、彼等が集団で家々に押し入って手当たり次第に略奪し、所かまわず放火し、井戸に毒を投げ込み、鎌で女、子どもを切り殺しているという流言蜚語に変わった。
八重ははじめ半信半疑だったが、電話が通じないことは電話局が壊滅したということであり、それなら警察署も潰れているだろう。もうだれも自分たちを保護してはくれないと思い、七平を背におぷい、姉2人の手をひいて、玄関口に「みな無事です。兵営に避難しています」と張り紙をして野砲兵連隊の兵営に逃れた。母子が入ったのは連隊の厩舎だった。
(稲垣武『怒りを抑えし者 - 評伝・山本七平』PHP研究所、1997年)

〈1100の証言;台東区/浅草周辺〉
来馬琢道〔僧侶、政治家〕
〔1日夜、浅草公園で〕浅草の各興行物の家屋もどんどん焼けて、時にボーンボーンと大きな爆弾を投げたような音がきこえる。瓦斯管とか、建築用材中の鉄管とかいうものが熱のために中の空気が膨張して爆発するのだろうと思ったが、この音が後に朝鮮人が爆弾を投げ込んだといいふらされた音である。もし真実そう思っている人が多いならば、朝鮮人はよほど迷惑を蒙ることであろう。
〔略。2日夜、浅草公園の仏教青年伝道会館で〕そのうちに後の方から青年団員とかいう人が大きな声で叫んでいうには「只今朝鮮人の一団がこの方面に向って進撃して来るそうでありますから、我々も極力防戦する決心でおります。諸君はどうか、この会堂を出て庭の方にて万一の用心をして下さい」と、かなり凄い言葉であった。
〔略〕会堂を出て観音堂の後を一回り回ってみたが、一面の焼野原で、たいして避難者も見えない。いずれも朝鮮人の襲来に対して怖れを抱き、どこかへ逃げたのであろう。所々に関門を作って警衛しているのはいずれも青年団や在郷軍人会の諸君であるから、予の顔を知っていたのでまず無難に通れたが、顔を知らない人が通ると、鬚の生えた顔では、或は朝鮮人と間違えられたかもしれない。何処を見るのも気味が悪いから、又そのまま会堂の中で寝てしまった。
(『一仏教徒の体験せる関東大震火災』鴻盟社、1925年)

〈1100の証言;台東区/入谷・下谷・根岸・鶯谷・三ノ輪・金杉〉
大河内一男〔経済学者。下谷で被災〕
激震があった直後、交番の巡査が父の家へやって来て、みんなが庭でまだ落ち着かない不安な気特でいるのに対して、午後3時に第二回目の激震がありますから、といって敬礼をして急いで帰っていったことがありました。
〔略〕おおかたの飛び交う噂は悪質のものでした。「主義者」が革命を計画しており、ロシアの「労農政府」が裏で操っている、とか、政府は社会主義者を一人のこらず逮捕する方針をきめた、とか、いろいろありましたが、余震がまだ完全にはおさまりきらないさなかに、朝鮮人が井戸に毒を投げ込んで回っている、とか、朝鮮人が埼玉県の川口町から大挙して東京市内に押し寄せてくる、などと、まことしやかに喧伝されたものですから、そんなことは考えられない、とは思ってはいても、あるいは、などと身をひきしめたものも少なくなかったようです。
とくに父親の家のあった下谷は下町でしたから「流言蜚語」にはかかりやすい血の気の多い連中が多く、六番組などというまといをもった町の消防団兼私設防衛隊のようなものが、江戸の伝統を引いてまだ顔をきかせていたのですから、戒厳令下の「流言蜚語」が効果を発揮する最適の土壌だったと言えるでしょう。さっそく、町会やら隣組やらが中心になって朝鮮人襲来に備えることになったというわけです。
町内の要所要所にはテントの小屋がけが出来、家々から若い男子が駆り出されました。私なども駆り出された一人ですが、詰所へ出かけてみて驚きました。トビロを手にした六番組の若い衆が大勢おりますし、夜の闇のせいで異様な雰囲気のなかに、土族あがりの老骨らしいのが槍を手にして立っていたり、太刀を腰にぶちこんだ者もいる有様でした。おそらく昼間みたら、誰もがひきつった頬、血走った眼をしていたに違いありません。
もちろん朝鮮人の襲来などはありませんでしたし、井戸に毒物が投げ込まれた事実はどこにも見あたりませんでした。
〔略〕多数の朝鮮人が殺傷されたことは事実ですし、トビロで脳天を割られたものがあったこともたしかな事実でした。検問所の尋問に引っかかった日本人も、靴りがひどかったり、雰囲気にけ押されてはきはき返事をしなかった者などが、みな被害を受けました。
(大河内一男『暗い谷間の自伝 - 追憶と意見』中央公論社、1979年)

上條貢〔当時金竜小学校教員〕
〔1日夕方、入谷89番地の自宅で〕「いま津波が東のほうから押し寄せてきた。早く逃げろ!」と大勢の人々が口々に叫びながら真青になって駆け出して行く。四囲の家々も軒並みに空になっている。
〔略〕坂本通りに出てみると、向島、浅草方面から来た眼の色を変えた避難民が通路を埋め立錐の余地もない。〔略〕坂本2丁目の停留所から鶯谷駅入口に至るまでに1時間も要した。
〔略〕私たちは鶯谷駅北側の鉄道線路の上に一夜を明かすことにした。夜中の12時頃金竜校の方向に大きな建物がさかんに燃えているのを見た。後で聞いてみると、ちょうどその時刻に、金竜小学校は西側から火がつき、焼失したということである。夜中うとうとしていると、日暮里方面から「朝鮮人が大勢で襲撃してきたから逃げろ。命をとられるぞ!」と叫びながら線路上を群集が逃げてくる。私たちも一緒になって逃げ出した。
(上條貢『幾山坂 - わが半生記』共同出版、1971年)

木村東介〔美術収集家〕
私はその時〔震災時〕鶯谷の線路に逃げた。敷布団と掛布団を線路に敷いて、南のほうの空に立ち昇る黒煙を見ていた。マイクなどのまだない頃のことである。ボール紙で作ったメガホンをリーダーが持って、「ミナサーン! 井戸水に気をつけて下さい! 井戸の中に劇薬が投げ込まれました! 缶詰缶は大方爆弾です! ミナサーン、缶詰缶に気をつけて下さい……」
また別の声で「只今、本郷方面から上野方面に向かって、朝鮮人が7、8人押し寄せて来ました。皆様用心して防いで下さい・・・・・」
車坂、道灌山、鶯谷、日暮里にかけて、線路つたいに集まっていた3〜4万人の大群衆は、ワーツと吼えるようにそれを迎え撃つべく鬨の声をあげ、総立ちになった。
(木村東介『上野界隈』大西書店、1979年)

(つづく)




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